メロンダウト

メロンについて考えるよ

男らしさと理性と適応

男らしさについて語る時に僕達は適応の話をしなくてはいけないのだと思う。

以前の男らしさはジェンダーロールによる適応の産物だった。そしてその男らしさには理性的なニュアンスが存在していたように思える。男は男らしくいるほうがいいからそうすることは自律しているということでそれは理性によって成る。

 

今考えられている男らしさ、あるいは正しさというのは以前の男らしさとは違うものになっていることは間違いない。いま男性に求められているのは清潔でコミュニカティブで金を稼ぐビジネスマン的な意味合いが強い。以前のように人間像として語られていた男らしさは存在しない。男らしさの定義自体が変わった。

 

昔:女性をリードし、家父長的で子供には規律を教え、大黒柱となる存在

今:清潔で社会性があり家事も分担し女性に理解を示す

 

変わったのはわかる。そしてそれは一見いいことのように思える。男女ともに個人の役割に納まらず自由に仕事や生活を営むのは間違いなくいいことだ。しかしこの男らしさの記事を読んだときに疑問に思ったのがこれは結局、適応の問題なのではないかということだ。

以前の家父長的男性社会で生きていた男性の中にもその男らしさに適応できなかった人もいただろう。

もちろんいまの社会においても昔のジェンダーロールが壊れてその変化に戸惑いを覚える人もいる。

 

結局、定義が変わっても理性によって男らしさを変化させ適応できる人間だけが適応できる。適応できた人間だけが適応でき、適応できない人間は適応できないのであれば何も変わっていないではないかと思う。

ただそれは「変化」しただけで社会全体においてどの集団のどの思想がどの程度政治化されたのかというパワーゲームに過ぎないのではないのかと思う。

 

今、僕達は以前の男らしさを捨ててもいいと思っている。実際に最近のニュースやmetooなどを見ても以前の男らしい慣習のまま生きている男性は訴えられ蔑まれ侮蔑される。なぜならそれはいま僕達が考えている男らしさとは「違う」からだ。

しかし一方で以前はたとえばオタクや口先だけの男性、芸人など男らしくない男が蔑まれ軽んじていた。たとえば出川哲郎などがそうだ。抱かれたくない芸能人ランキング一位をずっと取っていた。彼のような常に笑いおどけてみせる突出したコミュニケーション能力で生きている人間は見下されていた。

 

今の男らしさから外れている人間を忌避し昔も昔の男らしさから外れている人間は忌避していたのであれば何も変わっていない。というか男らしさが変わったことしか変わっていないではないかと思う。政権が民主党から自民党に変わったみたいな話でそれを良かったと考える人がいる一方でそんな安易に考えない人もいるだろう。

 

主に出川哲郎に抱かれたくないと考え、投票していたのは女性であり彼を笑っていたのも女性だ。今、出川哲郎を好きなのも女性が多いらしい。つまり出川哲郎は変わっていないのに彼を見る女性の視線がただ一方的に変わっただけである。結局、その時代の趨勢にあった人が表になりその一方で裏となる人がいる。世界はどうしようもなく勝手である。

そしてその変化に常に適応できる人だけがこれからも生き残っていくのだろう。男らしさという言葉はなくなっても、常に或る形式を持って。

虐待の構造めいた時代論

ある時代に求められていた態度はある時代には糾弾されうる。この記事を見て自分の父親のことを思い出した。

yuhka-uno.hatenablog.com

父も母も団塊の世代ど真ん中で社会的にはモデルケースのような家庭だと言っていいと思う。父は終身雇用のサラリーマン、母は僕がちいさいころは専業主婦で手がかからなくなるとたまにパートに出ていた。

