メロンダウト

メロンについて考えるよ

メタ承認論~世間からの承認の激化と世間への信用の失墜~

なんでブログなんか書いてるんだろうとさいきんことに思う。実際には最近忙しいのが主たる理由です。だから最近はそんなに書いていないのだけどそれでもはてブなどはちょこちょこやっている。

 

なんでブログを書いたりするのだろう?Youtuberでもtwitterでもinstagramでもにこなま主でもアイドルでもなんでもいいが不特定多数の人間に発信するモチベーションはなんなのだろう?

 

一般にこの手の欲求は社会への帰属欲求だとか、もっとはやっている言葉で言えば承認欲求が最も一般的に使われる。

 

しかしこの「承認欲求」という言葉に関して僕は以前からなにか違和感がある。端的に言えばこうしてブログを書いている分際で言うのはどうかと思うが僕個人は世間からの承認はまったくもっていらない。

だから一口にブログを書くのは承認欲求と判断されると???となってしまう。承認されなくてもいい。だからといってただのメモともまた違う感覚がある。

 

承認は承認でも僕は僕への承認ではなく僕が世界を(などというと大仰すぎるが)承認したいといったほうがしっくりくる。ベクトルの問題である。

認められたいのではなく認めることが可能な場所として認識したい。そんなもんブログで何を書いたとしても世界が変わるわけがないのはわかりきっている。しかし世間には興味がある。大人の条件としてあげられる社会への参画意識とかそんな定型的なものではない。世界をどう認識できるかといったゆえん命題のようなテーマがただなんか気づいたら居たみたいな感覚だ。

 

たぶんアイドルがかき集める承認の気味の悪さや炎上系youtuberなどをどこか幼稚だと認識する価値観はつまりこの承認の能動と受動の形態にあるのだと思う。

こんなこというと反感を買うかもしれないがアイドルはファンを愛してはいない、ように見える。アイドルは受動的承認にコミットしているので愛されることに軸足を置いている、ように見える。Youtuberは子供の純粋性をかきあつめている点で受動的承認でもなくマーケティングにコミットしている、ように見える。普通に考えてコーラの風呂になど入りたいわけがない。

 

目的が手段化していて承認を集めることやマーケティングのためならいかなる手段でもとるみたいな印象を受ける。アイドルの純粋性は愛するためではなく愛されるためだけに活用されうる。

たぶんあらゆる状況でこの受動的承認一辺倒な事態がはびこっている。日本人は世間を愛することを忘れたんだろうと思う。

個別の案件だけで見ればたとえば日本人のすばらしさを放送しているテレビ番組とか震災ボランティアの美談などがあげられるが総体としての世間を愛している人はおそらくはかなり少ない。いやその姿勢すらきっと嘲笑されてしまうだろう。

 

昭和期の三丁目の夕日に描かれる日本の風景は日本の空気そのものを愛するに十分な空気だったのかもしれない。経済的にも希望があり戦後復興を遂げた日本人を誇り、その総体を愛した人が多かったのであろう。

 

 

しかしこの世間を愛するというのは完全にいまや死語となってしまった。右翼のように日本の歴史や風土そのものを保守しようと考えている人はまだまだかなりいるが現在の日本の空気を愛しているなんて人はまず・・・いないのではないだろうか?

 

だから世間へのコミットの仕方として承認「されたい」という受動的なベクトルでしか世間と対峙できなくなった。たぶんそれがいまネットで巻き起こっている承認戦争の最も根本にある哲学的理由ではないかと思うのだ。

 

そうして愛されたいだけの人がはびこればはびこるほどにますます世間への信頼は失われていく。人は愛してくれるから愛することができる。たぶん人間関係でも世間と己の関係でも変わらないのだろう。だから愛されたいだけの人を見るにつけ(いかにすばらしい笑顔で笑おうがいかに年齢的に若かろうが)欺瞞的であると、そう思うのだ。

 

これは何もアイドルやブロガーだけではなく、もっと身近な話で恋愛や自己啓発などでもその傾向がある。

多くの恋愛指南の本や文章などは「いかに愛されるか」しか書いていない。非モテ論壇もそうだし恋愛工学も愛されることのみに着目している。他者の心理をどう動かせばいいのかの方法論しか書いていなく愛する方法については書かれていない。僕自身もここで愛するなんて書いているがこんなことを書くのは自分で書いておいてなんだが違和感がある。

また自己啓発書などもいかに自分を大きく見せるか、いかに自分を承認させるかについてしか書かれていない。相手をどう見るか、どうしたら愛せるのかのほうがはるかに重要なことであるのに世間への信用がないのと同じく、他者への信用自体がもはやない前提で考えているのであろう。

 

現場レベルで言えば、ストレンジャー(完全な他人)にたいする接し方で実際に世間への信用を測ることができる。例えば携帯の番号を初対面の人間に聞く。

すると距離感のない人間、マナーのない人間と認識されるのが最もよくある反応だろう。しかし携帯の番号ぐらい教えても別にどうということはないが理由もなく断る人のほうが多い。

