メロンダウト

メロンについて考えるよ

セカンドレイプとかわんごとインターネット

性犯罪被害者へのセカンドレイプ問題とインターネットについて

 

ツイッターの醜悪な発言を引用しながらセカンドレイプの現状について書かれた記事を読んだのだけどインターネットというか世論を重く見過ぎだと感じる。

 

性犯罪の被害にあった人にたいして防衛すべき云々と書かれているのをたしかにたまに見るのだがそのネット上の発言には実存がない。実存というのはたとえばネット上でセカンドレイプ的な発言をする人でも目の前で性犯罪の被害を語る女性の前では同じことを言わないだろうといったことである。他者を介在することによる緊張のことを実存(とここでは言っている)。

 

ネット上の発言と現実で対面しての発言とどちらが本音かというのは意味のない議論であって人は他者を介在してしか優しさを発揮できないので他者がいないネット上の発言は構造的に自己「責任」「満足」「正義」になりやすい。場面の違いでしかない。

大事なのは現実のほうであって単なるデータの羅列であるインターネットではない。

 

インターネット上の発言はその人間がどういう人間かを「全面的に」定義するものではないし、またこれらを抽出して世界がどうなっているのかを定義するべきものでもない。

 

ネット上の意見を集めてこれだけ世界は悲劇的だというのは根本の認識から間違っている。インターネットなんてしょせんインターネットである。

 

セカンドレイプにたいする認識でも同じだ。言及記事内で「私も娘がいるけど、もしこれが自分の娘だったらぶん殴る。被害届なんて出さない」といった発言を引用して批判していたがこの人も自分の娘がいざ性犯罪の被害にあったらその戦慄と怒りでこの発言どうりのことはまずもってしないだろう。

 

ネットと現実における発言の差異はセカンドレイプでは特に顕著だと思う。対面して性犯罪にあったのはあなたにも非があるなどほとんど聞いたことがない。

 

また、セカンドレイプの問題で取りざたされるのが不特定多数の中のある個人や集団から心無い言葉を浴びせられるのが嫌だってことだがそれは性犯罪被害にあった人だけではなくてありとあらゆるレベルで全員が同じ境遇にある。

左翼を批判する無謬家、冷笑主義者。オタク差別。LGBT差別。嫌煙。女性蔑視。男性蔑視。

 

ありとあらゆる問題で心無い発言をする人達は一定数いる。

これらがネット上の発言なので問題はないと言いたいわけではない。程度の問題である。セカンドレイプだけではなくすべての物事に関してだが大事なのは実存と現実のほうであってインターネットの程度を重く見過ぎることは現実との差異が生まれペシミスティックになりやすい。世界はそんなに残酷じゃない。

 

 

関連してかわんごさん(id:kawango)がインターネットの匿名での発言にこだわっていると主張している記事があったけど僕がかわんごに賛同するのも同じ説明ができる。

インターネットが普及して現実と近づいてきたと言われるけど僕はインターネットはどうでもいいと「認識すべき場所」だからインターネットが現実と同期するのには反対する。理由は上述した通りネットは構造的に他者が介在しにくいのでネットだけを見ていると認識として絶望的な場所として認識しやすい、からインターネットは匿名でどうでもいい場所として放置すべきだというのが僕のプラグマティズム実存主義)としての意見。

 

 

セカンドレイプはその発言を見ればたしかに問題である。しかしその発言をしてしまうインターネットの構造的な問題と、他者が介在しない発言を重く受け止めてしまう受けて側もまた認識を改める必要がある。

この文章もまたセカンドレイプなどと言われるかもしれないが全般的なリテラシーとして必要なことなのは間違いないと思います。

 

性犯罪加害者は勝ち続けてきた|Tamaka Ogawa|note

いや、酒も悪いだろ

TOKIOのメンバーが強制わいせつを起こした。思い入れのようなものはないのだが意外とショックだった。子供のころからふとテレビをつけたらなんとなしに映っているのを見ていた。TOKIOのあの外連味のなさに僕は好感を持っていたのだと思う。

えてして行為自体を批判することは簡単だ。簡単というよりも強制わいせつは当然、許されない。それで終わるし終わっていいと思う。

しかし人間には許されない行為をするまでの文脈が必ずある。

 

パンを盗む人間は金がないから盗む。金がないのは仕事がないから盗む。仕事がないのは景気が悪いから盗む。景気が悪いのは政治の問題だ。と考えるのは極端に見えるかもしれないしパンを盗んだ人が言い逃れとして政治が悪いと言えばあまりにも空虚に響くが遠因としては間違っていない。

ひとつの事件にたいしてその個人の責任とするのは「治安上妥当」である。盗みがすべて政府の責任となれば治安が崩壊しかねない。個人は個人の責任において個人の行為を監督する義務が社会上ある。

しかしその責任と原因を探ることはまったく別の側面で考えるべき案件もある。

 

 

山口氏の起こした件と付随して酒は悪くないという意見がちらほらと聞こえてくるがまったくの誤りだろう。酒は明らかに人の人格を瞬間的に歪める。泣き上戸、笑い上戸など気分がよくなることは問題とされないがいっぽうで暴力をふるうようになったり攻撃的な言動をする人、幼稚な発言を繰り返す人がいる。それはアルコール依存症の方に限ったものではない。僕の知人でもカラオケしていたら突然モニターに飛び蹴りして破壊した人もいるし二軒目に行こうかと歩いていたら突然コンビニにはいってエロ本を盗んできた人もいる。もちろん共に警察に連れていかれた。彼らは共にアルコール依存症でもなく普段は至って良心的な人物である。

