メロンダウト

メロンについて考えるよ

ブログ村からきたはてなーが語る互助会

実は自分も互助会的活動をしたことがあるんですよね。はてなではやったことがないけど以前に書いていたブログはブログ村に登録して書いてた。

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ブログ村に登録したブログの記事内でクリック(はてなのブクマと同じようなもの)してと読者にお願いしていた。

はてなではあからさまに興味のないブログをブクマすると互助会認定されるみたいだけどブログ村ではむしろそれがデフォルトで記事を読んだらクリックするというのがふつうだった。互助るのがむしろマナーのような感覚だった。

 

だからはてなにきて互助会の存在を知っても第一印象は「マナーの良い人達」だった。しかしはてなブックマークを見てブックマーカーからは嫌われていることを知った。ブログを書いている身としてはブックマークされることは単純に嬉しい。

SNSを使いネット上に記事を投稿しているのはそれがごくわずかであれ誰かに読んでほしい欲求がある。ブックマークされたり星をいただけることで嫌な気持ちになる人はいない。だから互助会問題はブックマーカー側の問題であってブログの問題ではないと思っている。ブログ村からきた自分からするとブログは当然互助る。そんなことは当たり前の現象に感じる。

 

で、ブックマーカー側の視点での互助会批判を見てみるとはてなの新着にあげて読者数を水増ししてアドセンスなどの広告による収益を得ることが「気に食わない」という意見みたい。

これはブログサイドからすると無知な意見に見える。はてなブックマークのホットエントリーにのっても一日二日、読まれるだけでアフィリエイト目線で見たらほぼ無意味。このブログも昔プチ炎上たことがあってはてなのトップページに掲載されたことがある。当該記事は削除したけど

その時にはブックマークからの流入は6000ぐらいで2日でほぼ0に戻った。しかもグーグルなどから検索して興味を持ってくる人と違ってはてなから来る人は一読して去る人達ばかりでCTRが低い。

はてなブックマークに掲載されるにも種類があってそれが良質の記事で固定読者が増えればブログの収益にもつながる。しかし互助会と批判されているような人達の炎上や質の悪いスパム記事ははてなブックマークに掲載されても無意味。だから互助会は炎上商法という批判は成り立たないんじゃないかな。

そもそも質の悪い記事ってなんだって話にもなるしね。

 

 はてなブックマークの質を保つために互助会の記事はスパムであるという意見について

これは僕はもう宿命みたいなものだと感じてる。ブログ村なんかはてなブックマークよりも全然ひどくてブログを世俗化した人間の勝ちだった。

 

上位はほとんどが猫ブログで古参ブロガーの独占状態みたいになってる。各カテゴリー別に見ても上位のブログはおちゃらけたブログでいかに読者に媚び売ってバナーをクリックしてもらってランキングをあげるかみたいな状態。

文章力などどこへやらでキャラクター戦争、PR戦争になっててかなりカオス。だけどもうそれが表現物の宿命なんじゃないかと思ってる。

小説より漫画のほうが売れるしDVDよりAVのほうが売れる。思考を要する記事は使用する人とその人の状態を限定する。俗っぽい表現物のほうが書籍みたいな思索に富むものより需要があるのは当然。そしてなんかむしろそのほうが平和である証左で良いんじゃないかなと僕は思ってる。

 

だからブックマークの質という意見もどこか批判するための批判に見える時がある。記事に高尚さを求めているんだけど記事の高尚さをブログに求めている時点で壮大な勘違いをしているんじゃないか。

 

ブログは自由だしなによりも誰も批判しないますだのほうこそうんこだらけじゃねーかと

格差は必要悪~三宅洋平氏はソ連が崩壊した理由を知ったほうがいい~

もし知らなかったらね。

またすこし政治について書いていくことにする。

三宅洋平さんの演説に出くわして15分ほど眺めYoutubeで演説の全てを見た。印象としてはチェ・ゲバラを想起させるような長髪とヒゲを蓄え、それでいて目がギラギラと輝いていた。すこし危うい人だなと思ったが感情に訴えかけてくる演説はさすがにミュージシャンだなと思った。彼らは人に言葉を届けるという意味では誰よりもプロなのだろう。しかしよく聴いていると現政権にたいしてのリアクションであってアクションではなかったので判断しかねる。

