メロンダウト

メロンについて考えるよ

新卒一括採用撤廃が若者を殺す日

Yahooが新卒の撤廃や週休3日制を導入するとニュースになっているが僕が抱いた感想は単純に「儲かっている会社は良いよなあ」でしかなかった。大企業のワークライフバランスを整えるのはそれはそれで模範になるので良いことなのだが実際には週休3日じゃたちゆかない企業だらけだから週休2日になっているだけで働きたくないから働かないのは選択肢がある企業に限られているんですよね。

サービス残業や低賃金の問題もそうで全部が全部経営者の責任であるならば社員みんなでまったく同じ業務内容で独立して新しく起業すれば万事解決となるのですが、そうはなっていないのは経営者が無能だということではなく単に売り上げや市場全体のキャパシティーがないからでしかなかったりすることも多い。

 

安部首相も労働環境の改善を政策として掲げていますけど実態が追いついて余裕を分け与えられる環境があってはじめて機能するのであって単純にじゃあ明日から週休3日ですって言ったら潰れる中小企業がかなり多く出るでしょう。だからYahooが週休3日になったと聞いてもああ、そりゃ良かったねとしか思えない。むしろYahooが業務縮小してパイを他の企業に振ったほうが功利的にはよくなるんじゃないかという疑問さえある。しかしそれを差っ引いても生産効率の面から見て日本は働きすぎなので週休3日で維持できない企業には仮にGDPや経済規模が縮小したとしても潰れていただくというのは個人的には賛成なのですけど・・・おそらくそうなったら路頭に迷う人がそうとう出ることになってしまう。だから安易に賛成と表明することはやめておきます。

 

 

それはそれとして週休3日制ではなく新卒採用の撤廃はこれが良いニュースなのかどうかがわからない。新卒という特権自体は無能な若者を社会が受け入れるための制度であって若者の無能さと社会人の能力とを埋める役割であって階級移動の道具なんですよね。それは大多数の非新卒の社会人から見たら若いだけで大企業の書類選考を通過して1mmも役に立たない旅行の話を面接でしてそれで受かっちゃうなんて嫉妬以外ない。それで多くの人が新卒に反対していると思うのですけど若者のためを思うのであれば新卒制度を撤廃すべきではないんですよね。

 

理念としては平等に競争するとか新卒のレールから外れたら戻れない不満などが新卒制度にたいする反対材料となっているのでしょうけど、平等になればなるほど能力のない人間≒若者は社会から排除されていくことになるのは間違いないと思うんですよね。新卒制度は福祉的な側面があって新卒だから社会人との競争から外れたところで大企業が面接してくれるので若者の雇用政策としては新卒制度以上のものはないとすら思います。個人的にはもう僕は新卒ではないので新卒制度を撤廃してくれたほうが望ましいのですけど社会的な側面から見た場合には若者はさらに就職が困難になるとは思いますよ。

実際、アメリカでは若者の失業率が日本より高いですけどあれも新卒採用がないという側面が一因としてあると思うんですよね。アメリカの大学は日本のようなゆるい感じではなくて実績をつくったり研究したりと遊んで卒業できるということはほとんどなくてそれが時にポジティブに報道されていたりするのを見ますけど新卒制度がないから大学生の時にそういう活動に駆り立てられているだけで、逆に考えればそれだけしないと就職できないほど若者は雇用で保護されていない国だと言うこともできます。

少子化問題や賃金など日本は若者に厳しいと、ところかしこで聞かれますが若者はある程度はレールが用意されていて特別な能力がない人でも社会の上層に組み込まれるようになっているんですよ。受験勉強なんかもそうであれも暗記能力やノウハウの努力でなんとかなってしまうことを考えると社会に出て求められる能力で若者を採用しないことが逆説的に若者の階級移動に寄与しているんですよね。

若者のためということを考えるのであれば新卒制度を社会全体で失くすっていうのは愚策であって行うのであれば現行の新卒制度を並行したまま中途採用の敷居を低くすることが最も良いのではないかと思うんですよね。

先崎彰容さんとズイショさんに学ぶものさし不在の時代という複雑さに耐える覚悟

このブログでも取り上げたことがある先崎彰容さんとはてなブログのズイショさんの言っていることがすごい似ていると思ったので記事にしてみます。お二人に共通している考えはこの多様化、急進化する社会における思想的リテラシーの持ち方についてなのでしょう。思想なんていうと抽象的すぎるきらいがあるので具体的な言い方を試みるならば軸足の置き方みたいなものでしょうか。

