メロンダウト

メロンについて考えるよ

君の膵臓を食べたいを見てインターネットに少々絶望した話

「君の膵臓を食べたい」を見て泣いてしまった。

ストーリーについてはいまさらここで書くまでもないでしょう。余命半年の少女とその同級生の恋愛を描いた作品だ。

 

ネット上での評価も軒並み高い。邦画の中では抜きん出ている。あの映画の何がそこまで人を惹きつけるのだろうかとすこし考えていた。

それはおそらくクローズドコミュニケーションへの渇望のようなものをみんな持っているんじゃないかと思った。ここでいうクローズドコミュニケーションとはある特定の関係でのみ意味が通じる言葉で行われるコミュニケーションのことを言っています。

「君の膵臓を食べたい」

と聞いた時にカニバリズムを連想したりするのが一般的な反応だと思うがこの映画の中では違う意味を持つ言葉となっている。閉じた人間関係のなかでのみ特定の意味を持つ。それがクローズドコミュニケーションだと言える。

 

年を重ね大人になれば普遍的で開かれたコミュニケーション作法をたびたび求められる。仕事ではビジネスマナー、メールの定型文、ハラスメントなどなどいろいろある。万人に通じる言葉をしゃべることが年を重ねるにつれ多くなってくる。それは家庭でも少なからずあるしもっと一般に言えばコミュニケーション能力という言葉自体がオープンコミュニケーションをベースに考えられているような含みさえある。

クローズドからオープンへというコミュニケーションの様相の変化はあらゆるところで起きていて最近になってそれが特に顕著になったのがインターネットだと思う。

インターネットは過去、クローズドな場所だった。文体も自由に文法も無視したような殴り書きのような文章が無数にあったがいまやそれは文化的なものとして残るだけで趨勢としてはオープンなコミュニケーションのほうが強くなってきている。

 

適切な言葉を適切な用法でもって書かなければいけないようなそんな感覚さえあるのだ。いいかげんな気持ちでいいかげんな文章を書けばすぐさま炎上したりする。それはコミュニケーションの自然法則とでも言えるのかもしれない。オープンな場所、たとえばコンビ二の店員が敬語を使わなかったら失礼な店員だと認識するようなもので

オープンコミュニケーションの基準は自然に決められそれから外れた言動は批判される。そしてその価値基準はえてして正しい。しかしそういうオープンコミュニケーションの現場においてとるコミュニケーションに一体どれだけの価値があるのかと「君の膵臓を食べたい」を見て思ってしまった。ありていに言えば言葉をツールとして使う生存戦略のようなものでしかないのではと。

しかしもちろん言葉を定義し普遍化することでたとえば政治などの現場においては議論になるので言葉を定義することは悪いことではない。しかしそれとは別の領域において、言葉を自由に使うことで得られる価値というものがある。

 

閉じた関係の中でのみ意味を持つ言葉もまた価値を持つはずだ。

そして閉じた場所として言葉を紡ぐ場所であったインターネットは(まだ生きているが)これからどんどんなくなっていくと思う。それはコミュニケーションの自然法則によって。これはハラスメントだこれは差別だこれはフェミだビーガンだ自由だという具合にオープンコミュニケーションによって価値は閉じていく。多くの人が集まる場所では多くの人に届く普遍化された言葉や勝つことは自明だ。

しかしそれとは別の領域で別な意味を持つ言葉を僕達は望むものなんだと思う。一見すると際どい意味を持つ「君の膵臓を食べたい」が青春を飾る言葉になるような、もっと閉じた、それでいて自由な言葉を喋れる場所を。

新潮45騒動と非国語的批評空間について

また杉田氏の件だけれど最初に新潮45で杉田氏の論文が炎上した際にはそこまでたいした問題じゃないなというか典型的なLGBT批判といった感じで認識不足かなぐらいの感想しかなかった。

しかし杉田氏擁護から炎上が展開し新潮45が休刊になったというのはかなり社会的にコアな部分に食い込んでくる話になったと思う。

そこで件の新潮45の小川氏の記事やアベマプライムなど一次ソースにあたってみたけれどはてなブックマークから見えるそれとはかなり感想が違った。休刊の原因となった小川氏の記事はかなり感情的で厳しい比喩表現で溢れているけれど立場的にはまともな保守そのものだと言っていいと感じた。

