メロンダウト

メロンについて考えるよ

日本人て野球が好きではなかったんだな

主語がでかいのは百も承知だけど日本人ってもっと野球が好きなんだと思っていた。

 

僕は普段はまったく野球は見ないのだけど、WBCは見ている。普段のペナントと違い、全力で勝ちにいく戦いは野球ファンならずとも手に汗握る。たいへん面白いのはそうなんだけどWBCの日本戦の祝祭的面白さとは違い目についたのが

海外の代表チームの試合の観客の少なさだった。2次ラウンドのオランダ、キューバイスラエルなどどこも強豪チームでメジャーリーガーがやまほどいる。野球の最高峰の試合なのは僕のような素人でもわかる。

日本戦のイスラエルのピッチャーなんか先発から中継ぎまでみんな当たり前のように150kmのストレートを投げていた。技術的なレベルで言えば世界最高峰の戦いなんだろう。にもかかわらずニュースで見た日本戦以外の東京ドームはガラガラだった。僕はそんなに野球に詳しくないし知らなかったのだけど、みんな野球の話をしたりテレビのゴールデンタイムでも昔は試合を放送していたぐらいだからみんなもっと野球が好きなんだと思っていた。

 

野球と同じような人気スポーツ、サッカーのワールドカップと比較するとWBCの日本戦以外のみんなの興味のなさはかなり異常に見える。ワールドカップだとどの試合でも観客は埋まる。WBCのような空席状況は絶対にない。自分も個人的にサッカーは好きなので日本戦以外でも見たいと普通に思う。実際にワールドカップの時はハイライト含め全試合追う。サッカーが好きだからどんなプレーをするのかワクワクする。日韓ワールドカップの時のフランス対ウルグアイなんかめちゃくちゃ面白かった。レコバに圧倒されるフランス。アンリ退場。そして試合中ずっと緊迫した状況のまま0-0で試合終了。自分がまだ子供のころだったけどあの試合の強烈さはまだ鮮明に覚えている。

 

僕がサッカーを見てそうであったように野球でも海外メジャー選手の技術を見たい層は普通にいるんだと思っていた。だからWBCの東京ドームのガラガラ度はかなり衝撃的だった。日本人て競技としての野球はそんなに好きではなかったんだと・・・

 

日本における野球ってなんなんだろうか?

WBCに熱狂している日本の野球ファンも純粋なレベルで野球の技術に興味がある人は少ないみたいだ。技術に興味がないからと言って野球が好きではないと断定していいとは思わない。野球が好きな人は多い。

単純に技術にはあまり興味がないのだとしても野球が好き、であるのならばおそらく野球はスポーツではなく文化としての側面が強いのだろうと思う。

高校野球からプロ野球まで巨大なコミュニティーと見ることができる。伝統の一戦と謳われる巨人対阪神は東京対大阪の代理戦争のようなものかもしれない。広島のカープ女子などは完全にコミュニティーへの所属対象として野球がある。

あるいは高校野球もそうかもしれない。青春を構成する要素の全てが詰まっている。野球を通して得るチームの連帯感、他チームとの闘争、学校をあげての応援に甲子園の熱狂。それらいろいろなものが相混ざって野球はスポーツの枠を飛び越えて総体的に構成されている。

娯楽や遊技としての野球を超えている点で日本の野球は文化なのだろう。

 

しかしそれにしても野球は他のスポーツに比べたら経験者も圧倒的に多いし、もっとプレイへの興味を持っている層がいるんだと思っていた。

日本人て野球が(スポーツとしては)そんなに好きではなかったんだなとWBCを見ていて思ってしまった。

違反者講習を受けてきたのだが若者の車離れの理由が分かった

信号無視したので免許更新で違反者講習を受けてきた。あ、いちおう言っておくと信号無視はトラックの後ろで信号が見えなかったのだ。

 

2時間の違反者講習をうけてきたのだけど飲酒運転の刑罰の重さ、重大事故の影にある膨大なヒヤリハット、死亡事故被害者の嘆きのビデオなどを学んできた。

 

自分は物損事故も人身事故も起こしたことがないのだが違反者講習を聞いたらすこし車を運転するのもためらわざるを得ない気持ちになった。

端的に言えば「車はリスクがでかすぎる」のだ。経営者や富裕層はドライバーを雇う人が多いのはわかる。車はリスクが大きすぎる。

 

講習で北海道のビーチで飲酒運転して歩行者を引いてしまった男の実刑の話をしていたのだがなんと24年らしい。人を殺したのだから当然と考えることもできるが、たった一日の気の大きさの迷いで24年の実刑を食らう。

