メロンダウト

メロンについて考えるよ

選択的夫婦別姓への反論に反論しますに反論しますというか自由そのものについて

夫婦別姓論者は根本的なところを考えていないように見えるので反論していきます。

note.mu

夫婦別姓に関して青野慶久さんが反論に反論していましたがその反論に反論します。保守とは何かとか壮大な話になってしまいそうですがはじめに疑問に思ったのが夫婦別姓論者は結婚制度そのものに関してはどう考えているのだろうかということです。

 

 

夫婦別姓と結婚

青野さんは夫婦別姓を実務的な不備が多すぎるので個人の利益を損なっているという論旨で書かれていましたが、これは結婚制度そのものに関してもまったく同じことが言えます。

たとえば離婚後の財産分与に関してですが

婚前契約をかわしていない夫婦が結婚後に離婚した場合、財産分与により結婚後に得た収入は均等に配分されます。離婚することそのものにも時間や労力が必要になります。これは夫婦別姓を推進するような自由主義的な立場から見れば夫婦同姓以上に意味不明な制度です。

また戸籍、配偶者控除など結婚にまつわる制度そのものが自由主義的立場から見るとわけがわからないもので溢れ返っています。

この中で夫婦別姓だけが個人の自由を損なっていると言うのはなぜなのかそこに違和感を感じます。

結婚制度そのものをなくしてしまえば個人の財産、自由を脅かすものはなくなります。だから夫婦別姓に反対するのではなく夫婦別姓論者は結婚制度そのものに反対したらどうだろうか。そのほうが筋が通っているように見えます。堀江貴史氏などは結婚廃止論者ですが彼の立場はリバタリアンとして筋は通っています。

しかしあえて夫婦別姓だけを問題とする人達はなぜなのか?そこがよくわかりません。

夫婦別姓論者は社会制度そのものに関する考察ではなく個人の欲望の吐露にすぎないように見えます。自らの個人的経験により社会制度そのものを批判するのはビスマルク風に言えば愚かな行為です。夫婦別姓はよくて財産分与はOKといった考えはあきらかに矛盾しています。

夫婦別姓論に結婚廃止論を持ち出すのは極論に思えますがしかしこれらは地続きであると絶対に自覚するべきです。

 

なぜか?

私達は自由主義によりムラを壊した過去をすでに持っているからです。結果どうなったかは書くまでもないでしょう。次に私達はイエを破壊しようとしている。そのはじまりが選択的別姓になるかもしれない。

愚者は経験から学び賢者は歴史から学ぶ

自由主義の歴史に学べばムラが破壊されたようにイエも破壊される危険性を持っていると考えるべきです。

ムラを破壊した最初の自由も「虫が嫌」などの些細な話だったのでしょう。夫婦別姓という些細な話がイエを破壊するのもまたあり得ない結末とは言えないと注意するべきです。

 

別姓がOKなら財産分与も婚姻届もいらないよね。不倫による慰謝料も自由主義の観点からなくすべきだよね。そもそもなんで夫や妻以外の人間とセックスしちゃいけないの?僕だって私だっていろんな人とセックスしたいよ。複数人同時に愛する自由は?自由だよね。イエも自由化すべきだよね。だって自由が絶対正しいんだもん。

ならもう結婚自体なくしちゃえばと人が考え出すのはない話ではありません。人はそれだけ自由が好きです。しかし自由という欲望により破壊される聖域がある。

 

実務、論理、コスパ、損得、自由競争。これらは資本主義による当然の流れですがそれに耐えるべき局面がある。夫婦別姓はその類です。

資本により愛、家族、村、自然が押し流されることを守らなければどうして穏やかに生きていけようかという根源的感情。それが保守の根幹にある。

僕は保守主義者ではないですがこれらの話がまったくわからない人達が一定数、自由を妄信している人達の中に存在するように見えます。保守と話ができないリベラルはその論理の正当性だけを主張し感情を無視する傾向があるように見える。青野氏がどういった人かはわかりませんが夫婦別姓議論に関する氏の論理は保守の感情をすくっていない点ですくなくとも「まだ」制度化するべきではない。リベラルの論理を保守が保守化できるまで待つべき。感情を無視した論理は正しくない。

それが私の立場です。

 

