メロンダウト

メロンについて考えるよ

豊洲市場批判と清潔感至上社会

ものすごい抽象的にいえばてきとうさを愛するみたいなことを忘れたのだろう。豊洲市場で喫煙問題が話題にあがっていたが彼らのてきとうさを批判するのは端的に言って無粋な言説に見える。

なんというか現実の空気や人間を棚上げして結論づけているようなふしさえ感じるのだ。

 

上野や浅草などもそうであるが下町情緒なるものがいくつかの町にはまだ存在する。明文化されるようなものではない。しかし確かにそれは「在る」のだ。上野公園のベンチで缶チューハイを片手にタバコをすいながら談笑しているサラリーマン。路上にまで席をつくり昼間から酒を飲み馬鹿笑いしている上野や御徒町、五反田、新橋などの人々。そういった「いいかげんな場所」としてのいいかげんさを批判することははっきり言って無粋である。豊洲がそういう場所として在るべきかどうかといえば衛生面の観点から言ってNOであると思うが・・・

 

しかしまあタバコを喫煙所ですわないことは批判されるべきである。衛生面から豊洲では築地と違っていいかげんな慣習をとりやめるべきである、とまあそういうことになるのは妥当だろう。

 

タバコだけに限った話ではないがこういった論理的批判を見ていつも何かを置き去りにしているのではないかといった違和感がはしる。上に書いたような雑踏の話だけではない。論理で現実を切り取るその態度こそが人間の何かを致命的に毀損するような感覚があるのだ。リベラル。ポリコレ、フェミ二ズムなどの「極端に理念化」された価値観にも同種の違和感を覚える。

そもそもの築地が築地たるゆえんはいいかげんで雑多なものを許容する空気にこそあったのだろうと思う。僕も築地には何度かいったことがあるが喧騒と魚と水と風の匂いで埋め尽くされ汚れた場所に人々の生活や営みを感じるものだった。人が町を汚すというと反射的に汚すなよといった返答が返ってくるものであるが僕はそうは思わない。人がいればその場所は汚れるものだ、その汚して残る「染み」にこそその場所としての歴史が宿り場所としての空気が息づく。そしてそれが場所としてのアイデンティティーとなる。渋谷には若者の染み、新橋にはサラリーマンの染み、上野にはおじさんの染み、新宿はあらゆる人がいきかう染み、大阪の染み、京都の染みとそれぞれの場所にそれぞれに感じる空気がある。それは築地でも同様のことだったのだろう。

 

行ったことがある人にしか実感としてはわからないだろうが築地のアイデンティティーはそのいいかげんさにこそあった。路上にはみだしてまで陳列された商品、タバコをすいながら魚を売る人々、ちょっと値切ってみれば簡単に安く売ってくれるてきとうな値段設定、目分量で海鮮丼を提供するいいかげんな飲食店、打ち捨てられた魚の残骸。そのすべてが市場としての活気になっていたしそのてきとうさといいかげんさが築地の場所性だったのだろう。

 

それが豊洲になって顕在化して批判されているみたいだけれどそのいいかげんさを批判することは築地のあの空気を批判することと同じことである。そして僕にとってそれは何かすべての場所を一様化するような趨勢を感じて空恐ろしいことなのではないかと思えてくるのだ。

人間が多様であるように人が根付く場所も多様であるべきだ。その場所に根付かない人々は他にいくらでも行く場所がある。清潔感という価値を至上のものと捉えている人は食べ物と接するのは成城石井だけにしたらいい。築地のような汚れた場所が嫌だというのであればタワーマンションに住みオフィスビルで働きアマゾンで食品を買えばいい。この世界には多様な人々がいる。多様な人々がいれば多様な場所ができてくる。築地はかつてそういう「場所」だった。豊洲がどうなるのかはこれからだが僕はできれば豊洲も築地のようにいいかげんで汚れた場所であってほしいと、そう思う。

 

