メロンダウト

メロンについて考えるよ

ティリオン・ラニスターと差別感情

ゲーム・オブ・スローンズにティリオン・ラニスターというキャラクターがいる。

 

先天的な疾患で身長が伸びない男性。ドラマの中では小鬼、インプ、ドワーフなどと呼ばれることがある。

王妃の弟でワインと娼婦が好き。弁舌家。

 

ゲームオブスローンズはいま全世界で最も見られているドラマです。

たぶんこれ以上面白いドラマは僕が生きている間には出てこないんじゃないかというほどのクオリティで最高なのだが、なんでこれほどまでに面白いのか。人々を惹きこむのかちょっと考えてみたいと思った。

 

 

見ていて思ったのはポリコレや人工的な正義で善が脚色されることがないこと。

このドラマの善と悪の構造は完全にヒューマニズムを元に描かれていてそれ以外の構造、

例えば権力者対貧者、女性と男性、敵と味方のようなおざなりな対立構造はパワーゲームとしてあるだけに留められている。善か悪かといった描写まではあえて表現していないように見える。むしろ客観的に見れば悪ばかりだがそれも過去の文脈が用意されていて単純に切り取ることができない。この長い文脈づくりはドラマならではといった感じだ。映画にはないドラマにしかできないものだ。

裏切り、殺意、怒り、戦争、謀略。これらがドラマの中でメインに起こっていることだが戦争や裏切りにも善か悪かといった判断材料は提示しないでただただ文脈だけが存在している。誰の物語に共感するのか、あるいは憤るのか、もしくはすべてに共感し葛藤するのかは視聴者に委ねられている。

 

ポリコレやリベラルで形式化されたような人間はどこにも出てこなく欲望、渇望、復讐などで構成される自然的人間をそのままストレートに表現しているからどのキャラクターに共感するにしても、とても深くストーリーに共感することができる。

 

と、ゲームオブスローンズがなぜ面白いのかという話をしだすとたぶんにネタバレせざるをえないのでちょっと置いておいて

その中でも自分が最も好きなティリオン・ラニスターについて

 

上述した通りティリオンは身長が生まれつき小さくマイノリティーで差別の対象になる容姿をしている。

 

そしてゲームオブスローンズはアメリカで製作されている。現在、ポリコレや差別撲滅が盛んなアメリカで生まれたドラマであるにも関わらずティリオンは差別される対象として描かれている。

 

ドワーフ、小鬼などと呼ばれ父親からは蔑まれ民衆からは笑いものにされ時に軽んじられる。

しかし彼はそんな差別をうけているなか、弁舌だけで戦っていく。弁舌で人を動かす時もあれば人を篭絡させる時もある。

 

 

このドラマでティリオンがものすごく魅力的に見えるのは差別を受けていることにたいしてその弱者性、マイノリティーの論理、正しさをもって反論するのではないところにある。自分が覚えているかぎりティリオンは自分の身体のハンディに関してジョークとして使うことはあるがその弱者性を持ち出して相手を同情させようとしたことは一度もない。

 

差別を受ける世界でその差別に抗するのではなくハンデを抱えたまま対等に、徹底的に戦っていく。

 

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ここになにか差別感情をうける側が持つべき心性。そのヒントがあるように思えてくる。

マイノリティー差別とは常に弱者保護論で語られることが多いがその多くは加害者側、マジョリティーの論理で語られる。

一見すると優しさともとれるその見方はあくまでも加害者側の善意であって被害者の「現実的」論理、ではないのではないかと。

 

差別をするのはいけないこと。もはや自明すぎることだが被害者の側がこの保護論に寄っていくと弱者の傲慢さに落ちていくような気がする。

ティリオンのような目に見てわかるようなマイノリティではなくとも人間誰しもがどこかマイノリティーなもの、感情だったり、嗜癖だったり、ジェンダーだったり、精神的なアブノーマルだったりを抱えている。

だからティリオンから学ぶべきことは僕達にとっても多分にある。

 

それぞれのマイノリティーをそれぞれに保護しろ、認めろと言うのは簡単だが差別と抗するのは差別主義対非差別主義ではなく

 

むしろもっとミクロでそれぞれの個人がそれぞれにその場で行うべきようなリアリズム対差別主義ではなかろうかと思えてくる。語るべきは非差別主義だが「学ぶべき」はリアリズムのほうではないのかと。

 

 

ゲームオブスローンを語る時にドラマの面白さはリアリズムにあるというのはもはや手垢のついた批評ではあるが

それでもあえて書くとゲームオブスローンズは面白い。それはリアリズムとヒューマニズムが混在する世界で生きる人間の葛藤がすごくよく描かれているからだ。

 

長いけど見てない人はとにかく見てみたほうがいい。そんな難しいこと考えなくても竜が出てきたりアクションシーンもある。

単純にコンテンツとしてここまでクオリティが高い作品ははじめてかもしれない。

けっきょく悪いのはツイッターじゃないのか感

男性はフェミニストになろうといった漫画が炎上しているのを遠巻きに見ていました。個別論点として漫画が啓蒙主義だといった批判をしたりはできるけどそれはちょっと横に置いておいて

 

メタな視点から見ればツイッターというメディアの特性が、ある種短絡的といえる正しさを拡散させているように見える。

フェミニズムだけではなくてネトウヨ文化左翼もそうだが一見して理解できる正しさが短文メディアでは「バズ」りやすい。

 

