メロンダウト

メロンについて考えるよ

客観的情報と主観的感情の相克により父性原理が絶滅する世界で「家族」は成り立つのだろうか

小学5年生の時に一人で飛行機に乗ったことがある。今でも強烈に覚えている。むせび泣いていた記憶。北海道の親戚のところに一人で行かされた。泣いていたらCAのお姉さんがずっと側にいてくれてそれでも強烈な悲しさについぞ泣きやむことはなかった。小学生を一人で飛行機に乗せる親は「毒親」なのだろうか?・・・
最近、家族についてたまに考える。
 
サラリーマンの父と専業主婦の典型的な昭和的家族構成の家庭に生まれた。小さいころには母方のおばあちゃんと僕が生まれてすぐに亡くなったおじいちゃんと一緒に暮らしていた。かやぶき屋根の家に長いこと住んでいた。みんなでひとつの部屋で寝ていた。家具は専ら茶色だ。たばこ臭いキッチンでつくる母と祖母の料理は何のてらいもないがしかし安心するものだった。
父は厳しかった。子供のころに一時間以上ゲームをしていたらよく庭に捨てられた。もうよく理由すら覚い出せないようなささいな理由で家の外に立たされたこともあった。父は現在の価値観で客観的に見れば毒親であるが僕はそんなことは微塵も思ったことはなかった。それどころか父のことは好きだった。父のしつけは虐待ではなく教育的であった。いろんなところに連れて行ってもらったしかっこよかったので尊敬していた。
 
毒親という言葉がある。いったい誰が使いだしたのかわからない。1人が本当の意味で知ることができる家族の家族性はせいぜい生家と結婚後の家族だけなので客観的に事実を語ることは不可能だ。カテゴライズすれば分析することもできるだろうが家族ほどいろんな感情がからまりうるコミュニティーはない。家族にたいする客観的事実は存在しえないのではないだろうか・・・
あまりに客観的すぎる家族論。または毒親批判。あるいは忘れ去られた父性原理。僕がそうであったようにお互いが許容可能な状態で繰り広げられる深い相互関係を情報の波でさらい客観で押しつぶして、はたして良いのだろうか?
毒親は存在する。たしかに。ひどい環境で虐待にあったりDVの被害にあったりするような親とは言えない親も存在する。しかしなぜ子供は教育する親を「許せない」のだろうか?子供には要求できない感情なのだろうか?教育とはイコールで愛なのだろうか?父性と母性とはなんだろうか?
僕の父は客観的に言えば毒親であった。ゲームを捨てたり時には罰としてごはんを食べさせてくれない時なんかもあった。冬場に家の外にたたされた翌日に風邪をひいたことさえあった。ゲームを捨てられた時にはもちろん悲しかったりふざけんなと思ったりもしたが腹の底の底では反省していたように思う。成長するにつれしつけは愛情だったんだと許容できるようになった。それがいかなるものであれルールに従わない罪は罰せられる。僕に罪と罰を教えてくれたのは法律でもなくドストエフスキーでもなく時に非情にすら映る父の怒声であった。
教育的暴力は偽悪であり客観的な行動としてとらえた場合には単なる虐待に見える。しかし父性原理に基づき子供をつきはなす行為は子供にとってさまざまな感情を教えてくれるものである。子供には届かない時もある。まして他人には絶対に届かない。しかし当人が愛を咀嚼できる年齢になれば届きうるものなのだ。そしてそれは絶対的な愛情を抱く対象としてのは母とは違う父親にしかできない父性原理ではないかと思うのだ。それが最近、忘れられているのではないのだろうか?大切に保護することだけが教育でもなく愛情でもない。イクメンを否定しているわけでもなく父の役割を限定する話ではない。ただ「可愛い子には旅をさせろ」「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」などの古典的な言葉が持つ意味とはなんなのだろうかと考えた時に父性とは何かを再考する価値はあるのではないだろうか・・・
 
父性原理は客観や情報と真っ向から対立する。批判の対象となる。高島ちさこさんが子供のゲーム機を捨てたというニュースが去年あった。あのニュースにたいしても批判ばかりあった。僕は誰も何か言える立場ではないと思う。
人間関係には文脈がある。無限の文脈がある。家族だからなせる文脈。父と子だからこそなせる文脈。子供が耐えうる文脈を見つけ、そこに愛に似たしつけを落とす。憎まれるのも辞さない感性でなされる父性原理こそが家族における「父」としてのひとつの役割なのではないかと、まったく今更ながらにふりかえることがあるのだ。
サザエさん (1)

サザエさん (1)

 

 