合理主義や進歩主義への警戒心を表す立場という意味で杉田氏の認識不足のそれとは書いてある内容のレイヤーそのものが違う。

 

杉田氏は生産性という言葉を使いどちらかと言えば制度論に近い。差別だと批判されるのもわかる。いっぽうで小川氏のそれは性自体を論じている。人の性を構成する要素の話をしている。一見するとLGBT批判と読めなくはないが異性愛も含めた性慣習全体を論じているので論旨は別のところ(性を社会的に扱うこと自体への違和感の表明)にあるように読めた。

この文章を読んだ時に自分が以前「選択的夫婦別姓」に関して疑義を呈して炎上したことを思い出した。あの時にも文章の意図を完全に読み違えられていたけれどそれにかなり近い現象が今回の騒動では起きているように見えてしまった。単にLGBTの話ではない。保守の文章を読めない人達がすくなからずいるし論旨ではなく文章の意味をストレートに受け取りすぎる人達がかなりいるのだと思う。

 

小川氏の文章は一見するとひどい比喩表現や代替表現で溢れているがそこまで読めない文章ではない。炎上しているのは僕達の読み取りの浅さにもあるのではないかとすら思う。文系における論文はニュースやライティングスキルによって生成された文章とは違う。事実やシンプルな論理だけを積み上げていけばいいというものではない。どういう思考やどういう「感覚」でいるのかは一言では言い表せないから表現を使って言語化する。そして表現しようとしている文章を読む時に書いてある言葉そのままに読むことはこれは読み手側の怠慢だと言える。批評や論文はそれだけ危ういものであって万人が読んで万人が同じ認識を持つ論文が国語の問題として成立するわけがないのである。

 

小川氏の文章はかなり読み取りづらいことは間違いない。というか自分も一読してなんじゃこれという感想を持った。また、いちいち熟読する時間もない人が多いだろう。しかしだからといって熟読することを放棄して批判していいわけではない。批評家は記者ではない。

いま起きていることはネットのニュース的批判空間が抱える文系学問への蔑視に近い。僕は小川氏を支持しているわけではないがいまネットで起きているような言葉だけを抽出して文章を読まない「非国語的世界」には断固として反対する。

 

同様の理由により新潮45が休刊という決断をしたことにも失望する。

小川氏の論文が時勢に沿っていないことはわかっていながらも出版したことは問題ない。しかしそれを論旨に沿わぬ形で誤読されたのであれば表現を駆使し説明するのが論壇雑誌のあるべき姿だろう。論壇が企業やニュースメディアや政治家と違うのはその思考を言語化する努力をするかしないかではないのか。

不快な文章だと反省し謝るのもいいと思う。しかし論壇は言い訳をするべきなんだよ。話の内容を理解してそれでも反対する人は出てくるだろう。LGBTはいまやそれだけセンシティブな議論だからだ。しかし多数に屈して休刊するという決断は論壇雑誌としては完全に間違っている。僕は読者ではないがいまからでも撤回してほしい。言論の自由への圧殺といっていい事態であってこれはLGBT以前の話だ。

 

というか騒動の件で見たアベマプライムで母校のゲイの教授が出ていたんだが彼の言っていた「言論の自由はそういうリスク(暴力を受けること)もある」のほうが100倍ひどいぞ。54分あたりから

 

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先天的ヘイトと後天的ヘイト~新潮45の騒動に思うこと~

杉田氏と小川氏の記事が原因で休刊というはこびになった新潮45

何か違和感がある。

というかブログを書くのが一ヶ月ぶりですね。おひさしぶりです。

 

発端は杉田氏がLGBTを称して生産性がないといった記事を掲載したことであるがそもそもこの記事が炎上し袋叩きになったことにもすこし違和感がある。

LGBTが生産性がない・・・というのはこれはヘイトではなく認識の錯誤でしかないようにも思える。実際こういうLGBTの理解が前時代的な人はすくなからずいる。ゲイwwwなどと嘲笑するような人ではなくとも時代がLGBTを存在せぬものとして扱ってきて教育も受けていない人が(いくら年齢を重ねていても)そういう甘い認識になることは当然だとも言える。