大人になって親の弱さに気づくことはよくある話だ。自分の父も例外ではなかった。精神的虐待と言えばそうだったのかもしれない。中学校から帰宅したら父が一人で勝手に怒りだしたのかPS2を庭に捨てられていたこともあった。また、理由も覚えていないような理由で冬に家の前に2時間立たされたこともあった。父はそういう人だった。文字にすれば虐待と読まれるかもしれないが僕はそれでも父は父として尊敬していたししている。どうということはない。父はただそういう権威、男性性が重要な時代に生きてきてそういう権威が男性にとって善だと思っていたのだと思う。しかしそんなことがどうだというのだろうか。それはただ父のささいな一側面に過ぎない。そんな父の不完全さを埋めるほどには父は僕にとってどうしようもなく父だった。

 

よく思うことがある。人格は何かから要請された性質だと。自分の父に関して言えば昭和的な家父長制が父の人格を要請していたのかもしれない。子供が親にたいして従順になり、すべてをやりすごすようななるのもまた要請された手段としての人格であるかもしれない。

恋愛で言えば付き合っている人にふさわしい人間になろうという他律的な意識もまた要請されたものだ。基本的に人格は後天的だ。自分らしさという言葉は単にその他律を自律に変換するためのエクスキューズに過ぎないのだと思う。

虐待の件で言えば父が精神的虐待をしていたのだとすればそれにたいして嫌悪する感情は反面教師という点で父に与えられた性格であり、逆に父を尊敬していればそれは教師として与えられる正確になる。

しかしながら時に虐待をするような親だとしても同様に何かから要請された性質を持つ不完全な人間だという視点があって然るべきだと、僕は思う。もちろんそれを許すか許せないかは完璧に個人の事情によるところだ。それでも昭和的な価値観に支配され男女の役割を完璧に演じるように求められていた時代が確かにあったのだと思う。その時代に生き、その空気にどうしようもなく準じるしかなかった人達がいた。それが家父長的な父親を「要請」したのだろう。

 

いまほど女性が社会に進出する前には多くの女性は男性と結婚するしかなかった、と同じぐらい選択の余地なく男性は権威を持つしかなかったのかもしれない。いまのようにオタクが普通になる前には男は強くというのが男性にとっての一般的なビジョンだったのかもしれない。男は女をリードし、アニメからは卒業し、社会的な付き合いを完璧にこなし、金を稼ぎ、家を建て、自立し、強くあろうとし、子供を持ち、その子供もまた以上の条件で戦い抜くための強さを教育する。それが虐待というのであればそれはどこからきた虐待なのだろうと思う。個人の弱さと一概に片づけていいものではないと思うのだ。

いまの時代にはセクハラや虐待、体罰など加害的な意味に変換された権威という概念だけどそれは当時を生きていた男性にとってはあるいは善性だった。要請された性質なのだとすれば同情し理解することもできる。

悪が単に悪だったり加害者が完璧に悪人だったり、被害者が完璧に被害者だというケースは極めて稀だ。誰かに影響され誰かの妄想にとりつかれそれが正しいことだと思っていることが誰かにとっては正義に反する行いだったりする。またある時代に要請され強制された性質は自由とは反するものであったりする。それはでもどうしようもなかったんだと思う。いまほど豊かではなく自由も利かない時代があった。時代が変わりそれが認められずともそんな時代にどうしようもなければどうしようもなかったんだと距離を取り理解することは少なくとも可能だと思う。たとえそれが加害という形であっても。

朝まで生テレビの少子化の議論を見て思ったこと

元旦の朝まで生テレビを見ました。番組で少子化について議論していたのですが見ている間いろいろと考えていました。

 

番組を見ていて覚えた違和感は大衆がどういう動機や理由で結婚しているのかが棚上げになっているのではないのかということでした。少子化に関して議論する時、抽象的には理性的な話、具体的には政治行政による保障に関して議論されがちです。しかし少子化って最も根本的な話をすればセックスの不況化でほとんど説明がつくのではないかと、極論ですけどそんなことを思いました。

 

