メロンダウト

メロンについて考えるよ

朝まで生テレビの少子化の議論を見て思ったこと

元旦の朝まで生テレビを見ました。番組で少子化について議論していたのですが見ている間いろいろと考えていました。

 

番組を見ていて覚えた違和感は大衆がどういう動機や理由で結婚しているのかが棚上げになっているのではないのかということでした。少子化に関して議論する時、抽象的には理性的な話、具体的には政治行政による保障に関して議論されがちです。しかし少子化って最も根本的な話をすればセックスの不況化でほとんど説明がつくのではないかと、極論ですけどそんなことを思いました。

 

昔、ビートたけしが「なんでたけしさんは結婚したんですか?」という質問に「ただでセックスできるから」と答えていましたけど身も蓋もない言い方をすれば男性が結婚にたいして求めているものはセックスが大きい要素を占める。仕事上のつきあいなど通常の人間関係ではほとんどこういうことを聞くことはないですが飲み会などぶっちゃけた話を聞く場所ではたまにこういう本音を聞くことがあります。言ってしまえば低俗ですがこの低俗さが流通しなくなったことが概念的だが重要な問題であるでしょう。

 

男性、女性が結婚する要因のひとつにセックスしたいがありその延長戦上に子供が生まれるという最もプリミティブな要素を考える。全員がセックスする社会をグランドデザインとして掲げるべきでその意味で理性的な人間をモデルに考えるのはなんというか前提として間違っているのではないのかと思いました。

外的な環境を整えれば子供の将来は心配ないからじゃあ子供を産もう、ではないと思うんですよね。子供はとりあえず産んでしまい産んだから頑張るというのが本能に即した普遍的な人口増加のモデルだったはずです。それが正しいか正しくないか、成功するか失敗するかは育てたあとに「結果的」についてくるものであって本来、前提条件にはならないはず。

理性的人間をモデルとして考えてもその議論はおそらく「大衆的」ではない。そして大衆的ではないものは少子化を解決するものにはならない。

少子化の議論ってもっと下世話な話で行政がどう保育園がどうも大事ですけどそれらは周辺要因であって最も根本的な「なぜ人はセックスしなくなったのか」に立ち返るべきではないかと番組を見ながら考えていました。

 

なんで人はセックスしなくなったのだろうか。20代男性の4割が童貞であるとどこかのニュースサイトで見ました。けれど1世代で男性の性欲の総量が減少しているとは考えられないのでなにか昔とは違う環境的、思想的要因があるはずです。

ひとつ考えられるのは経済的な格差です。経済と言っても単純に金を持っているかそうではないかを超えて経済という概念が肥大して承認や自尊心の格差にまで侵食してしまったのが思想的な要因ではないかと思います。清貧なんて言葉がありましたけど最近はほとんど聞かなくなりました。金を持っている人はそうではない人よりも自律していて理性的であり貧困は怠惰の証だというステレオタイプな見方で世界を切り分けるのを「現実」という言葉で正論扱いしてきました。

実際にはそんなことはないでしょう。日本のストック、フローの格差は親が金を持っているかそうでないかにほとんど集約されます。親が金を持っていれば教育水準が高くフローが高くなると同時にストックも担保されている。さらにいったん開いた格差は新卒一括採用や年功序列などで固定されてきました。

 

ゆえに格差が少子化を生むは正確ではなく経済力が社会的な概念として人を規定する材料としてあまりにも広く流通してしまったので格差が少子化を促進する理由になっていると考えることができます。金を持っていない人は劣等感に苛まれ自尊心を形成するのも困難になるほどの「経世観の肥大」が男性を恋愛から退却させ、同時に女性もマジョリティーである貧困層と結婚しなくなった。

それが少子化と経済がリンクして議論されている原因だと言えます。その点から経済がよくなれば子供も増えると考えられている。しかし経済は相対的なものなので経済と自尊心をリンクさせているかぎり経済の絶対量が増えても尊厳の相対的貧困はなくならない。だからこのリンクをたちきるしか方法はないという結論に達します。

恋愛と経済を切り離して本来的な意味での結婚、あるいは単によけいなことを考えずに性欲にまかせて恋愛ができるようになればいい。よけいなことを考えずにセックスするために経済的な理性は邪魔でしかない。というかそれは打算であり理性ではないのではないか・・・

本来、経済と恋愛は「それほど」リンクしていなかったはずなんですよね。中国も昔から格差が今の日本の比ではないほどありますけど人口が増加しすぎて一人っ子政策を施行するほどになりました。つまり格差が問題なのではなく経済で人を選ぶほどに恋愛と経済をリンクして考える意識が問題だと言えます。

