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純粋生産性批判~LGBTと杉田水脈~

ちょっとしたメモです。

杉田水脈氏によるLGBT批判はカントの純粋理性批判で説明できると思うので書いていきます。多様性の原理を理解するのにも重要だと思います。

 

カントは人間の認識を感性・悟性・理性の3段階に分けて説明しています。

時間的、空間的制約のなか目の前の事象を認識する感性。

感性でとらえたものを統合しカテゴライズして概念として認識する悟性。

そして感性では認識不可能だが普遍的で完全な理念(全体のもの)をとらえようとする能力を理性と呼びました。

 

今回、杉田水脈氏がLGBTを下記のように批判しました。

LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供をつくらない。つまり生産性がないのです。

 

LGBTを認識しようとする時に生産性の点から批判しているけれどカントの理論に沿って言えばこの批判は理念にたいして概念で批判しているという形式がある。

LGBTを統合してカテゴライズして概念として認識し、そこに生産性(杉田氏の文脈で言えば繁殖力)というフィルターを通して考えればなるほど、LGBTに生産性がないというのも「感性において」考えられないわけではない。精子バンクや代理母などを利用しなければ子供を持つことはない。

 

しかし近代国家では人権のほうが上位にくる。人権は概念ではなく理念である。理念に背く概念は唾棄すべき概念である。「生産性」という概念を至上のものととらえれば奴隷制度と直結することがわかるがそれは理念によって唾棄されるべきものである。

 

LGBTの議論で注意しなければいけないのはLGBTは感性で認識するべき話、ではないということである。

感性で認識し悟性に落とし込むと感性には個人差があるので当然差別が生まれる。僕達異性愛者がLGBTを認識する時には理性によって不完全なまま「置く」ことが必要になる。LGBT異性愛者を認識する時も同様である。

 

LGBTの話でいう理念とは多様性のことである。多様性は理念レベルでのテーゼであり多様性を批判する時には杉田氏のように概念的な話では批判にはならない。理念にたいしては理念だけが有効な反論となる。

生産性というのは概念の話であり多様性という理念にたいする批判としてはそもそも機能しない。多様性を批判するのであれば他の普遍的な理念でもって反論するしかない。

しかしもちろん多様性をもとにした移民政策などでアメリカやヨーロッパでは現実的な問題も出てきているがそれは理念を捨てるべきという結論にはならない。むしろ理念は現実の諸問題と対峙するためのビジョンとして「道徳的に」機能しうる。殺人などを考えればわかりやすい。感性で考えた場合、人は人をあまりにも簡単に殺しうることは全世界の歴史が証明している。そして刑務所の維持費などを考えれば悪人は全員死刑にするべきという論理が成り立ちうる。しかし道徳的な理念によってそのような世界はつくられていない。刑務所の維持費などの現実的な問題は抱えたまま理念も保持する。それが理念と現実のバランスとしては適当なものだ。

超えてはいけない一線を規定する材料としてあらゆる理念は保持すべきだと言える。

LGBTに生産性(繁殖力)がないというのは感性としてとらえた場合には考えることができるが僕達は多様性という理念がある社会に生きていることを忘れてはならない。

 

永遠平和のために (岩波文庫)

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はてなブックマークは廃止するのではなく意識的化するべき

はてなブックマークの是非について廃止論を唱えたfujiponさんが炎上しているみたい。

 

fujipon.hatenablog.com

功利主義の話なのかな

功利主義は行為や制度(今回の場合ははてなブックマークというサービス)の社会的な望ましさは結果として生じる効用によって決定するべきという倫理学における考え方のひとつ。

 

はてなブックマークのメリットとデメリットを鑑みて語る時にどちらのほうが趨勢として強いか判断しましょうって話をブクマカもfujiponさんもしてるみたい。デメリットのほうが強いよねって言ってるのがfujiponさんの主張でそれに反対してるのがブクマカの皆さんだけど、

この手の功利主義の議論はたぶんに主観的な観測範囲によって印象づけられるものなので一概に定量化できるものでもない。特に快不快の総量は数値化できないので平行線だと思う。