Radiohead好きに悪い人はいない~個人的好きな曲を7つ紹介~

Radioheadを聴いている。最高だ。音楽はクラシックでもジャズでもロックでもいずれにせよ気分を高揚させてくれたり落ち着かせてくれたりする。しかしRadioheadを聴いているとなんとも表現しようのない感情に包まれていく。ポジティブでもなくネガティブでもないような不思議な感覚だ。落ち着かせてくれるという表現もおかしいかも。浮世離れという感覚が近いのかもしれないが説法というほどに高尚なものでもないしうーん。日曜日の昼下がりにLetdownを永遠とリピートしていたらそんな奇妙な感情に支配された。
 
Radioheadとはいったい「何」なのだろうか・・・
 
はじめにあえて外見の話をしてみる。トム・ヨークはキリストに似ているように僕には見えた。キリストを見たことは当然だがない。しかしDaydreamingのPVで長髪に髭をたくわえ歩くトムヨークの姿はそれほどに神々しい。キリストが十字架に貼り付けにされて受けた絶望を考えればきっとトムヨークのような目をしているのだろうなと想像してしまう。宗教的と言ってもいいかもしれない。
思い返せば20世紀のオルタナティブロックのアーティストはみな外見的な面でいえば宗教的だったように思う。ニルヴァーナのHeart shaped boxのPVに出てくるやせほそって十字架に貼り付けられたおじいさんもキリストを模したものかもしれない。
 
カートコバーンもどこかトム・ヨークに雰囲気が似ている。ビョークシガーロスBECKなんかもジャケットやPVを見るとどこか宗教的な側面が強い。個人的にはThe Smithが最も神に近いと思うのだがRadioheadの話に戻そう。
Radioheadは神なのか?個人的には全面的に肯定したいのだが神というにはあまりにも俗っぽいし曲調の変遷が激しい。OKComputerで失望した人もかなりいた。最も有名な曲であるCreepの歌詞にしてもあまりにも劣情に寄りすぎているような気がしないでもない。letdown, No surprises, carma policeなどの歌詞やメロディーもかなり絶望的。
去年発売されたA moon shaped poolはほとんど絶望でしか構成されていない。プリントアウトして病院に持っていったら間違いなくうつ病と診断されてしまうような欝々としたものであるがしかしその絶望がどうしよもなく、好きなのである。
 
 
レディオヘッドを好きな人に悪い人はいない
使い古され手垢にまみれた言い回しである。「○○を好きな人に悪いやつはいない」。そんな簡単にカテゴライズするべきではないだろうとも思うがしかし、「Radioheadを好きな人に悪いやつはいない」はけっこう本気でその通りではないだろうか。Radioheadの曲はけっして教育的でもないしきれいな世界で構築されているわけでもない。しかし虚構に彩られた曲とは隔絶した正直さがある。絶望に同居する正直さをRadioheadの曲に見つけた瞬間からRadiohead好きはみな善人だと思っている。なにかの本で読んだ記憶がありタイトルは忘れてしまったのだが悪人の定義に「卑怯な弱者」と「傲慢な成功者」といった趣旨の文章を読んだことがある。卑怯な弱者は弱者を正当化しようとして攻撃的になり卑屈になる人で、傲慢な成功者は自らを信じ切っている自信家のことと。
Radioheadは精神の在り方としては弱者の側であるのだが卑屈とはいえないのだ。弱者の精神の昇華方法を歌う。そこに共感できる人に悪い人はいないと、確信している。
 
個人的に好きな曲
悪い人はいないと思うのだが気難しい人はいるRadioheadファンに向けて曲を紹介するのは大変に恐れ多いのだがランキングにするのはやめてただただ好きな曲を列挙していくよ。順不同
 

www.youtube.com

Anyone can play guitar
はじめてPablo honeyを聴いた時にRadioheadにはまるきっかけになった曲
High&Dry
歌詞がすごい。いやメロディーもすごいのだがRadioheadここにありという歌詞。今の言葉で言えば「非モテコミット」に分類されるんだろうけど悲しみを背負っても純愛を捨てない矜持ってやつが最高にロックだ
 
Lucky
OkコンピューターはBGMとしてよく聴いているのだがなぜか最高に集中できる曲。
 
Prove yourself
パブロハニーより。若さの残るRadioheadによる自己存在の闘争。「I」がここまで歌詞にくみこまれてる曲は他にないんじゃないかな。かなり聴きやすくもあるので人にすすめるにはおすすめの一曲
 