それはもちろん当然のことですが現実に金を持っている人と結婚したいと考えるのが合理性であると同時に「金なんて持ってなくても愛してる」も美しい理性だということを思い出してもいいんじゃないかと。

 

そう考えるとなぜここまで日本は金満主義な考えになったのかと考えるべきだと言えます。全世界の個人預金残高3000兆のうち日本だけで1400兆です。GDP比率でみても明らかに異常な国です。ここまで金を大事にしまいこんで「金を持っていることに安心する国」はない。裏返せばここまで「金を持っていないことを卑下する国」もないと言えます。卑下し、劣等感にさいなまれ、ゆえに結婚しないのであればそこには日本特有の何かがあると考えるべきでしょう。それが番組冒頭で落合さんが言っていた空気だと言えるでしょう。

 

 

 山本七平が日本は「空気の国」ということを書いています。空気を読むことが最大の社会性だと一般的にも言われることが多い。空気、人の目、世間体、社会規範が大衆心理を支配しているとは言い換えれば形式に支配されているとも言えます。

本来自由であるはずの人のありかたが形式に侵食され恋愛も形式にかたどられていった。だから恋愛に関して「釣り合わない」という思考が働く。釣り合わないとは言い換えれば適正ではないと言っているのと同じです。他人にたいして誰と誰が適正かそうでないかを考える線引きはひいては自らが「どのくらいの男性、女性と恋愛可能か」という自縛と直結しています。

その適正を判断する視座はどこからくるのかと言えば形式だと言えます。

 

空気の問題は朝生の番組冒頭で落合陽一さんも言及していましたがすべての問題は空気に人が規定されると地続きのように見えます。経済的空気に規定される恋愛市場、民主主義におけるポピュリズム、企業活動における保守的空気によるイノベーション不足、いじめ、差別等。どうこの空気を打破して本来的な恋愛、セックスに立ち返るかが少子化の思想的な問題と設定できます。

空気の打破というと抽象的すぎますがもともとは空気は外部に存在する「べき」ものでした。

民主主義においてもルソーは個々人が私的欲望にもとづき投票行動をすることが民主主義が成立する条件だと書いています。恋愛や結婚も元来そうでしょう。議論をし、空気をつくり、ある材料を規定し、評価し、適正かどうかを判断する「理性」そのものはいらないんですよね。

そう考えると今の時代がいかにセキュリティー的になっているかが見えてきます。ジャン・ボードリヤールが情報社会では人々は事前のセキュリティーに侵食されていくと書いています。情報がオープンになり、事が起きる前(結婚する前)に統計的にどうなるかを判断できるようになるとセキュリティーで人は動いていく。

恋愛も結婚も情報によるセキュリティーゆえに経済とリンクさせて考えるようになった。金のある人と結婚するのはセキュリティーでありその思考を形成しリンクするのは「情報」である。

だから情報を無視して生きている地方のマイルドヤンキーは経済水準で子供の将来が決まりかねないという統計を無視し、結婚し、子供をつくったりしています。成長した若者が都市部にでてくるので若者の絶対数が少なく地方でも少子化が進んでいますが都市部の(将来的に予想されている)少子化と地方の過疎化は要因としては別なものになるでしょう。

 

そういう無責任な出産が理性的ではないと一部批判もされますが本来、無責任ではない出産はない。赤ちゃんの立場から見れば誰かと誰かがセックスした結果としてこの世界にゴロンと放り出されるだけである。そしてそれでいいと僕は思います。本来、人の生にセキュリティーはあってないようなものなのですから。

 

長くなったのでまとめますと

セックスから退却している人が多くその原因は経済とリンクしている。リンクさせているのは情報によるセキュリティー。そのリンクは経済的格差と自尊心を連動させる。空気による恋愛市場の釣り合い、適正化が起きる。金がない≒自尊心がないと考える人は釣り合わないという空気により恋愛しなくなる。セックスしなくなり子供を産まなくなる。しかし空気も理性も捨てていいものである。

ジェンダーギャップ指数に思うこと

あけましておめでとうございます

 

ところでジェンダーギャップ指数が日本は110位らしい。ジェンダーギャップ指数はほとんどイコールで女性差別の問題として語られるけれど・・・

ジェンダーギャップ指数を論拠にした女性差別批判を読んでいるとどうも実地的な感覚とずれがある。国会議員や企業の役職の数を男性と同数にして女性差別を「形式的」になくせば本当によくなるのだろうか。

同数にした場合、瞬間的には政策が女性に配慮したものになるけれど日本の女性差別問題って自由やロールモデルの問題であって平等の問題ではないように見える。というか平等とはどういうものか考える必要がある。

 