道路交通法改正以前は飲酒による危険運転致死傷は過失扱いで5年程度だったらしい。飲酒運転被害者の嘆願書などで飲酒運転が厳罰化した。しかし飲酒運転によるまったく覚えていない状態での犯罪で「24年」とはなんたる重い刑なんだろうかと思った。もちろん許されるべきことではない。もちろんである。しかし飲酒して気が大きくなった過ちで起きた事故による刑罰が24年は重い。殺人犯のように殺人の意志がないことは明白だから社会的な悪とはいいがたいとも思ってしまった。

 

こんなことを書くと車や酒を規制すべきだと思ってしまうが、現実問題として車がない社会は成り立たないので付き合っていくしかない。自分もドライバーを雇ったり逐一タクシーを拾う財力はないので「付き合っていくしかない」。

車はリスキーというのは講習を受ける前からずっと思っていたことなので、最近は一人で移動するときは若者よろしく原付(zoomer)ばかり乗っている。原付だと仮に3m前方にいきなり人が出てきても避けきれる自信がある。

思いっきりハンドルを切れば自分がこけて怪我し最悪、バイクが壊れる程度で済むだろう。よほどの悪状況でない限りは死亡したりすることも相手に怪我させることも原付であればない。車だともう通常走行中(60km程度で走行中)に人が飛び出してきた時点でOUTである。

原付の欠点は車の事故に巻き込まれたら被害がでかいだけだが人に怪我させて(保険があるとはいえ)何千万の賠償金を支払い、過失致死など罪悪感にうなされるよりは自分の足が折れるぐらいのリスクはどうということはない。

 

 

しかしそれにしても車はリスクが大きい。危険な目にあいそうになることをヒヤリハットと言うらしいのだが講習で聞いところによると、300の事故にはならないヒヤリハットがあり、その上に30の軽微な事故があり、そしてその上に死亡事故のような重大事故があるらしい。

ヒヤリハットが事故になるかどうかは運であってヒヤリハットそのものに気をつけようといっていた。その話とともに違反者の賠償金や実刑の話などを聞いた。

 

ヒヤリハットが事故になるのが運であれば実刑や賠償金もまたある程度は運ということになってしまうがそんな運に支配されたものにある種人生を預けているのかと思うと車が怖くならざるを得なかった。

あるルート配送のドライバーなどいつものように配送先を回っていたらたまたま子供が飛び出してきてブレーキが間に合わず死亡させてしまったらしい。最近、amazonとヤマトや佐川急便など物流業界の賃金が話題になっているが・・・

大型トラックというリスクを抱えていてそれで低賃金で働いてルート配送中に子供が飛び出してきたら人生終了である。車は怖い。たぶん事故にあうまではリスクについては「実感」がない。僕もこうして書いてはみてみるが実感があるかと言われるとおそらくは薄い。

リスクのことばかり書いてきたが車はおおむね楽しい。ドライブも楽しいし、運転中に音楽を聴くこともおおむね楽しい側面もある。それにしても刑罰にしてもドライバーの賃金にしてもリスクに見合うだけの楽しさかといわれるとはっきり言ってそこまでして運転したいとはまったくもって思わない。

 

それでも100%、安全な走行をしているかぎりなんらの社会的なリスクがないのであればまだいくばくかましであろう。しかし車だと過失の割合があって、逆車線のコンビニから中央線をまたいできた車と衝突しても

8:2という過失割合になってしまう。ただまっすぐ走っていて横から車が飛び出してきても注意義務違反になり事故となる。

 

昔はトラックのドライバーといえばブルーカラーを代表する高給取りだったらしい。しかし最近は非正規化になり下請け孫受けでリスクだけしかない状態で働いている人もめずらしくない。

飲酒運転も以前は過失扱いでいまほど刑罰が重かったわけではない(厳罰化が悪いとは言っていない)

今はリスクばかりが目に付くようになってしまった。高齢化社会で高齢ドライバーの事故に巻き込まれることもあるだろう。そのときにも過失割合で事故の責任は負う形に今の法律ではなっている。

 

運転免許の取得が当たり前になった社会では運転技術は稼げる技能とは言えず、車の刑罰が軽くなることはまずもってありえないだろう。自動運転技術の話題もあるが今この時代こそが未来から見るとなんとばかげたリスクを背負って運転しているんだろうと思われる唯一の時代なのかもしれない。

