メロンダウト

メロンについて考えるよ

尊厳とスティグマと専業主婦とコインについて

家父長制がなぜ昭和であれだけ流行ったのかに関しては労働の崇高さと切っても切り離せないものがある。

専業主婦の社会的尊厳に関する記事を読んで思ったのは専業主婦が労働として認められていない、のではなく

労働の尊厳が専業主婦と比べて相対的に高すぎるので専業主婦の尊厳が低いと考えることができる。

 

結論から先に書いてしまえば労働の尊厳を下げろということになる。

尊厳の低下というとあまり良い響きがないかもしれないが尊厳は必ず同量か相応量のスティグマをもって支えられる構造がある。今回の例で言えば男性が労働することによって得る尊厳は専業主婦やニート、あるいは非正規が抱えるスティグマによって支えられる。

社会的価値は常に相対的に評価される運命にある。原理的に。いっぽうを高く、いっぽうもまた高くといった理想はあまり現実的ではない。個人の中でどちらも評価するということはできるが世論という意見が振れる段階までいくと社会的評価はどうしても生まれてしまう。

 

個人の誇りや人生の目的のように自己完結できる誇りなら絶対化できる。しかし社会的評価は社会的であるがゆえに相対的なので絶対化できない。

 

 

だから労働の尊厳を低くする、というか労働していることを評価することそのものをやめてしまったほうがいい。専業主婦の尊厳の低さは高度経済成長時の猛烈サラリーマンが築き上げた家父長制という呪いをそのままひきずっていると言うことができる。

 

実現可能性を無視して言えばすべての相対化をやめ評価を無に返せばおそらくこの問題は解決する。完全な個人主義になれば相手の仕事や既婚かどうかなどを評価することもなくなる。ゆえに専業主婦や未婚、ニートなどのスティグマも消滅する。

 

しかしそうなったら人を社会と接続する回路自体が消滅しかねないので別の問題が出てくるように思える。から個人的には反対だ。

 

社会からの評価がどういったものであれ人間が社会の中で生きているかぎり、どこに尊厳が与えられているかにかぎらずその承認に向かって邁進していくしかないのだろうと思う。たとえば金とか、たとえば愛とか、たとえば出世とか、たとえば金メダルとか。

 

そういった名誉や尊厳が他方でスティグマを生むのは表裏一体でそのコイン自体を捨ててしまえば解決するが、表が出るにせよ裏が出るにせよコインを渡されたら振るしかないんですよね。

 

裏が出てしまった人はたまたま裏が表じゃなかったってだけと考えるのがいくらかの慰めになるように思う。世界はこうだが自分はこうだ、と。

絶対にやってはいけないのはコイン自体を捨ててしまったり(社会から隔絶して生きたり、ニヒリズムに取り込まれたり)裏を出した人間を馬鹿にすること。

 

言葉遊びのような記事になってしまったが最後に思い付いたのでこれだけ言わせてください

 

人のコインをチェックするな!!!

coincheck.com

 

人のセックスを笑うな [DVD]

人のセックスを笑うな [DVD]

 

 はい、以上です、ごめんなさい。

中国人の指摘がまさにといった感じなので抽象化して説明してみたい

中国人による日本論がまさにといった感じだった

gendai.ismedia.jp

 

全面的に同意するのだがもうすこし噛み砕いて説明してみたい。

 

 

大前提としてあるのは宗教的背景のなさゆえの価値相対化のなさにあると考えられる。

日本人に最もなじみが深い仏教にしても無信仰、解脱、中道など価値をあえて決めないことを価値とするような概念が存在する。

これら自体を否定するわけではないがこれらの概念は生活レベルにおいては「無謬性」にすりかえられて使用される。

無謬とは価値を決めない、立場を決定しないことで相対化から逃れる立場のことであるがこれが変な意味で処世術として流行しているのが日本の議論の根幹を成しているといっても言いすぎではない。2ちゃんねるはてブなどまさに無謬の巣窟である。

インターネットでもなんでもそうだが価値を決定して立場を決めてその立場から発言することを無謬性によってぶった切るのは現実にもネットにもありとあらゆるところであふれかえっている。

政治においても一般的には保守対リベラルという構造があるように「映る」が実際にはその多くは保守対無謬とリベラル対無謬と捉えたほうが実際の構図としてはより正確だろう。

保守を否定する時に無謬家はリベラルの論理をひいて批判しリベラルを批判する時も保守の論理をといった具合だ。

 

これは仏教においては中道と呼ばれ重宝される概念でもあるが無謬や中道をコミュニケーションの現場において権威的に使用しはじめた場合これほどの暴力はない。

日本人のこの無謬依存とでも呼ぶべき性質。これが正義のなさ、議論の下手さ、またさらに明言のなさということに接続する。ゆえに下記文章にはうなづくしかなかった。

私は日本人が悪であると言いたいわけではない。彼らは極めて誠実で善良だ。ただ、彼らの骨身になんら明確な正義の概念がないだけである。彼らはなにが正しくてなにが間違っているといったことを明言することができないのだ(以下略)。