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「共感されにくい人達」は「権利」で救われるのだろうか

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読んだ。その通りだとも思う。僕達はおっさんよりも少女のほうに同情する。アニメなどのコンテンツで美少女が頻繁に使用されるのも共感の集めやすさゆえだろう。

記事の論旨をあえて悪しきように言えば「僕達はおじさんに共感しなくていい、けれど権利は守ろう」というふうにも読める。もちろん著者が言いたいのはそういったものではない。しかし共感と切り離して権利という概念を救済を駆動するものとして持ち出すことは本当に正しいのだろうか・・・

というかそれは「別の話」なのではないかと僕は思う。

 

おじさんに僕達は共感しないと自明なものみたいに言うけれどおじさんが欲しいのは権利による「物」じゃなくまさに共感そのものなのではないだろうかと思うからだ。

現実にも酒の席でおじさんが延々と同じ話を繰り返し話していることがよくある。彼らが同じ話を繰り返す理由がまさに共感してほしいからだろう。同情といいかえてもいい。おじさんはただ座っているだけでは共感されないから同じ話をする。

逆に若い女性は無口でおしとやかに座っているだけなことが多い。彼女達はおじさんのように話をしなくても存在するだけで同情や共感の対象として扱われるからわざわざ自分の話をしないのだろう。

おじさんに共感するのに僕達は物語を必要とする。だからおじさん達はその物語を忽然と話しつづける。

最近は若者もそんなおじさんの話につきあってられないみたいな風潮があるみたいだがそういう感情的な切断を許す社会はあまり良い社会とは言えないと思う。おじさんを承認しないという「自明の前提」そのものが問題の根幹にありその前提は覆らないから権利を持ち出して救おうというのはこれはある意味で論理のすり替えだと言っていい。

基本的人権は国家の論理であって社会的な意味での個人の論理、であってはならない。僕達はおじさんのくだらない話を聞くべきである。

 

 

おじさんを「権利的」に救済しようというのは絶対に正しい。しかし物質的な貧困と存在の不安とは分けて考えなければいけない。人間は食べて寝てセックスするだけで生きていける動物ではない。

物理的な貧困を解決するのはたとえば政治であったり法律、人権団体、NPONGOなどあらゆる公民の支援組織によって可能だろう。しかし自己存在の不安=承認の問題を解決するのは国家の問題ではなく社会の問題ひいては個々人の問題である。権利によっておじさんを救済するから僕達はおじさんとは距離をとって生きていいということにはならない。国家が権利的、物質的に救済することと僕達がおじさんの話を聞くことはまったく別の話だからだ。社会的な承認を構成するのは個々人によるコミュニケーションでしかなしえない。

 

別の話と書いたけれど上記は僕達が持つべき眼差しの話であって

おじさんの「生」自体の中では物質的な豊かさと存在の承認は必ずしも別ではない。おじさんにただ食料を与え住みよい家を与えるだけでは一時的な救済にすぎず自立して生きるのには承認が必要だ。承認されることでバイタリティーが生まれ理性につながることではじめて自律することが可能になりそこではじめて人のために働き、他者に承認を繋ぐ人間になれるしその結果として物質的なものもついてくる。

承認欲求はなぜか悪い意味でとらえられがちだけれど承認、共感を求めることこそが理性をつくると言っていいだろう。

人と承認しあいポジティブに繋がることはいまや単一的な常識として語られることが多いが本来は人に承認され共感されることで別の他者にたいしても寛容でいられるものである。子供を見ればよくわかる。親に愛情を与えられなかった子供は社会的に生きにくい人間になってしまうが、大人になっても程度の差こそあれそれは同じだろう。

つまり承認や共感の獲得構造から外れてしまったおじさんが他者と繋がれなくなり貧困になるというのは人間の心理的な構造として当たり前の結末だと僕は思うのだ。なぜなら人にとってえてして孤独だけが問題だからだ。貧困になり孤独になったおじさんに物を与えても物質的な基盤だけではうまくいかない。孤独な人間がなにか自動的に内発的な動機をつくることなどありえない。他者の承認によって精神的な基盤が与えられそこに理性が宿り生活の基盤が生まれる。