 

fujiponさんのブログは昔からちょくちょく読んでるけど基本的には穏やかな人といった印象が強い。そのfujiponさんが極論ともいえるブックマーク廃止論を言っていること自体にすこし違和感があるがそれほどまでにブログ側とブクマ側での「はてなブックマーク」は違ったものに見えているということなのだろう。

 

 

この手の議論で一番問題なのは不快だと感じる人が出ていけばいいだろというコメントをする人だと思う。

はてなブックマークが議論をするためのプラットフォームとして生き残りたいのであれば思想が違う人を排除していくのは完璧に間違ってる。排除していくと先鋭化してはてなブックマークのメディアとしての価値自体がなくなる。マスメディアとネットメディアの最大の違いが相対化であってそこがなくなっていくとシロクマさんが書いていたインターネットのメリット(クソをクソと言える環境は尊い)そのものを手放すことになる。

p-shirokuma.hatenadiary.com

はてなブックマークはクソだと書く人が逆説的にはてなブックマークの価値を支えていることを認識するべき。

功利的な快不快の話はたしかにある。それは平行線かもしれない。しかし不快だから出ていけという言葉ははてなブックマークの存在意義そのものをひっくり返すことになる。

 

 

対立とか炎上とか不快とかのネットでのやりとりを見ていると基本的になにか作法の問題なのではないかと最近は思えてくる。批判それ自体が不快なことと認識されやすいけれど99%の批判は非不快化できる。

敬語を使うでもいいし単純に「ブログ主の主張は理解できますけど」のように接頭文に丁寧な文句を入れるだけでも全然違う。心無いブクマカのやってることを具体的に言うならケーキをカッターナイフで切り出すようなものだ。何で切っても(何を言っても)味(意味)は同じだがケーキをカッターナイフで切るともう食べる気はなくなる。というよりもその感性に面を喰らって味を感じる(意味を理解しようとする)余裕はどこかへいってしまう。そんな印象を受ける時がある。

 

なぜ無作法なコメントなりをする人が多少なりいるのかと言えば緊張関係と継続関係がないからだろう。

炎上したブログ主のその後のことは興味ないからその場かぎりで最大級の批判を書く。

また、対面で話すのとは違い相手の感情を逆撫でしても殴られることはないからまさに「関係がない」。

よく言われるネットの対面性のなさのことだけど

はてなブックマークは外部のサイトをブックマークすること、対話をするインターフェイスもないことからあらゆるプラットフォームの中でも特に対面性がないほうだと思う。これはほとんど確信してそうだと言える。完全に客観的というか観客的なコメントが多い。とまあこれは自分にも言えることなのだけど

 

多くの場合、人がその場面でその人の性格を発揮するのではなく場面にその人が適応するということが起こりやすい。人間は可変的だ。特にはてなブックマークのように意識的にならずに済むような場面においては承認や適応、あるいは反射にはしりやすい。設定に飲み込まれていくともいえるかもしれない。

 

その意味で僕ははてなブックマークを廃止しろとは言わないけれど人を「意識的」にする設計の余地があるんじゃないかと思いました。はい。おやすみなさい。

 

なぜインターネット依存は語られなくなったのか

Hagexさんの事件から3週間経った。かなりいろいろな記事を読んだが記事を見通して疑問に思ったことがなぜ誰も「依存」について書かなかったのかということだ。

 

ネット上のやりとりで殺人までいく狂気の源泉にはネット依存が多少なりある。容疑者は4年間無職ではてなに執着していたみたいだがそこまで執着することは医学的に見れば明らかに依存症と呼んでいいものだろう。

捨て垢を大量につくってまで罵倒を繰り返していたことも、ネットのやりとりで殺人までいくことも、またその間ずっと無職だったことも依存症を根拠づける報道だと言っていい。

 

僕も前々回の記事で低能先生の件に関して言及したけれど依存症については書いていなかった。しかしふと何の気なしにオウム真理教のニュースを見ていたら低能先生の件とつながった。

 

オウム真理教の件は当時、高学歴だった若者が麻原に吸い込まれていった件だったが低能先生ははてなに吸い込まれていったと考えれば合点がいくのだ。くしくも低能先生も国立大卒の高学歴だったわけだが