 

ズイショさんはこちらのエントリーで以下のことを書いていました。

zuisho.hatenadiary.jp

私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない。僕はこの言葉を目にした瞬間、泣きたくなった。僕が、こうありたいと思うのは、まさしくそういうことであった。態度で示すしかないと思っていたことが、言葉として自分の目の前に現れることは、なんとこうも頼もしい。私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない。本当にそう思う。ルービックキューブのシールを剥がしたあの時の私は、たしかに複雑さに音を上げたのだ。

 「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」この言葉はズイショさんの記事を読むともともとは美智子様の言葉でズイショさんはこの言葉をはてなブックマークのコメントで知ったようです。それを見てズイショさんは態度としてしかわからなかったものを言語化している人がいることに衝撃を受けたと書いています。このズイショさんの文章を見て自分もまったく同じ感情を味わったことがあることを思い出しました。先崎彰容さんのことです。

「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければいけない」という言葉を先崎さんはこちらの著書「違和感の正体 (新潮新書)」のなかで「ものさし不在の時代」「処方箋を焦る社会」という言葉で美智子様、ズイショさんと同じことを書いているのです。

終身雇用が崩壊してしまい個人主義が蔓延して高度経済成長時に国民全員がビジョンとして抱いていた3丁目の夕日はなくなり多様性の名のもとに個人を集団に繋ぎ止めるものもなくなった。個人がバラバラに分断され砂粒化した現代においては全ての物事を自己決定しなければならない。そういった状況では人々は極めて短い時間で極めて即効性の高い処方箋に飛びつきやすくなることを先崎さんは「処方箋を焦る社会」という言葉を使って表現しています。

「何でも信じていい世界の裏返しは何も信じられない世界に直結しています」。そして「何も信じられないことに耐えられないとすれば、そこで何かを、しかも、これしかない何かを盲目的に信じようとする力が働くのです」と姜尚中は言うのです。相対主義の時代には、各人バラバラに正解を導き出す必要がある。一見、自分で何でも決められ、自由にすら思えるこの状況は意外にも私達を苦しめます。なぜなら、目の前の世界を自分の善悪判断で色分けし基準を定めるのは、面倒くさいと同時に、「ほんとうにそれでよいのか」、つねに不安と隣り合わせだからです。

「違和感の正体」p23より引用

世の中のたいていの炎上・失言・暴走した正義ってのは、複雑さに耐えられずに音を上げて本来複雑である問題を単純化して極論を振り回している

謝ったら死ぬ病の人に「間違ってない部分もある」のは当たり前 - ←ズイショ→

ズイショさんの言う複雑さというのは先崎さんの言う不安のことなのでしょうね。不安だから何か処方箋があれば飛びつく、そして複雑だから単純化して解決しようとする。

これは個人的な観測でもかなりいろいろなところに表れているように見えます。

先崎さんは著書のなかでデモ、差別、教育、ノマド反知性主義、平和、沖縄問題などで各章に分けて書かれていますが自分の観測でも例えば職業の多様性を担保にお金という即効性でAV女優になる女性。ネット右翼のように単純なイデオロギーに飛びつく人。与沢翼氏の秒速で一億というキャッチフレーズ。そしてズイショさんも書かれていたように最も直近な例をあげれば長谷川豊氏の透析患者の件は社会保障費の問題についてまさに処方箋を焦るがゆえに出てきたエントリーと言えるでしょう。

どれもこれもズイショさんのエントリー「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければいけない」に繋がりますしお二人の指摘通りのことがありとあらゆるところで起こっています。そしてこの複雑さと不安に耐える覚悟を持つこと、その流れに棹さすことがこの時代を生きる上においてはものすごい重要な概念であると改めて思った次第です。

 

 

