メロンダウト

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経済的な枠組みで語る日本論はもはや意味がない

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日本は一人負け? | MechaAG

日本のGDPが伸び悩んでいる。いやそうではない、といった2つの記事。大変面白く読んだのですが経済的な枠組みで日本を語ることにはたして意味があるのか。

最近、東浩紀さんのゲンロン0をちょうど読了したのですが、本の中で人間は現在2つの世界を生きているということが書かれていました。

 

ゲンロン0の内容は前近代的人間観をアップデートするために政治と経済の枠組みを解体し近代の条件を再確認する。そこからヘーゲルなどの思想をチューンナっプして東さんが提示したのが「観光客」という概念でした。本自体は大変面白く思想書としてはめずらしく感動を覚えるようなものでした。

 

ゲンロン0の中で前近代では政治と経済は国家によってコントロールが(ある程度)可能なものでその中でナショナリズムなどの人間像が生まれえたと書かれています。さらに続き近代になりその国家観はグローバリズムによって解体し政治と経済は上下に分断され並列に分かれてしまったと述べられていました。

政治はいまだに国家同士でやりとりするものだが経済は情報技術や物流の発達により国境がない状態。これが近代の条件であると。

 

この前提にたつと日本におけるGDPやあるいはエストニアから見た日本の経済指標といったもの、また世界と比較した日本論がはたしてどこまで実効性のあるものなのかといった疑問が冒頭2記事にたいする違和感として湧き上がってきます。

 

経済学で底辺への競争というやつがあり労働力は安いほう安いほうへと流れていくのが資本主義の原理なのでグローバル化した世界において底辺は順次更新されていく。中国の労働力が安い、ベトナムのほうが安い、そしてエストニアの記事に書かれてあるように日本人の勤勉労働者のほうがコスパがいいと。

ゲンロン0に記されてありますが、経済的な原理はタックスヘイブンや中国のユニクロの工場などを見ればわかるように政治で止めることが難しくなってきている。

不可避で不可逆な事態であって一国家における経済指標は政治がコントロールはできなくなってきている。

だから日本の経済指標が悪い、日本だけが経済成長していないといった言説が政治的に書かれていたとしても経済的な意味ではもはや「日本」という国は存在しないんですよね。経済的な国家は劇的に縮小していっている。

 

アマゾンもグーグルもユニクロトヨタも生活基盤を支えてくれている企業はいまやほとんどが多国籍企業です。創業がどこの国であるかでその国の経済指標にも影響されますけど国際的な影響力を持つ企業が日本のGDPにいくら貢献しているとかいった指標はいったい何の意味を持つのか甚だ疑問です。

 

日本すげええや日本オワコンと書かれているがもう経済的な意味での日本は存在していない。日本のGDPや日本のGNP、物価上昇率といった供給を加味して計算された指標はアベノミクスによる実質成長率を見てわかるように金融政策や税金ではコントロールしてもしきれなくなっている。

GND(国民総需要)やマネーサプライ、国債残高や個人金融資産などの需要ベースでの指標に日本の体力を見ることはできる。できるが需要は日本企業の競争力といった指標ではない。労働効率や生産性などから日本オワコンと言える根拠にはならない。

 

つまりもう日本すげええとか日本オワコンとかいう政治経済的な意味で統合された言説は政治と経済が切り離された世界においては意味をなさない。

じゃあどうするのかと言ったらまったく解決策が思いつかない。観光客になるのが次善策 となるのかもしれない。とりあえず面白いので貼っておきます。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

他人の人生を断定する人生相談をしてはいけない

人生相談がばずっていて思ったことについて

 

一般論として書きたいので記事言及はしないけど最近togetterでばずっていた女優さんの人生相談について。ブクマコメントは毒親に厳しいはてな民らしく絶賛していたが、話の属性で肯定しているだけのようにも見えてしまった。

結論から書いてしまえば断定的な人生相談の回答はその内容の是非に関わらずしてはいけない種類の話である。

 

どれだけ人の話を親身になって聞いても他人の心のうちは2割しかわからないのは有名です。基本的に他人の内面はわからない。どれだけ本音で話せる親友でも家族でも内心の真実は絶対にわからない。

まずこれが最低限の人の話を聞く時のマナーであってこれが過ぎると老害だとかじじいだとか言われる。

 

老害は凝り固まった価値観で喋る人間のことを言っているのだろうが、老害が嫌われるのは他人の人生について知ったような口を聞くなというニュアンスが込められているからでしょう。

今では一般に話の内容次第で老害かどうかを決めてしまっているのだが人の人生に断定的な口調で話すのはそれだけで老害であると思う。

 

それがいかに正鵠を射ていても、である。

 

こういった断定的な人生相談はいろいろなところで見られていて占いだとか自己啓発なんかもそうだがその全てが内容の如何に関わらず有害だと思う。はっきり言えば倫理にもとる。

キリスト教モーゼの十戒仏教の教義、あらゆる宗教の教義でも偽りの証言をしてはならないとある。「他人の内心がわからないこと+嘘をついてはいけない」という前提があれば他人の人生にたいして断定的な口調で話すこと自体が善悪を問わず原理的に悪なのだ。