 

「大人」というとあらゆる事物にたいして適切な見方ができる人のことを想像するだろうが正しい認識を得る機会がなかった人はいくら年齢を重ねていようとも乳飲み子のような無知を披露してしまうことがある。それが恥だといってしまう言論空間そのものの空気こそが問題だとも思える。というかそういう正解不正解で決定するような教育や言論空間が前時代で恋愛的不正解としてのLGBTを供出したのではないのか・・・

いまLGBTに関する正解不正解は逆転したけれどその空気そのものは変わっていないんだなというのが一連の騒動にたいする僕の見方だ。

 

寛容さとは何かという問題だと思う。単にヘイトだと片付けていい問題ではない。

LGBTに関して無知だと言ってももちろんなかには知らないことにたいしても思考を働かせ感性によって正しい行動を取れる人もいるだろう。しかしあまり一般的ではない。何が正しいのか、何が適切なのか判断する時に多くの人は知識によって判断する。何が是か何が非かっていうのは時代によってめまぐるしく変わる。原理的なキリスト教的世界観ではLGBTはいけないものだと考えるだろう。多様性のもとにおいてはLGBTは肯定される。

そしていまの時代では個人の生活一般にたいして「神的」に規律を強制することは自由のもとにおいて許されない。

大きな話にすればLGBTに限らず社会的に望ましい人間像というものを語ること自体が許されていない。社会人的スキル、恋愛に最適化された性格、良い夫、良い妻など語りうるものがさまざまあるにはあるがそれは一般化して語られた瞬間に批判される。

しかしなかにはそういった人間像や規律が人間を構築すると信じている人、規範や権威が大人をつくると信じている人がいる。ヘーゲル的世界観だと言ってもいいかもしれない。ヘーゲルが「人倫」と言っていたものだがそういう客観的人間像は語ることそのものが許されない。

それは恋愛におけるLGBTもそうだろう。「客観的性」なんてものはこの世界に存在してはいけないのだ。

 

さて

杉田氏がLGBTが生産性がないという発言をしたことについてだがこれに関して思うのは彼女への批判にさいして誰も憐れみの視線を向けることがなかったことに違和感があった。

LGBTがなきものとして扱われてきた時代の被害者だという視点が抜け落ちているように見える。たとえば子供がゲイを気持ち悪いといった時に大人はそれを諭す責任があるし実際にそうする。同じように教育上そういう知識を得ることがなかった大人にたいしていまこの時代のマジョリティーと言っていい僕達がやるべきは知識がない大人にも子供にたいするそれと同様のまなざしを持って諭すことのように思える。

これは保守とかリベラルとかいう話ではない。なにせ彼ら彼女らは右左を考える以前にLGBTに関して考える機会すらなかったのだから。前時代の常識をそのまま吹聴する言論にたいしては断固として批判すべきだが彼ら彼女らを多様性のもとにヘイトだといって排除するのは寛容性においてしてはならない。

ヘイトには先天的なヘイトと後天的なヘイトがあると思っている。

子供が無邪気に人をいじめ障碍者を馬鹿にするような人間の動物的感情によるヘイトが先天的だとしたら前時代の価値観をそのまま言ったらヘイトになるような後天的ヘイトとがある。杉田氏のそれは明らかに後者だろう。ヘイトだといって批判することは僕もするべきだと思うが前時代の世界観そのままに現在も生きているだけの無知であれば教えてあげればいいというそれだけの話にも思えてくる。

 

リベラルは多様な人が存在することを受け入れる寛容さだけではなく無知な人を受け入れる寛容さもあって然るべきだ。それはヘイトを受け入れるべきという話ではない。

ヘイトは許されないがヘイト的無知は受け入れ諭すべきである。それが自由主義者の数少ない責任のひとつでもあるし他者へ及ぼせる数少ない善のひとつでもあると思う。

 

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