メロンダウト

メロンについて考えるよ

11歳の哲学者中島ばお君と自己啓発界隈についての所感

11歳で出した本が17万部を超えるベストセラーになっている小学生がいることを知りました。中島ばお君。図書館に行ったら返却コーナーの棚に並んでいた本を見てなんだこれはとネットで検索したらかなり有名な本のようです。あ、余談ですが図書館の返却棚を眺めるのは面白いですよ。どんな気持ちでこの本を借りたのか想像すると他者の思考に触れられる感じがします。悪趣味ですね。そんな折に目についた本がこれなんですけど
見てる、知ってる、考えてる

見てる、知ってる、考えてる

 

 

内容に関してはよくある自己啓発で何も新しいことは書いていませんでした。子供が書いたものですからね。哲学書とは呼べないもので40ページぐらいめくってみたのですけどこれがベストセラーになっているのは改めて思うとすごいことだなあと本の内容以上にその現象について書いていこうかなと思います。
本の内容を知りたければアマゾンの書評欄などを覗くだけでも充分だと思います。なかにはかなり辛辣なコメントを残している方もいました。しかし子供が書いたものにマジレスするのもそれはそれでどうかとは思いますね。子供は場も荒らしますし思春期や反抗期の思考は独善的になってしまうこともあります。躁状態のような全能感に見舞われることもあるしいちいち突っ込みを入れるのは野暮だなあと思いながら書評欄を読んでいました。
思想だけでカテゴライズすればはあちゅうさんとかイケダハヤトさんのような過剰な成功主義、ポジティブ精神でTehuさんとも酷似しているので、はてな村id:hagexさんの大好物のようなそんな香りもします。重ねて言いますが子供なのでどんな内容の本であれ場を荒らすのは許されるべきではあります。自分が10歳のころなんか通学路でいしころ蹴っ飛ばしてただけでしたからね。石ころって蹴ってもイレギュラーバウンドで思ったところに転がらないんですよね。自己啓発的表現をすれば人生はイレギュラーバウンドする石ころである(山田君、座布団ぜんぶ持ってって)。なんてそんな教訓なんか必要ないですし石ころを蹴っ飛ばすことに意味なんか考えないほうがいくらか楽しいものです。
 
 
それはそうと中島ばお君をここまで持ち上げた大人は罪深いなあと思います。基本的にこの本が売れたのはパッケージが良かったからで以前、ネット上で慶大生が小学生を装って政権批判をしたことがありましたけどあれと構造的に同一に見えます。子供の大人ぶった発言はそれだけで効果があるのでマーケティングの産物で耳目を集めやすい。
それが子供の不利益にならない限りにおいては子供の可愛さや無邪気さを利用するのも相互利益となるので良いんですけどこの本に関しては僕ははっきりと出版社や持ち上げている大人を批判すべきじゃないかなあと考えています。義務教育の役割や公立学校の役割のようなかなり普遍的なテーマになってしまいますが人間関係における他者は自然と同じでかなりの頻度で折り合わないものです。こうしたブログなどではもう嫌な奴だと思った瞬間にブラウザバックして二度と見なければ良いだけですが現実にはそうはいかない。
余裕のある経営者や成功者は会いたい人とだけ会うことができます。だから異常にリベラルな方が多いです、が多くの場合にはそうはいかない。
 
そしてそういう折り合わない他者と付き合う方法、というか決断ですかね。そういう覚悟を養う場所としての役割を学校は持っていると思います。中島ばお君はいじめられて学校に行かなくなったみたいで現在は自宅や企業訪問などで勉強しているみたいです。学校でいじめられたら逃げたほうがいい。それはそうなんですよ。しかし学校から逃げたほうがいい、ということと学校に行かなくていいというのは全く別の話であって中島君にこのことを教えてあげる大人がいなかったのかと疑問に思います。
 