この事例が多くの人の世間への認識なんだろうと思う。つまりもう世間を信用していないのだろう。

 

 

こんなこと書いている僕自身、世間を信用してはいない、が(ここが最も大きい部分なのだろうが)したいとは思っている。

なんて無駄なことを書いているんだろうと文末になり思うがしかし世間への信用、愛する能力こそがたぶん聖なる思想みたいなものなんだろうと思う。こうして書いてみるとゆえん中二病だと言って良い文章で自分で書いておいて投稿するべきか迷っているのだが

愛されるよりも愛するほうがはるかに尊いと思う。

愛されるより愛したい

愛されるより愛したい

 

 

クリエイティブ労働の無限性と家族、労働観その条件および環境について

ひさしぶりにブログ書くよ。

 

クリエイティビティーの弊害

クリエイティブであることはほとんど無手で称賛される。意識高い系の理想像のようなものであって姿勢としては正しいものなのだろう。しかしあえてクリエイティブがもたらす害悪について言及するとすれば「無限」であるということが言えると思う。創造は無限に抽象的であるがゆえに着地する具体性が定まりきらない。そしてクリエイティブを仕事に還元するのならば労働の無限性という論理が成立する。労働の無限性。これがクリエイティブの弊害、である。

電通の労働時間が最近話題になっているが電通やテレビ局などの職種がなぜ長時間労働になりやすいのかといえばクリエイティブだからの一点に尽きる。良い物をつくろうというスローガンが問題視されることは少ない。

しかしスローガンそのものを程度問題として問題視すべきだと僕は思う。クリエイティブな仕事は完璧ではないが十全な出来で労働を完結させる管理職が望まれている。

けれど肝心の管理職になる人間がよいものをつくった実績(クリエイティビティー)によって出世して部下を管理する。そしてそのクリエイティビティーの高さゆえに出来る上司が出来ない部下を殺していく。

しかしその上司も超クリエイティブな人間から見れば非クリエイティブであってそうして全員が無限のクリエイティブ競争にさらされることになる。

 

これが現代の労働を無限に拡張可能にして人を疲れさせる。

 

 

日本企業の家族性の崩壊

昭和の高度経済成長期においては就職といえば終身雇用が当たり前だったと聞く。これは当時の政治経済の条件を考えてもかなり異常に見える。

企業に骨をうずめて働くのは共産主義的であって資本主義と民主主義で成立している日本では現在の流動性の高い働き方のほうがふさわしいように思う。なぜ終身雇用が文化として存在したのだろうか?

 

思うに日本の終身雇用文化は宗教だったのではなかろうか?

コツコツやる人という人種がいた。今やもうほとんど聞かなくなった。コツコツはクリエイティブではない。価値を創出しない人間はクリエイティブ競争の現代において不要の存在となった。コツコツやるだけであれば中国に工場をつくったほうが良い。

また仕事が早いわけでもない、コツコツやる人でもない、ムードメーカーでもないが「繋ぐだけ人」がいた。なにもできないがしかしそこにいるだけで誰かと誰かをつないだりその場を和ませる緩衝材のような人が存在した。学校や友人関係ではまだ存在する。具体的な能力ではなくその場の空気を構築する役割を帯びた人間。

それが企業内にも僕は必要だと思うがいなくなってきているように見える(のは僕の観測範囲の問題かもしれないが)

昭和の終身雇用の時代には上記の人達がいたのではないだろうか?能力ではなく役目のようなものがある人物。

それは企業がビジネス化し成果をあげるための集団となった現在ではもはや必要なくなった。

 

上記の人達が存在する昭和の日本企業はおそらくは営利企業というよりも家族に近い集団だったのではと推測できる。つまり就職と聞くと現在では働いて能力や時間におうじてお金をもらうという属性が強いが、昭和期の就職は企業という家に入るものだったのかもしれない。だから家の人間関係を円滑にするための上記の人種が必要だった。

企業を家族とみなす稀有な国が日本特有の企業風土というやつだったのだ。しかし今ではもう労働力、クリエイティブ力、コミュニケーション能力などなど能力主義成果主義となり家族としての企業は存在しえなくなった。

 

つまり日本の企業の家族性は崩壊し働くためだけの場所になった。市場のみならず働き方自体が外資化しているといったほうがしっくりくるかもしれない。

 

働くためだけの場所と聞くと個人的にはドライで束縛されない環境で良い印象も持つが同時に能力競争も起こるようになった。いやもともと競争はあったのだが激化したと言ったほうがいい。だから「クリエイティブ」なんて言葉が21世紀になり途端に重要視されるようになってきたように思う。

 

企業が家族性をなくしクリエイティブ競争が生まれクリエイティブという抽象さは無限の競争を余儀なくされる。たぶんそれがいま日本に起きている労働環境とその条件なんだろうなと思う。

 

企業が家族性をなくしたように完全取引化される世界はおそらく友人関係、恋愛、結婚、または家族そのものにまで浸食しているのではなかろうか・・・と展開しようと思ったけど後日にします。