以上、先崎さんの著書とズイショさんの時代を見る目が似ていたので紹介させていただきましたが、お二人の文章を読んで個人的にすこし具体的な解決方法まで踏み込んで書いてみます。複雑さに耐えきれなかった人が時に単純な行動にはしってしまいその結果失敗してしまうのは個人がコミュニティーから切り離されて個人を抑制する社会的機能が失われてしまったからだと考えられます。そういった意味でいえば私たちは複雑さに耐えて生きる術を自由主義の名のもとに社会からひっぺがして手放してしまったという見方もできます。それは言葉にしてしまえば抑圧とかムラ社会とかいまこの時代ではネガティブな意味合いが強い言葉たちなのだろうがしかし個人の暴走を止めるのはやはり周りの人間であってどれだけ洗練された個人でも個人の能力や知見には限界がある。だから集団でまとまった時にはじめて生まれてくるのがリテラシーだということを再確認する段階まできたのではないでしょうか。

つまり複雑さに耐えるというと単純に個人が耐えるべきのように捉えてしまいそうになりますが耐えるなんていう苦行ではなくできれば正しい集団に帰属する。その集団の中で生きる自己を見つめることが複雑さと不安に耐えうるほとんど唯一の術なのではないかと思うのです。 

 

違和感の正体 (新潮新書)

違和感の正体 (新潮新書)

 

 

タバコの肺がんリスクの増加発表はただの出版バイアスじゃないの?

医学論文のメタアナリシスだから信頼できるとかいうのはまったくそんなことなくてメタアナリシス、これ学生の時に統計学の授業でやった覚えがあるんですけどある命題に関する論文とかの標本を集めまくって統計的にどれだけの有意性があるかって調べるんですけど

今回のタバコの肺ガンリスクの増加に関して思ったことはこれ出版バイアスではないの?ってこと。確証バイアスに言い換えてもいいかもしれない。

つまり論文って学会に承認されて始めて公のものとなるけどこの学会の承認というのが厄介で今回のタバコに関する話で言えば世界的に起こっている禁煙運動の存在でWHOでも禁煙を大義としてすすめているので喫煙を奨励する論文は学会で承認されていないのではないかという懸念があるんですよね。それで禁煙推奨論文ばかりになった結果としてメタアナリシスするとやっぱり禁煙だよねってなっているだけなんじゃないですかね・・・実際タバコのメリットって調べてみるとけっこうあったりするんですよね。

 

メタアナリシスは濃淡の学問であって物理学のような科学的事実とは違うんですよね。物理的、身体的な化学反応でもってタバコはこうこうこのような影響があるって断言できればいいんですけどそれは長年できていなかった。だからタバコを吸ったら肺ガンになるというのも「リスク」として言われてきた。

しかし今回、肺ガンリスクの話もほぼ確実から確実にあがったみたいですけどそもそもメタアナリシスで結果を抽出している以上は原理的に絶対確実なんてことを言えるわけがないんですよね。国立ガン研究センターが発表したサイトを下までスクロールしてよく見てみると適用している論文自体も最新のもので3年前のものであとはぜんぶ20年前30年前のものでいまさらリスクをひきあげる蓋然性自体がどこにも見当たらない。

しかもそれを2名が独自に評価したっていう具合だからますますもって不可解。さらにそもそもメタアナリシスなのになんで論文を選出するのかがわからない

 

そんなこと言ったってまぁタバコは健康に良いものではないことはほぼ間違いないし自分は生物学なんかまったくわからんので単なる疑問止まりではあるのですけど・・・

ブコメなどを見ているとおそらくはてなーもタバコに関しては確証バイアス働いていると思ったので記事にしてみました。しかしタバコは肺ガンとかいう問題ではなくこの嫌煙社会で吸うと確実に生きづらくはなるので吸わないほうがいいですよっと。

 追記

喫煙に関する出版バイアスの問題をご指摘・参考文献をご提示いただきましたのでブックマークコメントのリンクを追加させていただきます。ご指摘ありがとうございます。

はてなブックマーク - タバコの肺がんリスクの増加発表はただの出版バイアスじゃないの? - メロンダウト

補足です。"The presence of publication bias was assessed via funnel plots."(参照:http://jjco.oxfordjournals.org/content/early/2016/08/10/jjco.hyw091.full) 要するに、出版バイアスはファンネルプロットによって評価した、ということ。

2016/09/29 23:26

b.hatena.ne.jp

はてなブックマーク - はてなブックマーク - タバコの肺がんリスクの増加発表はただの出版バイアスじゃないの? - メロンダウト

もうちょい補足すると、ファンネルプロットは非対称性を示したが、不足分を補ったと想定しても、95%信頼区間:1.09-1.46 ということらしい。

2016/09/29 23:35

b.hatena.ne.jp