中島君は本が出版されてから堀江貴文さんや茂木健一郎さんなど成功者と言われる方々とあっているみたいです。それはそれで大変貴重な経験となることは間違いないと思う一方で成功者としか会わない子供がどういう思考に「落ちて」いくのかを考えると空恐ろしくなります。現在進行形で成功している方は当たり前ですが成功者の哲学を持っています。失敗の経験ももちろんあるでしょうけれども結論として出てくる言葉はあきらめなければ夢は叶う系の言葉ばかりです。その言葉は彼らにとっては正しくフィットできるものであっても万人にとって有用かというと毒に転じることのほうが多いです。人間はすべからく特殊です。だから自己啓発のような名言や格言を並べ立てたものは言葉を入れ込む器を持っている人だけが読むべきだと僕は思います。
そうでなく中島君のような子供やまたは自分の経験とまったくフィットしない人を押し込むだけの言葉を妄信すればいつかその精神のタガに支障をきたし瓦解する危険性を孕んでいます。
 
だから自己啓発ではなく徹底的に思考をそぎ落として自省を繰り返したような哲学書はかなりまわりくどい言い方でしか書いていない。もちろん他者に強要するような言葉も書いていません。ややもすれば読み解くことすら困難なものばかりです。そして最終的にこの本に書いてあることを信じている君は危ないなど書いていたりとそんなものばかりですね。いったい何の役に立つんだといえば直接的に役にたつことはないですけど自己啓発本を10冊読むよりも哲学書を1冊読んだほうが血肉にはなる気がいたします。
 
すこし脱線しましたけどまとめると中島ばお君はまだ子供ですし本の内容を責めることもいささかしかねるのですが、本に書かれているような至極単純な格言ではたちゆかない現実がそのうち来ると思います。ポジティブに染まり格言に染まり世間から生意気と言われてきた中島ばお君が成長して大人になった時にしか見えない景色があると思います。そのときに、今度は本当の意味での哲学書を出版していただけるのであればこれほど楽しみなことはありませんね。

僕が好きなことをブログに書かない理由は臆病だからです

めちゃくちゃ主観的な話であるが僕はあまり好きなことについて意識的に書かないようにしている。たまに書いたりするけどね。変に難しいことばかり書いている。これだけ小難しいことを小難しそうに書いていると小賢しい人だと思われているかもしれないし実際小賢しいだけなんだけど特に好きなことについてはあまり書かないことにしている。喋るのはテンション上げて口角を上げながら単純な言葉で好きなことを喋るほうが好きなんだけど文章になるとなにがしか意味や理由を与えたくなってしまう。悪癖だと思う。不特定多数に伝える前提を持つブログだと意味を与え色付けしパッケージ化しようとする。ちょうどプレゼントを包装するように。あるいはちょうど誕生日に食べるケーキにろうそくを刺すようにね。誕生日ケーキは誕生日を祝福する物体という意味が与えられることで純粋にケーキとは言えない存在になる。ケーキのようなポジティブな例ならいいけどそれが「人」だったりすると大変だ。優しい男性とか可愛い女性とかいう意味と好意を直列で繋ぐと非常に弱い関係にしかならないように思う。だから個人的に特に女性には簡単にかわいいとか言わないようにしている。経験的に形容しない関係こそが無敵の人間関係だと確信している。実際問題、人間関係の軋轢になる原因は他意と意味付けでしかないんじゃないかな。上下関係という意味とかおかしな人間を見る他意の目とかね。