それがいかに世相によって支持されていようが関係ない。またそれがいかにやさしさで満ち溢れていようが関係ない。断定的な回答は原理的にしてはならない。

 

人の相談にたいして断定的に回答をぶつけるとまれに内心の真実を見つけてくれたと歓喜する人がいる。本人でもわからないことを話してくれたと歓喜する。

しかしそれこそが新興宗教の手口になるギャンブリングと言える。

 

例えるなら自己啓発や占いも人生相談も頭の上に乗せたリンゴを矢で穿つみたいな話である。

「親のことが嫌いなはずです」なんて言えばリンゴを穿つかのごとく凄腕の弓師なんて賞賛を得るかもしれない。また矢で顔を打たれたにもかかわらず感謝される「かもしれない」。しかし親のことが嫌いなはずなんてそもそもわからないですよね。

不特定多数の人めがけて矢をうちまくればリンゴに当たる人も出てくる。矢が当たった人は頭の上に乗せたリンゴがリンゴだと気づいて喜んでくれるかもしれない。数うちゃ当たる話である。断定的に話せばそれが当たった人の驚嘆や感謝も人一倍である。

 

しかし顔に矢が刺さって傷だらけになる人もいる。そもそもリンゴが乗っていない人もいるだろう。

 

けれどそもそもが頭に乗せたリンゴを矢で打ってはいけないんですよ。それがいかに熟練した弓の達人(人生相談では人生の先輩や哲学者)であっても打ってはいけない。

頭に乗せたリンゴに干渉していいのはそのリンゴに手を伸ばせる距離にいる人。

毒リンゴであっても一緒に食べてくれるだけの責任や痛みを伴う隣人だけが人の人生に踏み込んでいい。

それが他者への「倫理」だと僕は思う。

障害者差別は暗黒闘気なのか

 

表面的な善意を取り払うと、その発想は、19人の障害者が殺害された相模原事件とつながってくる。

 

正直言ってあまり腑に落ちなかった。

 

障害者を差別している側が自分で考えろというのはものすごく危険な話だと思う。極端な例を挙げれば言及記事内にも書かれている相模原の事件。

あれはむしろ「自分で考えすぎた」から総理に手紙を出して障害者を間引くような危険思想に走ったという構造だった。理念だとかポリティカルコレクトネスだとか基本的人権、あるいは記事内で書かれていた表面的な善意みたいな客観視点は自らの主観性を疑問視する為の指標みたいな役割が本来はあるはずなんだよね。

 

最近はポリコレをはじめその客観視自体を否定する空気もあるけどリベラルが言う永遠不滅の理想みたいなものはどれも指標としては間違ってはいないんですよね。現実的にその理想的人間像を背負えるか背負えないかみたいなことが議論されることはあるしそれでトランプが当選したわけだけど理念が正しくないわけではない。

しかし障害者に優しくしなきゃとか地球の裏側に生きている人に寄付を送るとかさ、そういう一般に偽善と言われるものは人間という動物が不特定多数の他者と生きていくかぎりは必要なものだ。

 

 

障害者の話に戻すと障害者のことを自己客観視なしに語らせたら車椅子が邪魔だとか税金かかりすぎだから社会に出てくるなとかそんな話になってしまうのは自明なんだよね。子供のころに学校で知的障害者の方を差別するなんてどこの学校でもあったはずで自分が通っていた小学校にも中学校にもあった。

言及記事内で小さい主語で語れと書かれているけれども人間は教育を受けて小さい主語から外れて初めて「人」ではなく「人間」になる。

ヘーゲルも書いていることだけど人は家族から市民になって国民になる。そうして国民としての自覚を持つ(客観視する)ことで人間は昇華され成熟していってその過程で不特定多数の他者にたいする思いやりをもてるようになる。

その思いやりも記事内の論法で言えば偽善で表面的な善意ってやつなんだろうけどね。

人間なんて後天的には可変的だけど本来は動物でしかないことを無視したら弱肉強食の世界にしかならない。それはとてもナチュラルに障害者を差別し容姿と身体能力で階級が決定する初等教育の現場を見れば明らかなんですよ。

 

なんというかさ、人類が民主化して教育を受けるようになって世界とか国家に比しての自己を客観視できるようになってその結果めんどくさいことも増えた。けどその開かれた偽善の意識は嘘でもなんでもいいから絶対に保持すべきものだと僕は思うよ。

 

突拍子もない例を出すとヒュンケルみたいなものだよね。ダイの大冒険の。26巻ぐらいだったかな。ミストバーンから暗黒闘気入りの杯を飲まされるんだけど光の闘気で暗黒闘気を体の奥底に封じ込める。あれがそのまま人間が持つ闇と光、教育と動物の相克を象徴している。

 

でもお前からだ光ってっけど暗黒闘気からだのなかにあるじゃん、それ表面的な光の闘気じゃんとか言われても野暮としかいいようがないわけで。

 

つまり後天的な教育によって与えられた建前こそがリアルであるべきでリアルをそのままリアルにしようとするのは人間の混沌から目を反らしているだけのような気がしてならない。