 

酒は時として人格を歪め人間を奇行に走らせるなどそんなことはみんな知っているはずだ。山口氏の件でも酩酊状態にあり記憶がないと言っていたがそうなれば原因としてあるのはお酒だろう。

上述した通り、行為の原因が仮に酒だとしても行為としての責任が免れるわけではないし罪が軽くなったりするわけでもない。しかし責任と原因は別である。TOKIOのメンバーとして連帯責任をとるというちょっとよくわからないことよりも酒に因果関係を認めるほうがはるかに妥当である。

 

 

ニュースなどで原因として甘さ、弱さなどがたびたび言われている。もちろんそれもあるのかもしれない。

甘さ、弱さ、良い大人なのにとあちらこちらで聞くのだが甘さだったり弱さだったりは便利な言葉でそういえば行為の責任として償い、悔い、改める姿勢として響く。しかし甘さや弱さは時として簡単に吹き飛ぶものだ。

問題の本質的な原因は山口市が酒により動物に帰り欲望をふりまいたことである。酒を痛飲したことが甘さというならそうだろうがしかしそれは

闊達で規律を持ったTOKIOのメンバーとしての山口氏が偽ということにはならないだろう。お酒によりその規律が吹き飛んだのだとすれば酒にもその原因の一端を認めるべきなのは明らかである。

 

 

盗みをする人の原因は政治だ。盗んだ人も被害者だといえば非常識な発言に響くが責任と原因を同一視するあまりに原因の本質的な部分を見落としていることが多いのではないか。それは今回の山口氏の件でもそうだし他のことにもつながる話のように考えられる。

 

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唐突だが女子高生と猥褻なことをしたいという欲求それ自体は特別なものではない。中国の後宮などにも10代の女性がたくさんいたというしデジタル空間で性的に消費されているアニメやエロ漫画などもそれを証明している。現実的に実際の女子高生としたいかと言われればコミュニケーションの齟齬があったり、社会通念上や法的に大人は子供を保護する義務があるのですることはないし総合的に考えてしたくはない。あくまで個人的にであるが。

 

しかしその理性や社会通念をすべて吹き飛ばした状態になったとしたら女子高生にそういう欲望を抱くことはそれほど特別ではない。根源的欲求として男性のなんか奥の奥のいるのはわかるような気がする、

 

 

そして理性的で大人な人格者を動物に立ち返らせ根源的に欲望に走らせたとしたらその原因の一端として酒があるのは自明、である。

 

もちろん、だからといって行為としての責任が酌量されるわけではないしされるべきでもない。というけっこう無駄なことを考えました。

個人的な感想としてはTOKIOの曲がもう出ないのが残念です。

 

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なんでそこまで本音が大事だと思うのだろう

LGBT差別を告白?した記事とその記事への言及記事を読んでだけど

 

ちょっと前に読んだ「悪の知性」という本に僕たちの生きる現実はインテグラル(統合化)になっていると書かれていた。

概念の推移として神という概念が消滅して現実と対面することになりその現実は情報化によって客観性を帯びインテグラルなものになっていっている。つまり総じて意味や論理が求められるようになっている。客観的現実性としてコピーされ主観にペーストされていく。

そしてさらに次の段階として今度はその客観的現実も消滅して仮想現実(この投稿の中ではインターネット)に人々の考えは設定されていくようなことが書いてあった。当人の身体性や実地的な現実はもはや必要とされない。情報がすべてである。その個人を定義するのは情報だけである。

2008年初版の本だがこの本の中で仮想現実と書かれている問題はここ数年で出てきたポリティカルコレクトネスのことを見事に言い当てたといっていいと思う。

 

 

客観的現実性と実存的現実性には違いがある。

LGBT差別を告白した人の本音は思考の上では差別だが当人がそれを差別だと認識している限りにおいてその差別は現実には立ち現れてこない。つまりいくら本人が差別感情を持っていようとも同量の躊躇があればそれは実存的には差別ではない。

一昔前は本音で書けるところがインターネットのいいところと言われていたが最近はあまり聞かなくなった。人の本音がだいたいにしてろくでもないことが知られるようになったかもかもしれない。

 

しかし人の本音を見つけそれをもって人に絶望するのは違うと思う。インターネットにおける身体と離れた本音はそちらのほうがむしろ仮想である。それが直列的にその個人の現実と=になるかはまったく違う。

 

現実は本音に建前や躊躇や緊張で脚色される。ネットでLGBT差別を本音で告白した人も当人を目の前にしたらその差別をもって相対しはしないだろう。本音をネットに書いて炎上していたがその本音という「情報」は必ずしもその個人の実存的現実を定義はしない。

場を設けられたから本音を言っただけであり本音の内容、つまり極端なことをいうとLGBT差別は情報という形式をとっている限りにおいては問題がない。

問題なのは情報の神格化のように見える。その個人を判断する時に情報を客観的に判断して評価することが現実の消滅ということだろう。情報だけが評価軸でありその情報を発した当人の態度や躊躇はまるで考慮されえない。

 

その情報、客観性によって人を判断する世界はカットケーキのように簡単に、まさに差別することができるがしかし現実はそんな客観的で画一的で一面的な考え方で生きている人は多くない。

ポリコレによって客観的で理想的な人間像がインターネットの世界ではインテグラル化され定義されていくが、差別という本音を「現実に、実存的に」解消するのは至極簡単だ。

 

人に言わなければいい。それだけだと思う。

 

https://withnews.jp/article/f0180406003qq000000000000000W03j10101qq000017134A

 

pokonan.hatenablog.com