昔、なぜ恋人同士は「別れる」のかと単純に疑問に思ったことがある。学生のように卒業という期間が決められている関係ではないし別れる必要性が僕にはまったく見出せなかった。若い時にそんなことを友人に話したら「いろいろ理由はあるでしょ」とひどく抽象的な答えしか返ってこなかった。喧嘩したとか嫌いになったとかいろいろあるんだけどあまりにも恋人は別れすぎるという僕の疑問を解消してくれる回答ではなかった。それからすこし成長しいろいろな人を見ると友人が教えてくれた「いろいろな理由」、その「いろいろ」こそが原因なんだろうなと思うようになった。つまり恋人は恋人を形容しすぎるから簡単に関係がぶっちぎれてしまうのだろうなあと。めちゃくちゃかわいいから付き合うならばめちゃくちゃが消えたら別れ、かわいくなくなれば別れる、形容好きの人達がかなり多いんだなと。だから僕はあまり人のことを形容するのはやめるようにした。好きなことについても理由などいらないし必要以上に説明したりするのもしたくない。(自分は)好きな理由を探しても与えてもダメだと思う。好きなことを形容した瞬間になにか意味を繋ぎ自分の好意が歪んでしまうかもしれない。それが怖い。ジャニオタがジャニーズを論評する危険性に比べたら、政治や社会について書くほうがどんなに気楽であるかと思う。たぶんそんなことは普通気にしない。みな好きなことを好きに語る。それが怖い。恐ろしい。僕は・・・臆病なのだ。

大学に意味がないわけがない。あるいは理系による文系批判への回答

意識高い大学生みたいなタイトルだけど・・・
大学に意味がないという趣旨の記事

pendragon.hatenablog.com

を読ませていただいたのだけど大学に意味がないのはある側面からは間違っていないとは思う。しかし「意味がない」という言葉は述語としてでかすぎるのでもうすこし細分化して言葉にしたほうがいいと思った。「ない」とか「ある」というのはざっくりぶったぎりすぎだね。
言及元ブログで書かれていたようにもちろん学問上の意味がない大学は存在する。去年だったか見たニュースでFランク大学では四則演算やアルファベットを教えているみたいなので意味も糞も存在しない大学はある。これらの大学はそもそもが高等教育として定義される大学の体を成していない。モラトリアムを与えるためだけ、社会に対しての立場を大学生とするためだけのエクスキューズ機関なので本当に意味がない・・・のだろうか?
 
環境としてのレゾンデートル(存在意義)
僕が通っていた高校はまさにFランク大学の付属高校で同級生はみんなエスカレーターでそのままFランク大学に進んだので僕もある程度はFランク大学について知っている。授業の内容に関しても上述した四則演算ほどではなくてもTOEIC500点のための授業や受験科目の政治経済の講義をそのまま流すような授業だったらしい。けして専門的な学問を治める場所ではないその大学に行っていた友人達は・・・みな楽しそうだった。日本の大学生活は人生のシーンとして切り取ってみた時には振り返れば非常に特殊な期間だったと思い返すことができる。そしてそれだけで意味はある、と僕は思う。
 
大学は最も知識レベルが同じ人間が集まる場所。(成績の上下関係なく)小学校から中学校、高校と知識レベルがタコツボ化して最終的に収斂して集まる場所が大学だ。同じ知識レベルで話が一番合う人間同士が集まる環境は大学にしかないように思う。頭が良い悪いを超えた最適正された大学の人間関係はそれだけで十分に意味がある。わかりやすい例として東大生は特殊なしゃべり方をする人が多い。彼らは頭の回転が速すぎて口先がついていかないと言われているけど、一般人に話す時には話の本題に行くまでに喋るべき前提が多すぎるのであんなしゃべり方になっているのだと思う。けれど東大生同士だと前提を共有できているのでもうすこし穏やかに話を切り出せるのではないだろうか。そういった知識レベルが同質な環境が大学にはある(知識レベルという言葉に棘があれば「前提」のほうが良いかも)。
一方、社会に出ればとんでもなく頭が切れる経営者の下に闊達なサラリーマンがいる。さらにその下に窓際サラリーマン。そのまた下に非正規労働者と混在する人間関係の中で生きていかなければいけない(職業によるが)。
 
もう一点、環境としての大学の意味があり大学は自由であること。自由だ。単位などはあるが、おおむね、自由だ。うざったい上司に避けようもなくからまれることもないし、営業成績や給料で他人と比べたりすることもない。なによりも取引にさらされていない人間関係の自由さが大学にはある。資本に晒されていないので他意を必要としないまま生きていける環境なので精神の自由を謳歌することが可能な場所だと、個人的な経験では思う。
大学は「知識レベルが収斂した自由な人間関係」だけで意味がある。そしてそれは学問云々よりもはるかに大切な人生の果実になるように思う(大げさですいません)。これが環境としての大学のレゾンデートルである。
爆笑レゾンデートル動画です。この駄文より100倍面白いよ。
 