そもそもこの結婚制度を廃止しようというのはかなり以前から言われています。資本主義の生産性を損なっているとずっと言われてきました。

青野さんが書いていた実務的な不備が良い例ですが銀行口座や名刺の名義変更などは青野さん個人のコストはもちろん銀行や周囲の人達にとっても手間がかかります。その時間を使って仕事でもしたほうが生産性はあがります。夫婦同姓は社会全体として生産性をさげています。結婚に関するあらゆることがそうです。だから結婚を廃止しよう・・・とずっと言われてきましたがなくなっていません。

 

結婚制度は実務レベルの話だけはなく少子化や進化論の観点からも廃止したほうがいいです。優秀な男が複数の妻を持ち優秀な子孫を残し女性も一人の男性だけでなく完全自由恋愛にしてよりよい子供を好きに生んだほうが政策的な観点からもメリットがでかいです。

しかしなぜ人類は一人の人間を愛して結婚というめんどくさい制度に縛られ生きているのか考えた時に

人は資本とは切り離された聖域、つまりイエが絶対に必要だからだと言えます。愛でもいい。彼氏彼女が浮気したと知った時の激情だったり祖父母が亡くなった時に思い返す思慕だったりそういった根源的な感情が大切だと考えるから人は保守になる。

その意味で家族に関しては日本人はほとんどが保守なんじゃないかと思います。つまりイエの中に自由を持ち込みたい人がどれだけいるのかってことがそもそも疑問です。自説を自由という反論不可能に見える正義により夫婦別姓が語られていますが自分は反論します。反対しているわけではありません。反論をぶつけることが大事だと考えているからです。誰も自由の是非について話をしなくなったからです。同姓が愛の結晶なんて話ではありません。選択的であることが問題とされるべきです。

 

そもそも

自由を絶対視する人がいますが自由が生まれたのは政治からの自由、奴隷からの自由など権利を取り戻す対象がいたから生まれた価値観なのですよね。

ありとあらゆる人間の自由は尊重されるべきだと近代になってから言われるようになってきましたが、もともと自由は「○○からの解放」という意味でリベラルと呼ばれていた。代表的なものが差別からの自由です。離婚にしても悲劇からの自由、人権という理念があります。すべての自由を価値とした権利は人権と連動しています。夫婦別姓とは何からの自由なのでしょうか?口座名義変更からの自由?どこに人権があるの?

これがわかっていない人が増えた結果いつのまにか自由は自由を絶対視するリバタリアンの価値観にすりかわってきた。

リベラルは対象を決めてそこからの自由を言っているのに別姓などの価値観を喧々諤々と主張する人間をリベラルとはそもそも呼びません。

リバタリアンは異常にふくれあがった自由という価値観により自説の正当性を補填しているにすぎない。打算的自由主義者の話は聞く価値がない。

どんな料理でもマヨネーズかければいいみたいな雑さが見える。マヨネーズの感想なんか聞いていないんだよ。味はどうか聞いてるのにマヨネーズうまいしか言わないのだよ。自由至上主義者は。

 

なんの話をしているかわからなくなってきたところで終わります。

まとめますとマヨネーズが嫌いな人間もいるし、唐揚げにレモンをかけるのが好きでも勝手にレモンをかける人間は嫌いな人もいるってことです。

自由とは別に生は原理的に課せられるものみたいな観点からも夫婦別姓には反論できそうだけど気が向いたら書いていきます。

 

みんなの唐揚げ

みんなの唐揚げ

 

 

 補足です。

plagmaticjam.hatenablog.com

 

シッキーとクラシックスとはてなブログと互助会とインターネット的大義の無価値さ

シッキー(id:skky17)さんのアドセンスコードが互助会ブログ「クラシックス」と同一だったとして増田界隈ですこし話題になってた。後日謝罪記事をあげるらしいのですが謝罪しなくてもいいんじゃないかと・・・

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20171108201122

個人的な意見に過ぎませんがはてな的礼儀は完全に無視したほうがいいと思っています。まとめサイト排除とか互助会批判とか嫌アフィリエイトとか嫌マイルドヤンキー文化とかはてな的TPOに埋没して個々の人生で得たパーソナリティが毀損し再設定されていくのは完璧な悲劇です。再設定されるのが悲劇なのではなく経験を伴っていない自己の再設定は偽的になるという意味で悲劇です。

 

「善意による偽化」のようなものがインターネットには存在すると思っていてネット的なリテラシーを完璧に体現しようとすると自己との不和が大小あれど必ず起きてくる。はてなだけではなく2ちゃん的冷笑だったりインスタ的キラキラ感も同じものを持っています。それらを見て楽しむぶんにはかまわないですがそこに過剰にコミットする(謝罪する必要性を感じる)と自己が偽「的」になって身体と連動した雰囲気などが壊れ自己は逆に退行していく。