気になったのが彼の言葉で革命に関してこんなことを言っていた

革命という言葉は上が下になり下が上になるという定義が存在します。違う。俺がやりたいのはじゃあ革命じゃない。上も下もない世界を作りたいのです。

これはまんま資本論マルクスが書いた資本主義批判と同じ。もしくは福沢諭吉の名言「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と同じ理念を掲げている。すばらしい。異論の余地なくみんなで格差をなくそう・・・

そうして実際に完全平等な社会主義をうたいつくられた国が存在した。ソ連だ。しかし周知のとおりソ連という国はもうない。ソ連がなぜ崩壊したのか。建国の理念であった社会主義をかかげどこよりも平等な社会をつくろうとした国はなぜ崩壊したのか。マルクス福沢諭吉、そして誰もがうなずく平等な社会を築こうとしたソ連がなぜ崩壊したのかを知ることで人間の業がすこし見えてくるので今回の選挙の投票の一助にしていただきたい。

 

まず大前提としてマルクスがかかげたのは資本論という本のタイトルからもわかるように資本主義の話であって社会主義共産主義を推奨していたわけではない。ソ連が崩壊したのはソ連の問題であってマルクスは「ただ本を書いただけ」である

ソ連の産業崩壊

ソ連崩壊についてよくある単純な話が「全員が平等なんだから誰も働かなくなった」から崩壊したという話。これは至極単純にした話なので過程を見ていくともうすこし飲み込みやすくなる。

例えばある繊維工場で労働者も責任者も全員が同一労働同一賃金、格差は一切なしという待遇で仕事をすることになる。三宅さんの理想を実現した形だ。週休2日毎日8時間労働で決められた時間働き決められた給料を貰う。つまり全員がアルバイトという雇用形態。

しかしある日繊維を折る機械が壊れてしまい直すために発注元と連絡をとる責任者が生まれる。そうするとその瞬間にこの責任者は同一労働同一賃金ではなくなってしまう。

さらに不足の事態で勤務時間外に工場が火事になってしまったとする。誰かがかけつけて消火しなければいけないが誰も時間外に働く義務がないので工場は燃えてなくなってしまう。そうして全員が決められた労働基準にそって仕事をすると誰も責任を取らなくなり不足の事態に対応できなくなる。

それが農業では飢饉につながる。いままで大地主が持っていた土地を国有化し労働者全員に均等に割り振り同じ仕事量で同じ収穫量を得ようとした。しかしこれも工場と同じように夜中に突然嵐がきたり時間外労働が必要な農業では駄目になってしまう。

そうしてあらゆる産業がパニックを起こし生産活動がたちゆかなくなる。

当然、利害を超えて動く例外的な人もいる。しかしこれが国全体で起きるとなると致命的な打撃となって国が維持できないレベルまで衰退してしまう。

 

 独裁者の誕生

一方で政治はどうだったか。初代指導者はレーニンであったが彼は建国の理想を実現しようとした。ここでもなによりも平等が重視された。

平等といっても意見が割れることがあり指導者が必要となる。じゃあ指導者も他の政治家と同じ待遇で良いのか?という議題が出る。

指導者は権力を持っているのでセキュリティーが甘ければ簡単に命を狙われてしまう。だからSPをつけ良い家に住み冷静な判断を下せるようにあらゆる雑事から逃れて政治に集中できる環境をレーニンに与えた。レーニンはそれでも社会主義という理想を実現しようとあくまで殊勝に国のためにつくす。

そしていずれはレーニンはいなくなってしまうので新たな指導者が必要になる。その時

 