前回の記事ともすこしかぶる部分があるけれど日本社会の特徴として何か役割を演じキャラクターとしてふるまうことを要求される傾向がある。男女限らず。芸人みたいに。ボケかツッコミか。男か女か。家事か仕事か。とてもくだらないと思う。

女性は家にはいって家事をして旦那を支えるのが右よりの人が考える女性の代表的なロールモデルだけど男性も同様に社会階級によって評価、差別される。自分もモラトリアム的にニートというかフリーランスというかグダグダと生きていたことがあるけれど無職と口に出した瞬間に見る目が変わる人達と遭遇することがあった。そういうくだらない人間を見る目を養えて良かったと今は思う。

男性への社会階級による差別、女性への昇進に関する差別。どちらも同様に形式的な評価に依存していることがおかしい。仮に現在言われている国会議員の数などの女性差別が解消されたとしたら今度は女性が社会階級による差別を受けることになるのは自明だ。

前回の記事ともかぶるけれど属性によって人を認識するのをやめなければこんどはこれが差別だ、次はあれだ、じゃあこれも差別だとなってしまう。

つまりこの世界にルールがある限り敗者が生まれ、ルールという「平等性」により差別が生まれる。あいつは頑張ったんだから金を持って裕福な生活をしているのは当然だという思考はあいつは頑張んなかったから貧困で当然だという差別と表裏一体なんですよね。だから平等という理念は機能しない・・・のに男女平等は良いことと思われていることに違和感がある。だからなにかを批判する時に男女平等やジェンダーギャップ指数が背景に見え隠れすると違和感を持ってしまう。

 

差別を生むのは先入観ではなくルールである。女性差別で言えば資本主義というルールに女性は合わなかった。現在のようなサービス業や事務作業、金融、ITなどが出てくる前は産業資本がメインだった。その中で女性は産業資本主義のルールにマッチしなかったのだろう。大量生産の工場で肉体労働をするのは身体的な理由で男性が多い。マッチョイムズに染まった男性を女性が統括するとなめられたりして管理できない可能性が高いというのは自明な資本の論理である。

それは産業を成長させ金を稼ぐ資本主義という「平等のルール」に乗っ取ったものだろう。

その名残でいまでも女性の評価を軽んじたりする人が多いが個人的にはこれはすぐ逆転するんじゃないかと思っている。工場などではオートメイションによって人手がどんどんいらなくなり人が従事するのはサービス業がメインになるはずだ。その時、容姿に優れた女性労働者のほうが重宝されその女性を統括するのも女性のほうが優位になる。実際に携帯販売店や旅行代理店の窓口、カフェなどでは女性のほうが採用されやすい。それはいま女性差別と批判が起きている同じ理由から男性差別と言っていいものになる。サービス業がメインになり男性が採用されなくなった時、僕達男性は女性にたいしてその平等な資本主義のルールにそった女性主体の社会にたいして「NO」と言っていいのだろうか。と引き付けて考えることができる。

 

と考えると資本主義という平等のルールによって評価する思考様式そのものがおかしいはずだと気づくはずだ。平等は機能しない。それは資本主義も、もちろん男女平等も。あるいは民主主義も。これらはすべて形式でありルールである。

 

じゃあ男性差別女性差別をなくすにはどうしたらいいのかというとそれがおそらく「自由」と「文学」であると思う。

突然、文学なんて書いたので驚かれたかもしれない。しかし文学と差別は密接にリンクしていると考えている。なぜ文学というエンタメが学問になったのかというそもそも論に帰る必要がある。ゲームや漫画などはまだ生まれてから日が浅いので学問にはなっていないが文学が学問になり社会一般の教育に必要だと考えられていた理由があるはずである。

それがおそらく上述したようなルールとは別の視点で人を見ることが必要だからだろう。前回記事に書いたように人を属性やキャラクターでカテゴライズし平たく、平等に見ると差別につながる。ゆえに文学的、物語的に人間を見ることは社会全体へ教育するに足ると考えられたのでしょう。

自由はいわずもがな多様性と連動しているので差別を解消する機能を持つ理念である。

 

結論としては男女差別は平等なルールがあるから起きる問題と言うことができる。

オリンピックの競技が100mだけであれば黒人ばかりが勝つように誰にとっても平等なルールはないのであらゆるルールの競技を行い、身体障碍者用のパラリンピックを用意する。あるいは身体的な能力だけで評価するのはダメなのでコミュニケーション能力によって評価する。もちろんそれもダメなので知的能力で評価する。のもダメというかすべてのルールにのっとった評価システムはダメなのだ。それらは資本のルールであり社会のルールでありスポーツのルールであり法律というルールであっても、人のルールではない。

 