There, There
邦楽洋楽クラシックからジャズ問わずイントロだけでいえば全楽曲で最も好きな曲。イントロが強烈すぎてはじめて聴いた時に3秒でやられてしまった
 
Fake plastic trees
Radiohead全楽曲の中で最も好きな曲。かなり哲学的。これほど感情的で抑揚のないメロディーと声が他にあるのだろうか・・・
 
let down
記事を書くきっかけになった曲を紹介。聴きやすくて一時間ずっとリピートしてたら頭がふわふわした。
 
Creep
最後になりますがRadioheadといえばCreepを外すわけにはいかない。アドラー心理学に真向から対立する劣情を歌う。曲の中でらああああぁああぁんと叫ぶフレーズがあるが後にも先にもここまでトム・ヨークが叫んでいるのはCreepだけではないだろうか。
 
こう書くと昔の曲ばかりになってしまった。最近の曲はそこまで聴き込んでいないので昔の曲を中心に。pablo honeyやOkcomputerにThe Bendsに収録されている曲はもうすべてもれなくいい。Lotus flowerとかDaydreamingとかも遜色なくいいのだが思い出補正ってことで。
こうして単発で聴くのではなくRadioheadはアルバムとして聴くと曲想がかなり違ってくるのでもしこれから聴くよって方がいればまずPablo honeyからアルバムで聴くことをおすすめします。
Pablo Honey

Pablo Honey

 

 

救いの音楽としてのRadiohead。哲学としてのRadiohead。文学としてのRadiohead。絶望としてのRadiohead。感性としてのRadioheadRadioheadを聴いていると日常生活では見えないがたしかに大切ないろんな感情が湧き上がってくるのがわかる。
Radioheadはやはり、最高だ。

日本SUGEEEEと日本批判が噛み合わない理由

エストニアから日本を批判する人がいる。May-romaさんとかも同じことをやっているのでけっこう典型的な態度ではあるようだ。僕自身も日本礼讃番組が増えたなと思う。先日もテレビ番組で日本のトイレの機能性、特にウォシュレットなどについて取り上げていた。YOUTUBEにも外国人が日本のトイレを撮影した動画が人気らしい。たしかにすごい。自動車産業や技術関係の技能などと産業立国として見れば日本はSUGEEEEEとなる。完璧に同意する。
 
それにたいしてエストニアの日本人留学生が批判を繰り広げていた。
うーん、けっこう暴論のように見えるが日本を批判すること自体は特段おかしなことと思わない。僕も好きじゃない面はあるし対して大好きな面も日本にはある。国家に関して好きか嫌いかというのはおそらくトイレがどうしたとか些末な事で判断して書いているわけではないのではと邪推してしまう。間違っていたら単なる勘違いなのでそれはそれでごめんなさいするとして、日本SUGEEEE勢がトイレのように物質的なものに論拠を寄せている。一方で日本を批判する勢が持つ根源の思想ってもっと精神的なものなんじゃないかと思う。
日本礼讃が嫌いなのではなく日本を礼讃しなければいけないような同質性だったりを嫌う。あるいは同調する自分自身の思考そのものが抱える矛盾を嫌うのではないだろうか。個人的にはその感覚はたいへん理解できる感覚ではある。日本は自由意志を「体現」するのが難しい国だ。建前では自由というが現実的に、精神的には自由を確保するには大変な胆力がいるように思う。
 
日本の空気そのものが嫌いという感覚は言語化しづらい。言論空間、特にインターネットにおいては文章に論理を要求されることがしばしばある。しかし日本が嫌いという感覚はそんな明文化されるような論理的な代物ではなく臓物で感じるような「気持ち悪さ」なんじゃないかと思う。だから論理的な説明やソースを出して語る種類の話ではないんじゃないかな。どれだけトイレが高度に進化しようとも日本が気持ち悪いというのは感性の話なので物質や論理で補完できるものではない。そんなことを念頭に日本観について書いていく。

日本的労働観

同調圧力が最も実際に生活にくいこんでくる場面は労働においてではないだろうか?近年になってブラック企業問題や残業の是非などは議論されるようになってきて国としても政策をたちあげようとしている。しかし戦後から変わることなく続いてきた労働観は時間的な評価に基づいて査定されてきた。仕事の能力よりもどれだけ頑張っているのかポーズを取った人の勝ちであったし今なお大勢としてはそうである。最高に生産性が高い人物であろうとも無口で黙々と作業をこなしさっさと帰っていたら評価されない。現実にいて飛影や流川は栄えないのである。だから労働環境において同調性は不可避の事態として受け入れざるを得ない。仕事の能力よりも同調競争が処世術になっているので生産性が低い。その評価の方法そのものが海外から見たらたいへんに気持ち悪いものに映るのは当然の見え方であるだろう。
 