そしてそれはそのコミュニティーが正しければ正しいほどその危険性が強い。

 

はてなは他のネットコミュニティーと比べても理知的な人が多く見受けられますし自分のような頓珍漢は劣等感すら感じることがあります。しかし高尚で非のうちどころのなく論理的に正しいコミュニティーほどその高尚さと比例して自己を侵食してくる可能性が高くなる。そこにコミットすることは一見正しいように思えるが経験と連動していないいかなる正しさも人間を人間にはしない、と断言できます。

 

ネットや世論に思想を同一化させるのはいかなるコミュニティーでいかなる方法をとろうがどうあれあまり良い結果にはならない。

仮に完璧に理知的にふるまうことができる人がネットにより出来上がったとしてもその人を誰も魅力的だとは思わないでしょう。

 

 

時に芸能人や政治家が世論に迎合的になることがあるが彼らはそれが現実的な生活と連動しているので世論迎合には明確なメリットがあります。それはヨッピーなどのウェブライターも同様ですが普通の一般ブログなどでそれをやろうとすると明らかにデメリットのほうが大きい。

すこし考えればわかるがはてなに迎合してはてな的価値観をはてな的ライティングで書いて読者数が500人増えたといってそれがなんの実態を持って自分の生活を支えてくれるというのでしょうか?これまでも無数に悲劇が語られた文章はインターネット上に投稿されてきましたがそれらはただ文学的に楽しんで読まれただけだったたではないか

 

リテラシーを守りはてなのTPOにそった(?)手斧合戦を繰り広げていたシッキーですが互助会ブログを運営し検索流入からくる読者にアドセンスを踏んでもらったほうがシッキーこと「本名○○○○」という現実の肉体を持った一個人にとって明らかに彼の現実を支えてくれます。そしてそれははてなで批判されることが多い互助会ブログ、アフィリエイトサイト、転売屋などにも言えることだと思います。

 

 

アフィリエイト批判も転売批判も正しい。なるほど。よくわかる。

しかしその論理的正しさは転売屋の生活をどれだけ救うのだろうか?哲学という地獄に落としいれて正しさを設定していく。そしてやってくる当事者の生活の困窮は誰が責任をとってくれるのだろうか。キャリアもない、知恵もない、甲斐性もない、コミュニケーション能力もない人間を現実的に救うのは最終的に金である。

 

互助会でも同様ではてなブックマーカーに批判されても彼らは互助会ブログ運営者の生活を救うことはないし仮にはてなブックマーカーに諭されて正しさを知ってもそれは自己の経験を伴っていないので偽的になるのでやめたほうがいい。

互助会が倫理的に正しいとは思っていないですがはてな的正しさも正しさを獲得する過程がすっとんでいるので正しくない。ならお金にはなる互助会アフィリエイトブログを運営するほうが生活を支えてくれるぶんましです。またはブログを書くことそのものに楽しさを見出すしかない。

 

 

と関連した話をこの際だからまとめて書いていきますと

 

はてなブログの奇妙さってよそよそしさだと思うのですよね。

こうしてはてなでブログを書いていて不思議だなと思うのがはてなブログには友達という概念がほとんどないように見えます。自分のような弱小ブログだけではなくけっこう広範なブログでそうです。アメブロとかライブドアなんかではともだちが書いているようなコメントが多々見受けられます。自分も以前、FC2でブログ書いていたのですが連日フランクにコメントしてくれる方が数名いました。ブログ内容とは全然関係ないような「最近彼女できました」みたいなことを書いてくれたりしました。僕はそいつに「死ね」と返答しました。そういうブログもはてなでは探せばあると思うのですがはてなでは基本的に関係そのものに興味がないというかそういう作法が欠落しているのだと思います。もちろんそれぞれの生活のなかでは適切にコミュニケーションをとっているのでしょうけどはてな内になるとUIの問題なのかわかりませんが友達を見つけることが難しい。

だから互助会のような関係性を継続するためだけの中身のないブックマークコメントが異質に見えるんだと思うのですよね。互助会も友達というよりか取引先のようなイメージがあるのでやはり友達ではない。

おそらくはてなでは関係性よりも何を書いているかが重視されているのでしょうけどそんなに何を書いているかって重要ですかね。

 

すこし前に「誰が言ったかより何を言ったか問題」が話題になりましたけど何を言ったかって・・・・・・・・・・・・・どうでもよくないですか?