だから文学が必要であり自由とはどういうことか考える必要があると思う。それが最も「人間的」な見方だからだ。

人に物語を見なくなった世界で

コードが違う。それがシロクマさんの記事を読んだ感想だった。スタンスとしては清潔感や正しさの敷設への疑義という点で僕もシロクマさんと同様の感想を持っている。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

コミュニケーションをしなければ人のことなど何もわからないという人間社会の大前提を忘れているような気さえしてきた。結婚している人間は幸せで非モテは不幸という至極単純化された論争がちょっと前のインターネットにあった。あの時にも思ったがそんな単純化できるほど人間は簡単に規定できるものではない。みんなそんな幸せにだけ生きてるわけではないし不幸だけで生きてきたわけでもないだろう。というか非モテであろうとモテていようと本質を別のところに求めようとしなければどうして人を人として見ることができようか。非モテかどうかなんてどうでもいいだろそんなことと当時は思ったものだ。

 

どうでもいいんだよ。タバコを吸っていようが、吸ってなかろうが、男だろうが、女だろうが、日本人だろうがアメリカ人だろうがケニア人だろうが。人をカテゴライズし個別的コミュニケーションを放棄してその人間をメタで認識することはすべからくヘイトなんだよ。中国人だろうが韓国人だろうが非モテだろうが喫煙者だろうが人を判別する要素としては些末すぎる。どうでもいいよそんなこと。人を嫌うなら人と話してその個人を嫌えというだけの話をなぜ属性分けして物事を語りたがるのか。

 

ある属性で人間をカテゴライズしそれを躊躇いなく言ってしまえる人はコミュニケーションを放棄している。こうこうこういう人間はこうであるといった単純化された世界観でしか人を認識しなくなり言語が通信手段でしかなくなった人達がわりといるのだろう。ネトウヨ嫌韓はてな嫌煙はそういう意味で同相である。それがシロクマさんが地下茎でつながっていると書いた理由であろう。

 

しかしまあ嫌煙家が出てくるのもわからなくはない。自分は喫煙者だから上述したようなわりと寛容な感想を喫煙問題に見るが、非喫煙者と接する喫煙者は非喫煙者の前でタバコを吸う喫煙者しかいないからであろう。自分は仕事中はまったく吸わないし、非喫煙者がいる空間でも吸わないし、喫煙所で吸うタバコはうまくないうえに煙が充満していて服に匂いがつくのでほとんど入らない。自宅か車の窓をあけて吸うか開けた場所でしか吸わない。つまり現状、マナーの悪い喫煙者しか非喫煙者の前に残っていない。つまり嫌煙によって分煙がすすみ分煙によってさらに嫌煙がすすむという構造になっている。パワハラおじさんだけを集めた会社が地獄みたいな話で分煙によってスクリーニングされて嫌煙がすすんでいる。ので嫌煙家がでてくるのもわからないではない。

 

しかしそれと道徳的視点、ヘイトかそうでないかは完全に別である。自分の主観的な経験だけで人をカテゴライズして侮蔑していいということにはならない。

ネトウヨの問題などもそうであるがこれらの問題の根底にあるのがコミュニケーションせずに人を認識すること、つまり人に個別の物語を見なくなったことだと言えるだろう。例えば女子高生は女子高生でしかなく、きもくて金のないおじさんはきもいでしかない。タバコをすっている女子高生もいるだろうしきもくて金もないが闊達なおじさんもいるだろう。個別で認識すべき人間にたいしてメタでカテゴライズして認識するのは必ず浅薄な世界観を形成してしまう。

そういった単純化された世界観で人を認識する人間をタバコは抽出してくれる。タバコは過去、物語の産物だった。宇多田ヒカルのファーストラブの歌詞しかり紫煙に人生を見たものだ。別にそんな人生などと大仰なことでタバコを吸っているわけではない人もいるだろう。しかし非言語コミュニケーションとして言葉を介さずともなにがしかを共有する媒体としてタバコは存在できていた。科学的にくさい以上のものを媒介するものだったがしかしまあそんなことは幻想と言えば幻想だった。しかし非言語的幻想、不確かなものだからこそ人はそこに人を見ることができたし見ようとしたのだろう。

別にタバコを吸っていなくとも吸っていようとも人とコミュニケーションをとりその人の中に物語を見ようとすることは当たり前のことだ。

コミュニケーションを取り、人の物語を聞き、人の中に物語を見て仲良くなる。そんな当たり前のコミュニケーションをとれというそれだけの話でしかない。喫煙者であろうと仲良くなれる人もいるだろう。ゆえにコミュニケーションを取る前から属性によってヘイトするのは間違っている。この意味でシロクマさんはタバコ問題にたいして「道徳」という言葉を使ったのでしょう。

しかしまあ仲良くなるなんて言葉も最近はハラスメントだったりするのかね・・・