メロンダウト

メロンについて考えるよ

意識高いだけの筋トレ推進論者は滅ぶべし

筋トレの方法論について賛否があるけど僕は筋トレ自体は無限につまらないものだと思っている。それは僕が学生時代にずっとスポーツをやってきたからかもしれないが筋トレはスポーツのパフォーマンスを上げるためにやるのであって筋トレそれ自体は単なる過程でしかないという経験則がある。筋肉増強の方法としての利用価値があってもそれ自体の面白さは皆無だと思っているのでジムだとかランニングだとか「無限につまらない運動」が賞賛されていることがわからない。自分は大学時代は運動部に所属していて強制的に筋トレをやらされていたのだが筋トレ自体が面白いと思ったことはない。

持久力がないから走りこむ

リストが弱いから鍛える

体感がぶれるから整える

ボディーブローを食らうから腹筋を鍛える

球速を上げるためにデッドリフトを行う

その過程を経てなにがしかの結果が伴うから筋トレするのであって筋トレするために筋トレすることがなにか意味のあることだと周知されていることがよくわからない。そもそもなぜそんな何を目的にするでもない無意味な筋トレにモチベーションをつぎ込めるのかよくわからない。つまり自己満足のためにやるのであれば個々人が判断して勝手にやれば良いのだが必要のない身体的能力を獲得することが善だという言論にたいしては僕はこういう他にない。

そんなものは無駄な努力でしかない。

健康のためにやる筋トレであれば500gのダンベルで閾値を超えない程度にやっても健康的な意味での筋トレたりえるし汗を流すことが目的であれば限界を超えるほど走りこむ必要はない。一日2km走るだけでも社会が求める基礎体力は十分に得られるだろう。

もちろん筋繊維を傷つけて超回復を望むやり方でやることが筋トレの正しいやりかたであることは間違いない。最後の1rep2repsで筋肉を傷つけることで肉体は超再生するから限界を超えて行うことは筋肉増強の意味で言えば文句なく正しい。僕もそうしていた。

しかしスポーツをやっているわけでもないのに筋肉増強を大義に掲げている人っていったい何のためにそれをやっているのか理解不能だ。はっきりと滑稽だと言ってしまっていいかもしれない。筋肉の弊害というのもあって大学の部活の同級生がまさに筋肉信者のような人がいてベンチプレス、デッドリフトなどで筋肉ばかりつけていたのだがその結果スピードが落ちて上半身の筋トレを禁止されるということもあった。理想的な肉体はある程度の制約やバランスがあって筋肉そのものをありがたいものと捉えることなどない。

そして一般的なレベルでの筋トレの目的と言えば健康を目的としたものであることが多いのでそこに意識高い筋肉増強論のようなものを持ち出すことははっきりと害悪だと断じて良いだろう。ボディービルのように筋肉の増加そのものを目的としたものにコミットするでもないかぎり必要以上の筋肉は役にたたない。

だからこちらのエントリーのように軽度の筋トレで汗を流すことを僕は否定しない。

srdk.rakuten.jp

がこちらのエントリーのようにまったく無意味な筋肉論者にたいしては何のためにそれやっているのか疑問を持たざるを得ないのだ。

www.ketudan.jp

 筋トレは目的に合わせて行うものであって筋肉それ自体をありがたがることははっきりと無駄な努力でしかない。健康のために行うのであれば閾値で十分であるしそれ以上の筋肉増強を目的としたものは単に意識高い人間の自己満足でしかないと思っている。

長年スポーツをやってきた身からすると目的にかなわない筋トレ賛美は意識高い系が意識低い系をたたいているそれだけの話にしか見えない。肉体的健康は身体的目標よりもはるかに容易だし筋肉それ自体を善だとする言論にははっきりと無駄な努力だという他はないのである。

書評:一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

備忘録です。東浩紀さんの著書「一般意志2.0」を読んだ。ルソーの「社会契約論」を解釈し現代のテクノロジーで民主主義をアップデートしようというものだった。率直に言えばものすごい面白かった。多くの保守派の人達はテクノロジーが人間の人間的生活を奪うような話に終始している。AIによって仕事は機械に代替されるようになるし興味関心、趣味嗜好さえもテクノロジーに侵略され機械の人間化、そして人間の機械化のようなディストピア論がかなり多い。これは青山繫治さんも言っていることで今や人事さえもビッグデータで決定している企業もあるようで人間の条件みたいなものがこれからますます希薄になっていくことは間違いない。

 

しかし東さんの主張というか解釈はもうすこし実践的な内容でテクノロジーを利用して人間的生活を取り戻そうとする内容であった。本書は主張ではなく民主主義の定義をどうするかという書なので主張というのはおかしいが読後に僕が抱いた感想は「希望」であった。