 

 

さらに記事内で気になったのが”深刻な怯懦”という言葉だ。

怯えや勇気のなさという意味であろうがこれも上述した無謬感ゆえの擬似全能感が原因のひとつであると考えられる。

 

しかしもうひとつ原因として考えられるのが自虐史観戦後レジームなど歴史的に醸成されてしまった敗北主義的思考法やアメリカ追従路線で政を行ってきた従米依存とでもいうべき歴史が背景にある。

日本は政治的には戦後ずっとアメリカに追従して大国の庇護の元に安全保障を行ってきた。これは市民の考えにも浸透していてアメリカといえばアメリカンドリームや世界1の大国だといったある種の妄想が個人の思考回路にまでメディアを通じて浸透してしまった。

海外からの目を異常に気にするのは敗戦国でアメリカ追従という歴史的背景を無視して考えることはできないだろう。だからというわけではないが敗戦後、グローバルで対等な関係になり市民の劣等感をぬぐうのはいまだに過渡期だと言える。

核爆弾で焼けたのは広島や長崎だけではなく思想までもなのかもしれない。

4.なのに日本人は非常に他国からの目を気にする。「外国人が大好きな日本の○○」といった話が非常に流行っていて、取るに足らないくだらないものごとを見つけて「世界で日本が大人気」といった曲解をおこないたがる。

 

世間からの目、外国からの目、宗教観のなさ、そして無謬性。

これら主体性のない価値観とも呼べない価値観が集まっているのが日本の大衆思想ということができる。これらの価値を一定の基準で相対化して価値を「計る」のが宗教のひとつ社会的な役割とも言えるのだが価値基準となる宗教は日本にはない。

これらの目や批判をやりすごすために用いられるものにまた無謬をひいて価値を無意味化し結論として多様性を用いる。日本では無謬性のためにアメリカの多様性を輸入していると言える。相対化なしの多様性が無謬性だ。これが日本の議論における最大の癌だといっていい。

無謬性を補填するために多様性を援用しているのが日本のそれなのだろう。

つまり日本で一般的に言われる多様性という言葉ですべてを宙ぶらりんのまま決着させる価値観=無謬性が根本的な問題だと言える。かなり抽象的ではあるが。

 

そうしてすべての価値は比較することすらされず、ゆえにそこには相対もない。ゆえに相対化の対象を見つける冒険心が生まれようもない。そして相対化なしに正義は生まれない。

日本人はこうした純粋さや勇敢さや「ものごとをもっと知りたい」という冒険心をまったく失っていて、自分たちの世界の狭さを感じるときがあっても「まあ仕方ないや」と自分を慰めるだけで終わる。

 

 

今年一番うなづいた記事だった。

最後にオルテガの言葉をひいて終わりたいと思う。現代日本の無謬性のことを予言しているようでならない。

 

世間とは意見を持とうと努力しないものたちの意見の集まりである

西部邁先生が死んでしまった・・・・・

最初に西部さんをまともに知ったのはいつだったかもう覚えていない。宮台真司さんからだったかな。議論の途中で退席した動画を見て感心を持ったのが最初だったような気がする。

www.youtube.com

 

 

それからあまり積極的には追っていなかったんだけど先崎あきなかさんを検索して出てきた西部ゼミナール

そこでされていた話が面白かったのでそれから本格的に番組を時間がある時に見たり本をいくつか買ってみたりした。「表現者」も一冊だけ家にあったりする。本は積み本になっていて読めていないものもあるけど・・・

 

www.youtube.com

 

 

西部さんの莫大な数の著作や発言からすれば自分が知っていることなどほとんどないようなものだけれど、浅学を承知して西部さんが言いたかったことを考えると

西部さんは一貫して保守というか人間的リアリズムを書き説いていたのだと思う。

 

核武装論にしても自殺にしても反電力にしても人間そのものからけっして目を切らないで事物を語るその晴眼にはうなずくところが多かった。

人物的なことに関しては何よりも78歳になっても色あせないあの目の輝きがとても印象的な人だった。ともすれば言っていることは誰よりも絶望的なのに少年のように語る人。それが西部さんに抱く僕の最初から最後まで一貫したイメージである。

 

本当に残念でならないが

西部さんが残した著書や番組の過去動画などでまた見聞きすることができるのかと思うと西部さんが一貫して嫌っていたインターネットやスマホにもひとつ価値が出てくるのかなと思う。

心より、ご冥福をお祈りいたします。

 

蛇足ですが

保守を無変革で安定した生活を営むことを好む人たちと定義するならば老いさらばえる人間の生がある限り

きっと人間は不可避に不可分に、運命的に保守を考えざるを得ないものなのだろう。それが保守主義なのかもしれない。

 

さればこそもういくばくか歳をとり、変容に耐えられなくなったそのときにまた西部さんの本を手に取る。きっとその日が来る。そのときに本当の意味でもう一度西部さんに会えるような、そんな気がしています。