 

マルクスさんの主張「男性はフェミニストになろう」もそれ自体が間違っているわけではないけれどマルクスさんの漫画がなにか奇妙に見えるのはその主張がまるで批判不可能な絶対善のように書かれているからなのですよね。

 

ツイッターではそういったわかりやすい善が視認性が高く拡散されやすいけれど例えばこれをブログや書籍で文章にしようとするとフレーズではなく文章として書かなければいけなくなる。その文章化の過程の中で価値観に客観性が与えられる。

 

文章にしようとすると思考の外堀を構築して、いちおうの論理を組み立ててその価値観を補填して説得力を持たせることが必要になる。説得力を持たせようと考えれば自然と客観性が求められる。

また、外堀を埋めて書いていくとその価値観に関して自分で批判可能なポイントを見つけるようになる。そこでその価値観の粗を削る。

予想される批判にたいする回答を用意してといった作業を繰り返すことで思考が洗練されていく。思考とか価値観の良しあしってだいたいはこの過程の中でしか生まれない。思いつきで書くのもいいけれど思いついた価値観に脚色を与えるのもやっぱり文章化という過程であって突発的におもいついた価値観だけを投稿すると炎上したりする。とまあこれは自分のブログへのブーメランでもあるのだけど。。。

 

この過程は大学の小論文でも似たようなことを要求されますね。

 

ツイッターなどでゆえんバズっているフェミニズムネトウヨの価値観はこの文章化、思考化の過程がすっとんでいるのですよね。ツイッターはそのメディアの特性上、過程をすっとばして自分の主張を書くことができるし時間をかけないで単に見てわかるものが拡散されやすい。マルクスさんの漫画がバズったのも炎上というよりもたんにツイッターが持つメディア特性による現象なんじゃないかと思える。

たぶんもっと変なことを書いている人はいる。 

 

考えれば男性はフェミニストになろうといった価値観に普遍性はないとすぐにわかる。

 

具体的に言えば

男性の性欲の問題はもちろん、男性が現実社会で能動的にならなければいけない男女関係、個人主義を推進しかねないといった弊害。これらを頭の片隅に入れて考えれば男性を一方的に批判するようなラディフェミにはならないと思う。

 

 そんなことより、桜がとっても綺麗ですよ。

女性の受動性も「おそらく」問題だろう

ひさしぶりです。ゲームオブスローンズにはまってブログ更新してなかったらスパムコメントがくるようになったので更新しますよ。

 

彼氏が風俗に行ったって話と処女厨の増田が最近話題になってたのでそのことについてでも

 

男性が風俗に行く理由のひとつに処女信仰があると思うんですよね。

普通の女性はセックスする時に処女的に振舞うし男性もある種それを望んでいることが日本では多い。

処女厨の増田がたたかれてたけれどセックスする時に女性が積極的にテクニックを駆使してやることは多くの男性が望んでいないと思われているし、実際に男性も処女的に振舞うことを女性にたいして要求しているように見える。

男性が主体的にリードして女性は受動的にと。一般化して語っているわけではないしこの限りではないけれど概して考えるに実際に処女であるかどうかは別にして処女的な女性を多くの男性は求め女性もそうあろうとする。

その欲望を素直に吐露した増田は叩かれていたけれど日本における処女信仰「的」なセックス観は男性のみならず女性にとってもかなり普遍的な価値観と言える。

 

このある種一方的で歪んだ関係が男性を風俗に行かせる理由のひとつになる。

普通に出会い普通に付き合い普通にセックスしようとすると女性は処女的に行為をしようとするのでえてして言えばつまらない。処女信仰を持たない男性からすれば風俗に行って風俗嬢とセックスしたほうが「私は無垢で純粋なんです」とかまととぶってプリテンドしかしない彼女とのセックスよりも性的な満足感としては高いものとなるだろう。

ここに愛情などが絡んでくると十把一絡げにはならないのだが性欲に限定して言えばそう考えることができる。

 

男性が風俗に行くのには導線がある。そしてそれは時に女性の相手にまかせきったセックス観にも遠因がある。

 

 男性がAV的にセックスしようとするのは間違っていると女性が言うように女性が処女的にセックスしようとするのも僕から見れば間違っている。対話において弱者の弱者ゆえの神経質さが善とは必ずしもならない。

 

 

女性の受動性で思い出したのがドヌーブがmetooを批判して話題になっていたことだがフェミニズムによって男性の能動性をなくそうというのであれば女性の受動性、処女的な振る舞いが良いことという妄想もなくすべきである。

受動的で被支配的な弱者が悪ではないとしても男性がそこまで能動的にならなければいけない遠因としての女性の能動性のなさ、処女的な振る舞いもフェミニズムは問題とするべきであろう。愛するつもりがないなら愛されることを求めるなとも言える。

弱者を問題化するというのはポリコレ的にアウトなことではあるけれどもどこに原因があるのかと考えた時に弱者の弱者ゆえの傲慢さが問題とされるべき問題もある。

 

 

日本の処女信仰や風俗に行く男性などにもその構造はあるように思える。強者ばかりが問題とされるが強者として振舞うことを要求する弱者もまた問題だという話です。

おそらく説明不足ですが、以上です。

 

またね。