すこし本の内容を要約して紹介してみたい。ネタバレを含むので本書を読んでいない方は書籍のほうで精読することをお勧めする。

一般意志2.0

 

論点要約

まず東さんはルソーの問題から入る。ルソーは社会契約論を書き現在の民主主義の基礎を作った人物であるが一方で人間嫌いの個人主義者でもあった。一般に筆者の性格と本の性質は一致していてマルクス資本論を書いたのは彼がヒモのような生活を送り友人に金をせびる人間だったから資本主義を批判した。しかしルソーは個人主義者であるにも関わらず社会契約論で全体意志を説き全体意志には従わねばならないと書いた。この矛盾がルソー問題と言われている。ここから本書は始まる。

社会契約論には全体意志と一般意志と特殊意志という概念が書かれている。全体意志は公、一般意志は共同体で特殊意志は私であるとかなりざっくりと説明しておく。東さんが一般意志2.0で主題としたのは一般意志で、一般意志は全体意志とは異なり人民の欲望や主張を集めその総和として算出した差異を一般意志と解釈することができると書かれている。この欲望や主張の総和の差異というのは人間が無意識に発露している動物的なものを元に算出すべきものであって一般にとらえられている民主主義の投票結果とは違うと東さんは主張している。しかしルソーが生きていた200年前にはこの一般意志は可視化できないものだった。そして最終的にグーグルやツイッターのようなソーシャルメディアのデータベースが一般意志の可視化を実現できるようになるのでそれを利用して政治に組み込もうと本書は展開する。

注意しなければいけないのは一般意志2.0ははグーグルなどのデータベースで政策決定をしようと主張するものではなくあくまで現行の間接民主主義を維持しながらそこに条件付けとして一般意志(データベース)をくみこもうと主張している。

結論として現在のニコニコ動画のようなものを政治の現場に導入しコメントをリアルタイムで表示させることで熟議に条件づけをする形で一般意志の利用しようと書かれている。

書評

二コ動のコメントは意識的か無意識的か

本書の内容は大変興味深く冒頭に書かれていた「夢」という言葉がかなりしっくり来る内容だった。しかし東さんが主張する一般意志をグーグルがデータベース化して政治の現場に導入するというのはニコニコ動画の形態では実現しえないと思った。この疑問はそもそも本書の導入部分でフロイトを引用しながら東さんも書かれていることであるが誤字や脱字また政治的意図とは関係ない発言など意識的ではなく無意識的な人々の言葉をあつめれそれを一般意志と扱うと書かれている。これには非常に納得がいく論理展開がなされていた。無意識の発露こそが人間の真の欲望を表しているのは本当にその通りだと解釈できた。しかしニコニコ動画のコメントは意識的なものであってグーグルがデータベース化する一般意志とはすこし様相が違うのではないだろうか。つまりコメントが意識的か無意識的かという判断なのだが意識的なものだという感覚が僕にはある。この点が疑問のひとつとしてあった。

自由の代償 

そしてもう一点。一般意志2.0は民主主義進化論としてはたいへん興味深い内容であったが読後、僕が抱いた感想は希望と「すこしの違和感」だった。なにかを置き去りにしているような感覚になったのだ。それは本書の内容と関係あるのかもしれないしないのかもしれないのだが

東さんは最終的に政治の「最小国家化」について触れ政治が水道事業のごとく誰も気にかけることがなくなるぐらい縮小すると書いている。水がなければ僕達は死んでしまうわけだが誰も水道がどこをどう流れどう浄化されて蛇口から出てくるのか興味を持たない。同じように政治も身体的な安全、防衛などの役割を行うだけのものになると。政治について誰も関心を持たない形で行うようになると「リベラル・ユートピア」という言葉をひいて説明している。そして終には基礎所得も国が配給して人間は自由に活動を行えるようになると。

本書の終わりはそうなっているがこのほとんどユートピアに近い行政に違和感を覚えたのはおそらく個人的な話であって自分がなにかに課せられていたいという欲望がどこかにあるからかもしれない。つまり自由は必要だが完全なる自由が人間を幸福にするのかというと僕はかなり懐疑的なのだ。なにか強制力のある仕事だったり納期に追われたりもしくは家に帰れば文句しか言わない嫁だったりとなにかに縛られていることで人間を人間たらしめているものがあるのではないかと感じる。SとかMとかではなく性善説性悪説のように性堕落説とでもいうのだろうか人間はなにか強制力のあるもので動かされない限り無限に堕落できる動物なのではないかと思う瞬間がある。僕は怠惰な人間なのでそう思うことがある。