たいへん語弊がある書き方かもしれませんが何を言ったかよりも誰が言ったかのほうがはるかに重要です。

政治家が失言などで言葉じりを切り取られて報道されたと弁明する時がありますが、インターネットで顕著になったのが文脈をすっ飛ばすことだと思うのですよね。何をいったかより誰がいったかより誰がどんな状況で何を言ったかが重要だと考えるべきです。

仕事でいやなことあって胸糞悪い時にクソミソな文章書いたとしてそれがいったい誰の何を定義するのかよくわからない。暴力の話に関しても暴力はダメと一言にいってもじゃあボクシングはダメなのか、子供をしかるのはダメなのかはすべて誰と誰が関係しあっているのかにその正しさは依存しているので「誰のない何」は無意味な議論です。

 

愛などについてもそうです。愛するとひとことにいってもストーカーのように愛する人もいればDVを愛だと思っている人もいます。アニメやドラマで表現され想像されるような「誰という主語のない愛」なんてものはありません。

すべてのことにしてもそうです。殺人でさえ文脈があれば正しさを包含します。

 

関係性こそが重要なはずなのに誰を無視し「何」を普遍的に結論づけるのはやめたほうがいいと思います。

そうして普遍化され刷り込まれた「大きな何か」は現実の複雑な関係性の中では容易に通用しなくなります。それが現実のなかで自己との不和を起こし偽となる。

 

その意味ではてなやヤフコメ、2ちゃん、ツイッター等々の巨大コミュニティーにおけるネット的正しさは無視したほうがいいと僕は思っています。

出会い系や趣味アプリなどで友達をつくり正しさを無視しアフィリエイトサイトで金をかきあつめるツールとしてネットを使用するほうがはるかにインターネットの使い方として「正しい」と言えます。

 

つまり長々と屁理屈を書いたすえに友達面をして最後に言いたいことは

シッキーよ、謝ったら負けだぞ。

いまの若者はくだらないと大人が言うのには文学的妥当性がある

若者はくだらないとか若者は~~~なんてことは時代ごとに繰り返されるものですね。この手の話は若者を軽視する老害の戯言にすぎないので論ずるに値しないと切り捨てるのが一般的な反応ですし軽い気持ちで書くとすぐ感情的な批判が飛んできやすいのでちゃんと議論されることがない。

しかしこの若者くだらない論にもいくつか理由が考えられるので書いていきます。

結論から言えば大人が若者を見た時にくだらないと判断するのには文学的な妥当性があるように思えるのです。

 

若者と総称するのは主語がでかすぎるので個人主義的な考えをとる傾向にある若者群のことをここでは便宜的に若者と呼びます。もちろんこの種類の若者像とまったく違う若い人がいることも承知しています。

 

 

いまの若者は外部との接触を断って自らが好む関係の中だけに埋没していく。そんな個人主義社会に生きる若者ですがなんでこんな変な思考が形成されたのかに純文学の衰退が関係しているのではと考えています。文学なんてエンタメであって社会関係に影響してくることなんてないんじゃないの?と考えそうですし自分もそう思っていました。しかし純文学のみならず文学や音楽には社会的な役割がありそれが機能していた時代が確かにあった。

純文学の社会的機能で言えば夢破れたある個人の人生に言葉でもって意味を与えることです。太宰治をはじめ坂口安吾三島由紀夫小林多喜二などが何を書いていたかといえば成功からも遠く夢やぶれたきもくて金のないおっさんの人生にこそ人生があるみたいなことを書いていた。僕の世代では文学はすでに流行っていなかったのですが音楽がそれを教えてくれました。ミスチルのくるみ、B'zのAlone、WANDSの世界が終わるまでは、hideのhurry go roundなど純文学的な音楽が流行っていました。いわゆる宇多田世代で失恋ソングばかり売れた時代ですね。

[MV] Mr. Children _ くるみ (Kurumi) from kia tigers on Vimeo.