昔、ビートたけしが「なんでたけしさんは結婚したんですか?」という質問に「ただでセックスできるから」と答えていましたけど身も蓋もない言い方をすれば男性が結婚にたいして求めているものはセックスが大きい要素を占める。仕事上のつきあいなど通常の人間関係ではほとんどこういうことを聞くことはないですが飲み会などぶっちゃけた話を聞く場所ではたまにこういう本音を聞くことがあります。言ってしまえば低俗ですがこの低俗さが流通しなくなったことが概念的だが重要な問題であるでしょう。

 

男性、女性が結婚する要因のひとつにセックスしたいがありその延長戦上に子供が生まれるという最もプリミティブな要素を考える。全員がセックスする社会をグランドデザインとして掲げるべきでその意味で理性的な人間をモデルに考えるのはなんというか前提として間違っているのではないのかと思いました。

外的な環境を整えれば子供の将来は心配ないからじゃあ子供を産もう、ではないと思うんですよね。子供はとりあえず産んでしまい産んだから頑張るというのが本能に即した普遍的な人口増加のモデルだったはずです。それが正しいか正しくないか、成功するか失敗するかは育てたあとに「結果的」についてくるものであって本来、前提条件にはならないはず。

理性的人間をモデルとして考えてもその議論はおそらく「大衆的」ではない。そして大衆的ではないものは少子化を解決するものにはならない。

少子化の議論ってもっと下世話な話で行政がどう保育園がどうも大事ですけどそれらは周辺要因であって最も根本的な「なぜ人はセックスしなくなったのか」に立ち返るべきではないかと番組を見ながら考えていました。

 

なんで人はセックスしなくなったのだろうか。20代男性の4割が童貞であるとどこかのニュースサイトで見ました。けれど1世代で男性の性欲の総量が減少しているとは考えられないのでなにか昔とは違う環境的、思想的要因があるはずです。

ひとつ考えられるのは経済的な格差です。経済と言っても単純に金を持っているかそうではないかを超えて経済という概念が肥大して承認や自尊心の格差にまで侵食してしまったのが思想的な要因ではないかと思います。清貧なんて言葉がありましたけど最近はほとんど聞かなくなりました。金を持っている人はそうではない人よりも自律していて理性的であり貧困は怠惰の証だというステレオタイプな見方で世界を切り分けるのを「現実」という言葉で正論扱いしてきました。

実際にはそんなことはないでしょう。日本のストック、フローの格差は親が金を持っているかそうでないかにほとんど集約されます。親が金を持っていれば教育水準が高くフローが高くなると同時にストックも担保されている。さらにいったん開いた格差は新卒一括採用や年功序列などで固定されてきました。

 

ゆえに格差が少子化を生むは正確ではなく経済力が社会的な概念として人を規定する材料としてあまりにも広く流通してしまったので格差が少子化を促進する理由になっていると考えることができます。金を持っていない人は劣等感に苛まれ自尊心を形成するのも困難になるほどの「経世観の肥大」が男性を恋愛から退却させ、同時に女性もマジョリティーである貧困層と結婚しなくなった。

それが少子化と経済がリンクして議論されている原因だと言えます。その点から経済がよくなれば子供も増えると考えられている。しかし経済は相対的なものなので経済と自尊心をリンクさせているかぎり経済の絶対量が増えても尊厳の相対的貧困はなくならない。だからこのリンクをたちきるしか方法はないという結論に達します。

恋愛と経済を切り離して本来的な意味での結婚、あるいは単によけいなことを考えずに性欲にまかせて恋愛ができるようになればいい。よけいなことを考えずにセックスするために経済的な理性は邪魔でしかない。というかそれは打算であり理性ではないのではないか・・・

本来、経済と恋愛は「それほど」リンクしていなかったはずなんですよね。中国も昔から格差が今の日本の比ではないほどありますけど人口が増加しすぎて一人っ子政策を施行するほどになりました。つまり格差が問題なのではなく経済で人を選ぶほどに恋愛と経済をリンクして考える意識が問題だと言えます。