運動瞑想野菜自由憲法

合成の誤謬は経済学の言葉であるが哲学的な分野にも食い込んでくる言葉だろうなとタバコに関するニュースを見て思った。

 

経済学での誤謬はマクロとミクロの話で、貯金はミクロ経済ではしたほうがいいがマクロ経済にとってはしないほうがいいとされている。

この話を死についてうつしかえれば人間はマクロでは生産活動が不可能になった時点でさっさと死んだほうがいい。こんなことを政治家が言ったら恐ろしいほど炎上するだろう。とんでもない暴言である。

炎上するが死んだほうがいいというのはひとつ、真実でもある。しかし死について語ることはなぜか許されていない。

個人金融資産の8割は60歳以上が持っていて日本で経済をもう一度活性化しようと思ったらここに切り込まざるを得ない。消費活動も老年によって停滞して、余生を過ごせるだけのお金を投資に向けるインセンティブがあるわけもない。老人から富を移転させようと思ったら相続税しかいまのところない。

しかしここに切り込むのは絶対にタブーとされている。日本ではさっさと死ぬことの美徳が語られることはない。あるいは世界中でそうである。

 

そもそもなぜさっさと死んではいけないのだろうか?最近も日本健幸都市連合や健康増進法なるものもできている。ますます健康志向で長生きするのが良いと周知している。

しかし上述したようにマクロで見れば老人になって消費せずに預貯金で生きることは経済的に見れば「悪」である。もちろん経済など人間の一側面にすぎない。だからみんなさっさと死のうなんて言うつもりは毛頭ない。

ないが国が必要以上に健康を促すことには違和感を覚える。健康は個々人が個々人の自由意志によって追求するものである。憲法13条に幸福追求権が明記されている。個々人の行動は公共の福祉に反しない限りにおいては制限しえない。

 

憲法13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

 

当たり前であるが、国が経済を循環させるために老人にさっさと死ねとキャンペーンするのは憲法で禁じられている。これは当然であるが、では国が国民にたいして健康を要求するのはどうなのだろうか?

個人の幸福追求の方法には運動などポジティブな方法がある一方で、ネガティブな方法も幸福追求の方法として数えることができる。堕落しタバコなど公共の福祉に反しない環境で吸い酒を飲みまくりさっさと死んだ人間を一般的には、断定的に不幸な人間と決めつける。

しかしそうして堕落し、ドーパミンに耽溺しながら生きる彼ら彼女らは本当に不幸なのだろうか?はたから見れば不幸な人に見えても本人は幸福だと思っているかもしれない。

結論としてはわからない。わからないから個人が個人の人生をどうデザインするかは当人の自由に選択できるという憲法が存在する。

 

80歳になってまでいきたくない人だっている。40代から常に健康を意識して長生きするが死ぬ間際に70歳から80歳までの人生を振り返ると生産活動が終了し、無意味に食にありつくだけの日に罪悪感を抱き、死ぬ間際にもっと酒でも飲んで遊べば良かったと後悔するかもしれない。もちろん長生きして良いことだってたくさんあるかもしれない。ありとあらゆる可能性がある。

 

不確定な未来にたいしてああだこうだ言ってもわからない。わからないからこそだから「自由」が大切なんだと思う。

健康など定型化した与えられた価値観により未来で幸福になろうと思ってなれなかった場合には、気持ちのぶつけどころが存在しない。自由意志によって選んだ未来であれば例え不幸になっても自分で選んだ生き方なんだからと気持ちを消化できるかもしれない。つまり運動瞑想野菜に代表されるようにみな一様に健康が大事なんだと言う。

もちろん大事である。大事であるが「自由意志の上に立たない健康」は破綻する可能性が高いと僕は思う。

例えばまじめにコツコツやってきたサラリーマンが自由意志を持たないまま社会的立場だけを目的として働き、突然リストラされたら人生の終わりだと感じるようなものだ。

 

同じように健康だけを目的とした運動瞑想野菜は病気になったときの後悔の度合いも増幅させる。健康を目指し無理やり運動して「病気になる確率を下げる」のと「病気になったときの後悔の量」はトレードオフでしかない。

つまり無理やり運動して野菜を食べても健康にはなれても幸福にはなれないという解が出る。じゃあ幸福になるためにはどうしたらいいのだろうか?

もうすでに書いたがなによりも大事なのが「自由」だ。自由。幼子のごとき、自由だ。

自由意志により健康を目指すのであれば病気になったときの後悔の量を軽減することができるのでトレードオフではなくなる。

具体的には運動であれば仲間と笑いながらフットサルなどする。野菜を食べるのであれば美味しく盛り付け最高のドレッシングでいただく。瞑想は・・・よくわからないので割愛しよう。

 

国が健康を布教する気持ち悪さを書こうと思ったのにいつのまにか自由意志を説く憲法13条のすばらしさと運動瞑想野菜について書いていた。健康増進法た後日かくかもしれない。

脱線しまくってしまったがかまわない。ブログも健康も自由こそが大切なのだ。