 
では学問に関してはどうだろうかというと文系、理系ですこし違ってきそう。僕は文系なので理系の専門的なことに関しては寡聞にして知らないので言及することは避けたい。文系とひとくくりに言っても理系に近い経営学や政治学などの社会科学と文学や倫理学のような人文科学ですこし様相が違う。文系の意味というと大仰すぎるテーマなので手にあまるのだがすこし抽象的な話に落とし込んで書いていくことにする。
 
大学で社会科学を学ぶ意味とその重要性
よく理系の方に言われることが文系など意味がないというもの。彼らの言い分は文系は理系のような実務能力に欠けていて社会の役に立たないというもの。かなり象徴的な文系にたいする批判なのでこれに答えていけばすこしわかりやすくなる。
 
たしかに文系は意味がないように「見える」。見えるだけであって文系の発明も存在する。資本主義、民主主義、社会主義立憲主義、金、市場、私有財産、権利、義務、責任などなど。これらは実態がなく概念の発明であるが社会を円滑に回すために欠かせないものであることは疑いようがない。金ひとつとっても概念的なものである。そして金がなければ資本主義もない。資本主義もなければ私有財産もない。歴史的に見れば私有財産という価値観はかなりおかしな価値観であってもともと土地を所有するなんてない時代があった。しかし金で回す資本主義によって土地の権利を購入できるようになり、同時に安心も手にすることができるようになった。
概念の発明は続いていて金や権利はあまりにも常識すぎて「見えない」だけで社会で共通して認識すべき概念を発明するために努力している文系の学者は存在する。文系に意味がないわけがない。同様にその学者を育てる文系の大学生も意味がないわけがない。
 
人文科学(文学、哲学等)への批判について
社会科学への返答だけでも文系に意味があると言えるが文系を批判している人は文学や哲学などの人文科学についての批判もあるのでそちらにも回答しておくことにする。
基本的に人間には人間の条件みたいなものが「必要」であって端的に言えばやっていいこととやってはいけないことがある。ドストエフスキー罪と罰が非常に有名であるが人間を人間たらしめている倫理観は罪によって成立するんですよね。罪というと非常に抽象的だけど例えば人を殺してはいけないなどはっきり言って論理的な説明が必要とされる種類の話ではない。論理的に殺していいと計算できる人間なんてごまんといるわけであるがそれでも殺さないのは罪と罰によってでしかなくその「話をする」ことが人文科学の最も重要な役割であると思う。関連した話で軽い未来予測をすれば今問題になっているシンギュラリティーやAI(人工知能)がある。AIが社会科学と結託して社会悪と言える人間を殺していいと計算したとする。おそらく何の感情もなく。しかし人間はたとえ極悪人であっても殺したという事実に耐えきれるようにはできていない。そこに人間が人間である条件があって人文科学はその条件を話したりあるいはその罪を洗う言葉を提示したりする役割を背負っている。これだけ平和な日本でこんな話をするとあまり現実感がない。そんな言葉を必要としている人もかなり少ないと思う。僕もそんなにいらない。
しかし歴史を振り返れば戦争が耐えず宗教が物事を決定していた時代においては非常に重要な学問であった。未来においても人工知能が人間を超えるいざその段階まで来たら人間を定義する最後の砦となるのは文学であり倫理学であり哲学でしょう。これだけのんびりした社会においてはまったく役に立たない人文科学であるが人間がどこまでを人間て言うんだっけっていう未来は、おそらく来る。たとえ今はいらなくとも、人文科学はその時まで大切に保持していたほうが良い。
 
 
まとめ
大学に意味がないなんて嘘でしょ
希望の倫理

希望の倫理