に近くでレーニンの待遇を見ていた側近達は彼の生活が羨ましいと我こそがと理念ではなく利害で指導者になる。そして理念ではなく利害を追求する独裁者が生まれる。『血に塗れた独裁者』と呼ばれるスターリンだ。工業化をすすめるために農家を抹殺してしまったり悪政のかぎりをつくす。マルクスが考えていた労働者のための資本主義批判ではなくただの強権的な独裁をするようになる。

このように政治でも労働者の堕落と同じように欲望に向かう人間の業が出てしまった。

 

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

 

 

ソ連が教えてくれたことは

人間は弱いし堕落するしサボるし欲望には枷が必要

 だからその後、世界では格差は許容しながらもなんとか全員が働いて自由な生産活動を行うことによって経済をまわしていこうという資本主義がスタンダードになった。そして政府の役割は市場がいきすぎたら介入するよという修正の立場にたつことになる。

 

格差は必要悪

ソ連が崩壊したことによって社会主義の平等幻想はただの理想論で現実には格差は必要悪であると確定した歴史があることを忘れてはならない。人間が平等になるというのは原理的に不可能なんだ。

これは格差を否定しているピケティも言っていることで資本主義以外にまともに機能する経済システムは存在しない。

だから上も下もない社会という三宅洋平さんの演説は理想論だ。しかし否定はしていない。いまは格差がいきすぎた状態なので格差をなくそうという運動は大切な運動だと思っている。今のように格差があったり80年代のようにあまりなかったりと波を形成しながらなんとか維持していく。好況不況もそうだ。

だから格差をなくそうという運動自体も理念も否定してはいけない。いっぽうで完全平等な社会は絶対に実現してはならない。けれど資本の均衡を保つ運動をすることもまた大切なこと

 

だから僕は上も下もない世界を実現すると三宅さんが本気で言っているのであれば支持できない、いっぽうで格差をなくす運動自体は支持したいのである。

与党なき選挙、そして野党すらない選挙

参議院選挙が始まる。正直もうどこにも投票したくないので無所属の方に入れようかと思っている。選挙をボイコットしたいのだがそうすると投票率が云々という話をしてくる人がいるので選挙には行くのだが投票したい政党がないのでボイコットしたい。

ボイコットを表明するために白票があるのだろうが白票なんてあやふやなものではなく選挙ボイコット票のような形で意思表明できる手段があればいいのに。

支持政党なし。それがこの国の国民の声なんだろう。それはずいぶん前から言われてきたことでなにを今さらと言われるかもしれないが個人的な話をすればこれほど選挙に興味がなくなったのは成人して選挙権を得てから初めてだ。

 

もうなかば諦めている。グレートリセット新自由主義もトリクルダウンもTPPもなにもかもなにひとつ僕の肌に触れて感じた結果はなかった。なにしろ僕が生まれて自我が芽生えてからこの国が好景気に湧いたということが一度たりともないのだ。一度もだ。それでどうして政治や経済に期待することができるのだろうか。国に期待していないとかいうわけではないし感謝もしている。

僕が車で走る幹線道路も公共事業で作られたものだ、健康保険も年金もあらゆる福祉も教育もなにもかも今ここに僕がいるのは国のおかげだということも承知している。国に義理を感じないわけではない。ただもう絶対になにも変わらないだろうというじくじくたる諦めが僕のなかの政治への思いを粉々にしてしまったのだ。この20年、そして成人してからの数年によって。

おそらく市場競争が公権力を超えたところで動いているのでもうどうしようもないのだろう。いまここにあるものを守るだけでとんでもない努力を要するものなのだろう。グローバル化する世界で一国の利害を超えたところで勝手に人・物・金が蠢くようになり国が管理して予測できる範疇を逸脱している。だから「おい政治家よ、ちゃんと仕事しろ」などという気にもならない。ただもう何も変わらないと、結論をつけそうになっているだけだ。

 

 

 