 

基本的に人間は感受性の動物であり理性や自律心などははっきりと後天的なものだ。環境や境遇次第で上下する不安定な能力だ。うまくいっている時には物事が客観的にとらえられたりするがたとえば無職になったり、たとえば就活に失敗したりとうまくいかない時にはなにかにべったりと依存することがある。それは誰しもが経験があることだろう。つきあってたった3か月の恋人が世界そのものに見えたり新卒ではいった会社が世界のすべてに見えて過労死するなど様々ある。若者のほうがそういうものに吸い込まれていくことが多いが何も若者だけの話ではない。恋人がいない期間が長かったり労働経験が空きすぎたりすると人の経験は無意味化する。再童貞化などとも呼べるかもしれない。再童貞化すれば男子高校生のようにセックスが時に世界のすべてに見え、良い意味で言えば純粋な感受性に還ることがある。

 

そして厄介なのは感受性のまえには学歴や理性などはまったくブレーキにならない。人間は時にひどく受動的な生き物だ。

 

宗教に吸い込まれたり、あるいはテクノロジーに吸い込まれたりする。何に吸い込まれるのか、何に傾倒していくのかはほとんど運の領域なのかもしれないと2つの事件を見て思うのだ。オウムに関してもたとえば土谷正実死刑囚も筑波大学時代に恋人と別れなければオウムに入信することもなかったかもしれない。上祐も村井も誰もかれも運のないめぐりあわせだと言ってしまえばこれほど簡単な結論もないが事実としてそういう人になる「可能性が誰しもにあることは理解すべき」なのは間違いないと思う。

 

自分だけは無謬だと思っていたらいつかドツボにはまる。

 

さて

テキストサイト時代の名残か、なにかインターネットがリアルからの救いのような意味合いで語られることが多いのだがこれだけ普及率があがったいま語るべきはインターネットにたいする依存のほうではないだろうか。

昔のネットは回線が遅いぶん中毒性がなかったというか中毒になる回路自体が存在しなかった。いまのネットは矢継ぎ早にザッピングし永久に情報を追い掛け回すことができるようになった。それは便利になったといわれるが一方では人が依存しやすくなったと言えるだろう。

ネット依存はなぜか現在の総数が定かではない。2013年には271万人とされているので普及率と利便性を考えれば倍増かそれ以上にはなっていると推測できる。

低能先生は情報だけを見れば明らかに依存症だった。そして低能先生の事件は依存症という点からインターネット全体の事件と考えることができる。

 

人をネット依存にする原因はインターネットの様々なところで見つけることができる。

はてなで言えばブックマークに流れてくる記事の回転率、UIのなかでただひとつある赤色の通知

保守速報、Kazuyaチャンネルに先導されるネトウヨ

Youtuberの間のない編集と喋り

ツイッターの操作性と「世界性」

 

これらに吸い込まれていく人は誰しもがオウムに吸い込まれていった可能性がある。そう自覚し宗教と同時にテクノロジーにたいしての免疫を獲得すべき段階までもうインターネットの依存性はきているように感じる。

シンギュラリティーがやってくるなどと言われているが少なくない人間がもうすでに過去の人間が宗教で世界観を形成していったようにネットで世界観を形成するようになっている。あるいは単にネットに操作されているといってもいい。

それは依存といっていいのか定かではないがネットには戒律もなければ教義もない。単純化された思想の「ようなもの」が刷り込まれていくだけで多くの場合それは時間の無駄にしかならない、がネットが普及して十数年しかないゆえにそれを判断し感受性をコントロールする経験自体を僕達はまだ知らない。

オウム事件からカルトを忌避するリテラシーを学んだように低能先生の事件からネット依存の危険性を認識すべきだといえるかもしれない。

 

いま幸福に理知的にインターネットを利用できている人でもいつ再童貞化するかわからない。

その時に人を吸い込んでいくデバイスとしてインターネットはあまりにも身近だ。そしてそれは過去なにか救いのようにすら見えるもの「だった」のだ。