 

 

だから純文学を読む人はおっさんの話こそ面白いのではないかという姿勢を持つことができた。その姿勢で現実でも目の前のおっさんの話を純文学的に楽しもうと思った。くるみのPVを見ておっさんの哀愁にこそ大切なものがあると暖かい視線を獲得することができた。タバコを吸っているような臭くて汚いおっさんの中にこそ人間を見ようとした。だからおっさんから若者へのハラスメントまがいなことがあってもこの人の歪みは人間的だななんて思ったしきもくて金のないおっさんがいてもなんの他意も抱かなかった。

ふるくは小説、そして音楽へと移行していったこの純文学的姿勢はすくなくとも10年ぐらい前まではまだ現実の社会のなかにも生きていたのでしょう。インターネット黎明期のテキストサイトなども純文学的なものがまだ確認できました。

たいして今の若者は飲み会に行っておっさんの話を聞くのは時間の無駄だと考える。いまの若者を見ているとおっさんが迷惑だとしか思っておらずその純文学的姿勢のなさを僕はけっこう本気でくだらないと思っていたりします。

僕自身もかろうじて若者と呼ばれることがある年齢なのですがここ10年ぐらいで若者の純文学的姿勢の消滅たるやすさまじいものがあるように感じます。

 

 

 

たいしてそれ以前にも若者はくだらないと言われていました。

いまの若者が純文学的な姿勢のなさから批判されるのとはまた別に政治的姿勢、規律の欠落から批判されていたのだと思い返せます。純文学は個人の人生に焦点をあてる文学です。それとは別の文学として政治的人間を描いた政治的文学が存在した。

政治的文学とは夏目漱石森鴎外などトップエリートによって書かれたような文学のことをここでは言っています。文句を言わず働き規律を守りつづけてなんの感慨もなく死んでしまうような官僚だったり企業人だったりに文学を見た時代があったのだと思います。

純文学は夢やぶれた人にたいする態度を獲得し、政治的文学は黙々と働き続ける強い大人にたいする敬意を学ぶ。

純文学だけですと被害者意識に支配されやすくなるし政治的文学だけだと傲慢になる危険性がある。だからミスチルを聞き坂口安吾を読んで泣いてわめいている思春期の僕に大人達はそうやって泣いてわめいているだけだと「声がでかいだけの弱者になるから甘えるな」と政治的文学の立場から言ってきたのでしょう。それは時に体罰という形で行われることがあったり一概に肯定できるものではけっしてないですが、声がでかい弱者になるだけだから甘えるなは大人になったいまだからこそわかるような気がします。

つまり高度経済成長時に純文学的に生きて破滅したフリーターや夢追い人の末路を当時の大人達は知っていたのでしょう。だから純文学的な態度だけでは現実においては必ず行き詰ってしまうから「甘えるな」といった強さを教育していたのだと思い返せます。もちろんその限りではないかもしれません。あくまで推測です。

蛇足ですがいま大衆が政治家へ持つ一方的な悪いイメージは政治的な文学のなさにこそあるのではと捉え返すことも可能です。

 

 

政治的文学と純文学の死

その2つの段階を経ていまの若者を見た時に遂に文学は完全な意味で「社会的に」死んだと言えるのだろうなあとなんか素朴に思いました。もちろんまだ出版され売れているのもありますし読んで面白いものがありますがもはや読んで面白いだけでしかないのですよね。

音楽も聞いて心地いいバンド(フレデリック、BABYMETAL、perfumeなど)がいますけど聞いて心地いいだけでしかないのですよね。

個人の創作活動のいかんに社会的なレベルで批判することは野暮すぎますが昔はだれか個人のつくったものが勝手に社会的な役割を帯びて生きかたの或る規範として教育的に機能していた時代があり、今はそれがないのでしょう。ないし必要とされてもいない。それがいいことなのか悪いことなのかわかりませんがとにもかくにもそういう時代だと結論づけるしかない。

みんな好きに生き好きな人間とだけ話して好きな仕事だけして好きな国に住み好きなアニメを見て好きな人間とだけセックスして好きな数だけ子供を産んですきやばし次郎に行って好きだけで死んでいく。好きになられない人間は救いがない世界。若い女性におっさんがパワハラする文言を逐一あげてボロクソに言っていた記事があったけど究極的に言えば何をしゃべくりまわそうがそもそもそのおっさんのことが嫌いなんだから何言ってるかなんて関係ないでしょ。好きじゃない人間は嫌い。話を聞くのも嫌。そんな世界をつくっても確実にみんな大多数はきもくて金のないおっさんおばさんになっていくのだよ。

おそらくは過去幾度の個人が経験したそれよりもはるかに長い寿命の中で、さ。

 

すきやばし次郎[ぽん酢]

すきやばし次郎[ぽん酢]