すこし具体的な話をしていこう。

僕が政治に興味を持ち出した最も古い記憶が小泉・竹中政権のころだった。XJAPANが好きだった小泉首相に若かった僕は単純に好意を抱いたのが僕の政治的原風景だ。新自由主義を掲げ郵政民営化や派遣法の改正などいまにして思えば愚策のかぎりをつくした政権だ。国民には人気があった。たしか支持率で8割を超えたんじゃなかったかな。その実態は人気ばかりで行ったことはまぎれもなくこの国の労働形態の破壊であって現在まで続く非正規労働者や貧困の最も大きな要因になった政権だった。しかし当時は小泉さんもそんなことわからなかったのかもしれない。小さい政府が市場経済を促し株価をつりあげ好景気に向かわせるものだと信じていたのかもしれない。国民を犠牲にして格差を拡大するのを是と考えているようには、少なくとも僕には見えなかった。

 

その後自民党の中で首相が安部さん、福田さん、麻生さんなどなどと転々としていたがそのころのことはあまり覚えていない。覚えていないということは良い政権だったんだろう。政治家や官僚の功績はだいたい報道されないので僕の耳にまで届かない。

 

そして民主党に政権が変わる。当時メディアで気持ち悪いくらいに自民党にたいするバッシングがあったことを覚えている。故・中川さんのお酒の問題や誰だか忘れたが3000円のカレーなどどうでもいい報道を耳にした。もう冷静に判断がつくような年になった僕にとってあの報道はとても気色悪いものだったことを覚えている。そしてそんな報道を真に受けた国民によって民主党政権が生まれる。

たしか嘘みたいに理想的なマニフェストを振りかざしてこの国を変えると息巻いていたがほぼ全部嘘のまま民主党政権は終わった。あの民主党政権に国民が期待していたのは「変化」だったのだろうがドル円相場は80円までさがり日系平均は8000だか9000円まで下降して自民政権になってから暴騰した。ただ今になって思ったのがあの時のドル円相場を見てみると

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下降しながら月足で支持線を受けて上昇しながらちょうど抵抗線をブレイクした瞬間だった。テクニカル的に超重要な節目でちょうど自民党に政権が変わったことを考えると民主党政権のままでも上昇していたんじゃないかとたまに思う。アベノミクスの日銀介入で急上昇したがあれほどの暴騰がなくても今現在の値はそう変わらなかったのではないか。これは結果論なので意味のない話であるが。

 

そんなことより民主政権になって国民が期待したのは「変化」だった。この変化というのは魔性の言葉でなんかつまんねーなとか面白いことないかななんて日常生活でも思うことがたびたびあるが、何か変わらないかなと考える人間が望むのは別に良い変化だけではない。なんかそのへんのちょっと自分には被害が及ばないけど刺激的な事件に遭遇しないかななんて考えることもある。変化のよしあしは関係なく人は変化そのものを望むんだ。チェンジチェンジと連呼してオバマさんが当選したけどあれも良い悪いを超えて変化を望む人間の習性が出ただけなんだろう。

だから日本も同じことをした。変化を期待していた。なにかを変えることは良いことだと考える。しかし何かを変えず守り続けるというのはつまらないうえに努力を要するしマスコミには報道されない。しかし影で変化に耐え甚大な努力をしている官僚も政治家もいる。そういう人に僕は投票したい。おそらくもうこの国が考えるうえで可能な変化はやりつくした。もう何も変わらないし変えようがない。株価などつりあげても国民に波及など絶対にしない。少子化問題も待機児童という(失礼だが)瑣末なものが原因ではない、生まれてこのかたいちども経済的に希望を見出したことがないこの国でどうして子供をつくろうと思うのか。

 

義理はある。感謝もしている。しかし僕は政治にたいして完膚なきまでに諦めている。僕の日常は民主党の時と比べても何ひとつ変わっていない。もうどこが政治をやろうがどうでもいいし政策もどうでもいい。何も変わらない。だからなるべく静かな人に投票しようと思う。もうこの国がこれ以上変化しませんようにと