 

貧困になったおじさんを権利的に救済すること以前に僕達がやるべきはおじさんの話を逐一聞くべきであっておじさんの哀愁や悲壮にも価値を認めることではないのだろうかとそんなことを思った。

君の膵臓を食べたいを見てインターネットに少々絶望した話

「君の膵臓を食べたい」を見て泣いてしまった。

ストーリーについてはいまさらここで書くまでもないでしょう。余命半年の少女とその同級生の恋愛を描いた作品だ。

 

ネット上での評価も軒並み高い。邦画の中では抜きん出ている。あの映画の何がそこまで人を惹きつけるのだろうかとすこし考えていた。

それはおそらくクローズドコミュニケーションへの渇望のようなものをみんな持っているんじゃないかと思った。ここでいうクローズドコミュニケーションとはある特定の関係でのみ意味が通じる言葉で行われるコミュニケーションのことを言っています。

「君の膵臓を食べたい」

と聞いた時にカニバリズムを連想したりするのが一般的な反応だと思うがこの映画の中では違う意味を持つ言葉となっている。閉じた人間関係のなかでのみ特定の意味を持つ。それがクローズドコミュニケーションだと言える。

 

年を重ね大人になれば普遍的で開かれたコミュニケーション作法をたびたび求められる。仕事ではビジネスマナー、メールの定型文、ハラスメントなどなどいろいろある。万人に通じる言葉をしゃべることが年を重ねるにつれ多くなってくる。それは家庭でも少なからずあるしもっと一般に言えばコミュニケーション能力という言葉自体がオープンコミュニケーションをベースに考えられているような含みさえある。

クローズドからオープンへというコミュニケーションの様相の変化はあらゆるところで起きていて最近になってそれが特に顕著になったのがインターネットだと思う。

インターネットは過去、クローズドな場所だった。文体も自由に文法も無視したような殴り書きのような文章が無数にあったがいまやそれは文化的なものとして残るだけで趨勢としてはオープンなコミュニケーションのほうが強くなってきている。

 

適切な言葉を適切な用法でもって書かなければいけないようなそんな感覚さえあるのだ。いいかげんな気持ちでいいかげんな文章を書けばすぐさま炎上したりする。それはコミュニケーションの自然法則とでも言えるのかもしれない。オープンな場所、たとえばコンビ二の店員が敬語を使わなかったら失礼な店員だと認識するようなもので

オープンコミュニケーションの基準は自然に決められそれから外れた言動は批判される。そしてその価値基準はえてして正しい。しかしそういうオープンコミュニケーションの現場においてとるコミュニケーションに一体どれだけの価値があるのかと「君の膵臓を食べたい」を見て思ってしまった。ありていに言えば言葉をツールとして使う生存戦略のようなものでしかないのではと。

しかしもちろん言葉を定義し普遍化することでたとえば政治などの現場においては議論になるので言葉を定義することは悪いことではない。しかしそれとは別の領域において、言葉を自由に使うことで得られる価値というものがある。

 

閉じた関係の中でのみ意味を持つ言葉もまた価値を持つはずだ。

そして閉じた場所として言葉を紡ぐ場所であったインターネットは(まだ生きているが)これからどんどんなくなっていくと思う。それはコミュニケーションの自然法則によって。これはハラスメントだこれは差別だこれはフェミだビーガンだ自由だという具合にオープンコミュニケーションによって価値は閉じていく。多くの人が集まる場所では多くの人に届く普遍化された言葉や勝つことは自明だ。

しかしそれとは別の領域で別な意味を持つ言葉を僕達は望むものなんだと思う。一見すると際どい意味を持つ「君の膵臓を食べたい」が青春を飾る言葉になるような、もっと閉じた、それでいて自由な言葉を喋れる場所を。