ここまで長文を書いておいてなんだけど、車はリスクがでかいし小さくなったことはないのでこれから先もリスキーなままdeathね。

みんな原付に乗ってまったりいきましょうよ。zoomerはダサかっこいいぞ。

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おしまい

あざなわさんの炎上とはてな村の権威のなさ

あざなわさんのブログ。ミッシェルが好きという記事を見てから見ているのだがずいぶん長いことはてなでブログを書かれている人だ。

はてなで長いことブログを書いている人でいうとフミコさん、wattoさん、fujiponさん、シロクマさんなどなどいる。はてなブログの権威性で言えば彼らが果たしてきた役割は大きい。承認欲求を語らせればシロクマ先生にかなう人はいないし、劣情を語らせればフミコさんにかなう人はいなく、優しさで言えばfujiponさんにかなう人はいなく、最強の普遍性を持つwattoさんにはかなわない。

 

いっぽうではてな村の花形と言ってもいい批評。造語で言えば手斧と言ったほうがいいかもしれないが、まったく不毛なイデオロギーの対立もはてな界隈ではよく見られる。先日もあざなわさんがけっこうわけのわからない批判をして炎上していた。内容についてはあえて言及しない。そんな気分になることもあるだろう。自分はこういう勘違いと言えるような歪みを投稿する時には増田に投稿するようにしている。だから僕のブログはあまり信じないほうがいい。僕は真に僕のことをブログに書いているわけではない。

 

僕のことはどうでもいいのだが、あざなわさんは長いことはてなでブログを書いていて認知度で言ってもはてなブログでは上位5%には入っている。そのブログがフルボッコと言えるほどブックマーカーによって炎上しているのを見て何とも言えない気持ちになってしまった。

つまりはてな村では「権威」がないのだろう。誰の言うことだから聞くとか誰の言うことだから気の迷いだと判断する。そういう信頼の積み重ねがない。信頼がないからそこで失言するような自由もまたない。

リアルな現場で言えば、例えば信頼している友人や上司が何か突拍子もないことを言ったとする。すると通常は気分が悪いのかなとか、勘違いしているのかなとか、何か嫌なことでもあったのかななど考える。過去の行動、発言で権威を確保されているので思慮が働く。それはありとあらゆる現場でそうなっていてそれが自由の基礎にある。

それがはてなにはない。あるいはあざなわさんのキャラクターもあるのかもしれないが良い記事をあげて賞賛された人でも悪文を投稿すればボロクソに非難を浴びる。その承認の積み重ねの無意味さには絶望せざるを得ないであろう。

 

承認欲求と一言に言うが承認の目的は何かと言えば単なる認められたいという欲求ではなく、認められた末に確保できる権威への依存欲求ということも言える。通常はそれが達成されると同時に安心も運んできてくれる。だからみな承認されたがる。鼻くそをほじくっても許される承認関係=許容関係にこそ実りがある。

 

 

しかしあざなわさんの炎上についたブコメなどを見ているとはてなでの許容関係の構築はほとんど完璧に絶望的という感想を持たざるを得なかった。良文は承認される。一方でそれが権威に変わることはない。針の穴に糸を通すかのごとく客観を常に気にする神経が要求される。あざなわさんのブログも過去記事などを見るに良識がある人に見える。

今回の炎上を見るに、そんな神経質で苦行に近いブログ執筆をつづけながらも権威を築けはしなかった。良文でなくなった瞬間に批判されボロクソに叩かれる。そんな承認関係にいったい何の意味があるのであろうか・・・

自分はあざなわさんに比べればはるかに泡沫な弱小ブロガーである。しかし将来的にブログで文章を蓄積した結果が今回の炎上で書き込まれたコメントであるのであれば絶望しかない。

良文は賞賛し、悪文は批判する。それはそれは冷静な判断である。しかし承認による権威の構築がそれほどにも意味のないものだとするのであればいったい誰がブログなど書くのであろうか。

アフィリエイトも批判し個人ブログには永久に権威が与えられない。今回の炎上で承認も吹けば飛ぶような代物でしかないことが証明された。

 

針の穴を通し続けるほどの神経を僕はとてもじゃないが持ち合わせていない。ブログにクソ文を投稿しても許されるだけの権威が欲しい。権威などというと傲慢のように見える。許しだ。許しがほしい。

おそらくその許しがなくなれば承認欲求により劣情を吐露する古き良きインターネットはなくなるしかない。そしてそうなった時、残るのははてな村民の大嫌いなアフィリエイトか、炎上をものともしないはあちゅう的なネオリベブロガーだけとなるだろう。あるいは互助会か。商業性しか残らなくなる。ブックマーカーによって文化的な個人ブログは絶滅していく。

勘案してほしい。同じ日本人とて書いている環境も違えば虫の居所が悪いだけの時だってある。

クソ文を投稿した時にわかってくれなくてもかまわない。しかし「ああ、荒れてんな、勘違いしてんな」ぐらいの余白は欲しい。そうでなければ誰がどうしてブログなど書きつづけるのであろうか・・・

George