それはもちろん当然のことですが現実に金を持っている人と結婚したいと考えるのが合理性であると同時に「金なんて持ってなくても愛してる」も美しい理性だということを思い出してもいいんじゃないかと。

 

そう考えるとなぜここまで日本は金満主義な考えになったのかと考えるべきだと言えます。全世界の個人預金残高3000兆のうち日本だけで1400兆です。GDP比率でみても明らかに異常な国です。ここまで金を大事にしまいこんで「金を持っていることに安心する国」はない。裏返せばここまで「金を持っていないことを卑下する国」もないと言えます。卑下し、劣等感にさいなまれ、ゆえに結婚しないのであればそこには日本特有の何かがあると考えるべきでしょう。それが番組冒頭で落合さんが言っていた空気だと言えるでしょう。

 

 

 山本七平が日本は「空気の国」ということを書いています。空気を読むことが最大の社会性だと一般的にも言われることが多い。空気、人の目、世間体、社会規範が大衆心理を支配しているとは言い換えれば形式に支配されているとも言えます。

本来自由であるはずの人のありかたが形式に侵食され恋愛も形式にかたどられていった。だから恋愛に関して「釣り合わない」という思考が働く。釣り合わないとは言い換えれば適正ではないと言っているのと同じです。他人にたいして誰と誰が適正かそうでないかを考える線引きはひいては自らが「どのくらいの男性、女性と恋愛可能か」という自縛と直結しています。

その適正を判断する視座はどこからくるのかと言えば形式だと言えます。

 

空気の問題は朝生の番組冒頭で落合陽一さんも言及していましたがすべての問題は空気に人が規定されると地続きのように見えます。経済的空気に規定される恋愛市場、民主主義におけるポピュリズム、企業活動における保守的空気によるイノベーション不足、いじめ、差別等。どうこの空気を打破して本来的な恋愛、セックスに立ち返るかが少子化の思想的な問題と設定できます。

空気の打破というと抽象的すぎますがもともとは空気は外部に存在する「べき」ものでした。

民主主義においてもルソーは個々人が私的欲望にもとづき投票行動をすることが民主主義が成立する条件だと書いています。恋愛や結婚も元来そうでしょう。議論をし、空気をつくり、ある材料を規定し、評価し、適正かどうかを判断する「理性」そのものはいらないんですよね。

そう考えると今の時代がいかにセキュリティー的になっているかが見えてきます。ジャン・ボードリヤールが情報社会では人々は事前のセキュリティーに侵食されていくと書いています。情報がオープンになり、事が起きる前(結婚する前)に統計的にどうなるかを判断できるようになるとセキュリティーで人は動いていく。

恋愛も結婚も情報によるセキュリティーゆえに経済とリンクさせて考えるようになった。金のある人と結婚するのはセキュリティーでありその思考を形成しリンクするのは「情報」である。

だから情報を無視して生きている地方のマイルドヤンキーは経済水準で子供の将来が決まりかねないという統計を無視し、結婚し、子供をつくったりしています。成長した若者が都市部にでてくるので若者の絶対数が少なく地方でも少子化が進んでいますが都市部の(将来的に予想されている)少子化と地方の過疎化は要因としては別なものになるでしょう。

 

そういう無責任な出産が理性的ではないと一部批判もされますが本来、無責任ではない出産はない。赤ちゃんの立場から見れば誰かと誰かがセックスした結果としてこの世界にゴロンと放り出されるだけである。そしてそれでいいと僕は思います。本来、人の生にセキュリティーはあってないようなものなのですから。

 

長くなったのでまとめますと

セックスから退却している人が多くその原因は経済とリンクしている。リンクさせているのは情報によるセキュリティー。そのリンクは経済的格差と自尊心を連動させる。空気による恋愛市場の釣り合い、適正化が起きる。金がない≒自尊心がないと考える人は釣り合わないという空気により恋愛しなくなる。セックスしなくなり子供を産まなくなる。しかし空気も理性も捨てていいものである。