だから怠惰な人間にはコミットする何かが必要なのだろうが今まではそれは労働だったりあるいは政治を注視する危機感であったりしたのだろうが政治からも労働からも、そしてVR技術で性欲からも人間が解放されありとあらゆる次元において完全なる自由が実現したら人間はどこへいくのかと考えるとすこし怖くもありそして同時に楽しみでもある。

尾崎豊とキャリアとNirvanaと高橋まつりさんと小生

個人の人生は個人の人生でしかない。ので比較することに意味などそもそもがない・・・と理念的にはそう「思われている」。しかしこの世界は残酷にも相対主義であって否がおうにも競争にさらされるしかない。たとえば今こうしてパソコンを使って文章を書いているようにデジタル端末を全て捨てて生きることはもう不可能だ。物理的には可能であるがコミュニケーションも仕事も買い物さえもパソコンを介さなければならなくなった。同じように競争にも巻き込まれざるを得ない。不可避の事態として。

尾崎豊は「僕が僕であるために勝ち続けなければいけない」ということを歌った。そしてSMAPは「世界にひとつだけの花」と歌った。両者は言質としては完全に矛盾しているが願望としては相混ざるものである。僕が僕であるために勝ち続けなければいけないという歌を思い出したのは電通に入社し激務で自殺してしまったキャリア組の「降りたら死ぬレール」というエントリーを読んだからだ。激務による判断力の低下が大きな要因であるのだろうが東大を卒業し電通に入社しと勝ち続けたゆえに肥大されてしまった自己をめぐる闘争なのだろう。その点で電通の社員も尾崎豊もまったく同じ問題を抱えていたのだろう。自我という哲学的には最大の命題を解決する困難さがここにはある。自己が肥大されてしまったと書いたのは東大を卒業してもオンリーワンでありたく社会的な評価など瑣末と多くの人は考えたいと思うがデジタル端末と同じように「勝ち組、東大、キャリア」を他人から不可避の評価として与えられてしまう。そしてそれを回避して生きるのはとんでもなく難しい。いや不可能だと言ってもいい。人間の自己存在は単体では存在できないので他者と架橋する評価は切っても切りきれないからだ。だから尾崎豊は「僕が僕であるために勝ち続けなければいけない」とそう歌った。僕はこの言葉の意味がよくわからないまま聴いていた。勝つことと自分の存在とがなぜそんなに不可分なのか理解できなかったからかもしれない。しかしこの曲の意味がわかったのは大学に入ってからだった。大学名は明かせないが自分も上の下程度の大学にはいり卒業した。入学した当初、両親や同級生に合格したことを話すと口を揃えて「すごい、すごい」と言った。大学に受験する人間がかなり少ない高校のうえ僕が入学した大学に合格した人はOBでも数えるほどしかいなかった。しかし僕個人の感覚としては全くすごいなんて自覚はなかった。「やれば誰でも受かる」大学でしかなかったからだ。入学してからもそれは続いた。地元に帰ればまるで秀才のような扱いをうけ時に困惑することもあった。しかしそんな反応にも自然と慣れいつしか無難で定型的な、それでいて自然な言葉を返せるようになった。この瞬間僕はその評価に飲み込まれてしまっていたのだ。特段して秀でた能力もなく学内でも頭がよいほうではなかったがその無根拠な評価にいつしか僕の自我を重ねていってしまった。これははっきりと学歴のデメリットである。何者でもない人間なのに無条件に承認されるのは世界中でも日本の偏差値が高い大学という場所に限られているだろう。そして僕は僕であるために勝ち続けなければいけないという尾崎豊の歌詞の意味を理解した。

尾崎豊もあの若さで承認されほとんど自分のあずかり知らないところで爆発的に広がる自己に苦しんでいたのだろう。そして自殺した。カートコバーンもまったく同じ理由で自殺した。それはちんけな大学で僕が感じたことと量的にはまったく違うが質的には同じものなのであろう。そしてこの問題は「降りたら死ぬレール」にも直接リンクする。無作為に広がる勝ち組という評価に自己を重ねる。そうすると評価や期待だけが膨らみそれだけタスクが増えていくが自分の体はひとつしかないので手に負えなくなる。それでも自己を保とうとすると最悪の結果が待っている。

高学歴や若さもそうであるがほぼ無条件の承認はのちに必ず自らに毒となって降り注ぐのだ。まとめると社会的評価に自己を重ねるのは危険であって不可避である。解決方法は勝ち続けるか・・・もしくは激しい痛みを覚悟しつつも自己を切り捨てるしかない。小生はそう思う。

 

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