日本的画一観

日本の価値観の画一性はかなり異常だと思う。オタクは気持ち悪いという価値観が一般的だった時代にはみなオタク批判してオタクが市民権を得てクールジャパンになったらオタク批判は痛い奴と烙印を押す。時代はうつろうなどと言ってしまえばそれまでであるが問題はオタクがどうこうではなく、その世論に見えるあまりにも統一された画一性こそが気持ち悪さの正体なのではないだろうか。その時々における言論的正義または常識的な価値観が持つ誘導力は日本ではかなり大きいように感じる。この画一性が抱えるもうひとつの問題は近代以前に画一性は(本などを見るかぎり)かなりポジティブに捉えられてきたように思う。三丁目の夕日だったりそれよりも前だと武士道や終身雇用に支えられた労働観もそうであるが日本的コミュニティーにおいて画一性は仲間同士をかなり強固に結びつける絆としての役割を帯びていたのでしょう。しかしこの画一性はグローバルな現代、特に都市部では毒に転ずるので忌避すべき価値観となった。生き方として村社会的に価値観をつなぎどれだけ強く同調してもその村だけで生きている限りは画一性は権威であるがグローバルな環境では画一性ではなく多様性で社会をまわす構造になっている。だから海外に留学などをして多様性を学ぶと転じて画一性が気持ち悪く見えてしまう。その気持ち悪さが日本を批判する行動に結びついてブログなどを書く。画一性も多様性も生き方としてどちらも間違っていないのに・・・
 

日本的資本主義

ニートは笑わない。僕もエストニアではないけど留学したことがあってそこで現地のニートの人達とよくサッカーして遊んでた。彼らはみな就職活動などしないでひがな一日中、小学生のようにずっとサッカーしてた。生活はどうしているのかと聞けばニートサッカークラブにはスポンサーのような人がいてそこでみんなフラットメイトとして遊んで暮らしているんだそうだ。そこにたまたま僕も参加したのだが彼らはみな、けっこう笑う。日本のニートは悲観的すぎるように思う。そしてそれは資本主義的価値観によってもたらされた悲壮感なんじゃないだろうか。僕もニートをしてたことがあるんだけど昼間に散歩にいくだけで居場所の悪さみたいなものを感じるし酒を飲むのもすこし躊躇うようなそんな幽霊に権利を全て取り上げられたような「感覚」がある。社会への責任感といえば聞こえはいいけどよくよく考えてみれば社会はたまたま無職になった人の悲劇などおかまいなしにどうあれ回るので実際的に困るのは経済的な問題にすぎない。しかしなにか働いていないことは悪いように感じていた。資本主義は資本主義でしかないのにそこに精神的な問題までつながれている。金を持っている人間の態度はでかいしニートは笑わないような「画一化された資本主義的価値観」は日本では強烈だ。だから経済的な理由での自殺者が異常に多い。みんなで自己破産してサッカーしよう。
 

日本的夢想観

高度経済成長で育まれた上昇価値観に夢という概念がある。みな夢を見る。それがなにであるかは関係なく教育現場でも夢は非常にポジティブな意味で捉えられている。夢はポジティブなのは揺るがない。それは断じて揺るがないがしかしそれにしても夢を成功させた人物に権威を与えすぎだろうと思う。つまり日本人は夢をつかんだ人間に人間の理想像を見る。テレビ番組だったりありとあらゆるところで夢人間を散見するが夢ゆめいいすぎだろ、うるさいよいいかげんにしろとしばしば思うことがある。夢はポジティブだが権威を与える必要はないと個人的には思っている。ルート配送のドライバーやコンビニのレジを打っている人のほうがはるかに生活に根差し有り難い人達である。人間の理想像なんてないし仮に啓蒙するならもっと土着的なものにすべき。メディアや教育の夢想観や特殊な人間ばかりを礼賛する空気は気持ち悪いと感じることはある。
 

まとめ

物質や治安なんかの側面からみると日本、東京は世界一でしょう。しかし精神的にはねばねばしている面もやはりある。
いろいろあげたけど時代交差や世代闘争とかセックス観とか時間論とか日本の気持ち悪さは他にもありそう。けれど精神的な面で上記は特に日本の焦燥感や急進性をつくる元凶として大きいように思う。日本SUGEEEEEじゃなくて日本おえ~~~な側面もたしかにある。しかしそれを差し引いても日本はやっぱり、SUGEEEEEEEEEEEEEでしょ。
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めしうまいしね。
 
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