メロンダウト

メロンについて考えるよ

ゲーム・オブ・スローンズが・・・終わってしまった・・・

何を楽しみに生きていけばいいんだ・・・ゲーム・オブ・スローンズが終わってしまった。最終回はゲースロらしくない終わり方だった。残念に思った人も多いんじゃないかな。あまり事細かに書くとネタバレになってしまうので書かないけれど

シーズン8はどちらかというとファンの期待に沿うようにまとめられてしまったという印象が強い。Redditなどの海外コミュニティを見てみても酷評する書き込みが多々あった。今までずっとファンの期待を裏切り続けてきたゲースロらしくはなかった。期待通りだから期待外れだった。

それでもここまで壮大で素晴らしいドラマを作り続け見させてくれたのは本当にありがとうと言いたい。

 

最終回でひとつネタバレしてしまうとティリオン・ラニスターの言葉が印象的だった。

「人を繋ぐのは金か?軍隊か?旗か?違う。物語だ。」

というセリフがとても心に響いた。ゲーム・オブ・スローンズの世界でいう旗とは主に王様や女王の血筋が持つ権威という意味だと思うが金も権威も軍隊による暴力も人を繋がない。物語が最も強い力を持つ。

実際ゲーム・オブ・スローンズを見てファン同士で次はこうなるんじゃないか、こういう伏線があるからこうだとネットでも議論されてきた。

ゲーム・オブ・スローンズという物語が人々をつないだ。それは多くの関係においても言えることだ。友人も、家族もすべての関係は物語によって繋がれている。

あのセリフだけでやっぱりゲーム・オブ・スローンズだな、ティリオンだなと思ってシーズン8の出来云々はどこかへいってしまった。

 

 

ところでゲーム・オブ・スローンズのいったいどこがこれほどまでに面白かったのだろうか。いや、日本で見てる人はあまりいないのだが世界では流行っている。Youtubeのシーンをまとめた動画の再生数なども1000万をゆうに超える。エミー賞という海外ドラマの賞も総なめにしていて間違いなく世界中で最も流行ったドラマと言っていいだろう。

 

見ていない人にネタバレしないように説明するのは難しいがゲーム・オブ・スローンズがなぜ面白いのか紹介したい。

ひとつ言えるのはポリコレなどは完全に無視している。差別あり、エロあり、撲殺あり、スプラッターシーンあり、奴隷あり、虐殺ありととにかくなんでもある。子供には見せないほうがいい。

人間がごろんと生まれ落ちてそのままその感情を純粋に発揮したらどうなるのか残酷なまでに見せつけてくる。善人は策略にはめられ殺され悪人も善人の復讐によって殺される。と思ったら悪人がいつのまにか善人に見えたり誰が善人なのか悪人なのかわけがわからなくなってくる。善悪の逆転はガンダムからあるものなのでそれ自体が特別珍しいということではないがとにもかくにも全員が「人間」だということしか言えない。その人間模様が主題となっているからポリコレなど人間を薄めて表現することは一切していない。小人は差別され女は犯され男は殺される。

エロや虐殺シーンが苦手で見ないという人もいるけれどもったいないよ。エロや虐殺シーンは人間を描くのに必要だから入れているとしばらく見ていればわかる。

 

 

 さらに他の海外ドラマと違う点はシーズンがすすむとだれて冗長になってくるということがない。僕はけっこう海外ドラマ好きで主要なものはほとんど見ているのだけどLOSTやプリズンブレイクなどの大人気ドラマでもどうしても話が間延びしてしまうことが往々にしてある。ゲームオブスローンズにそれはない。ゲームオブスローンズは小説が原作でストーリーが事前に練られているものなので突然話がどっか飛ぶみたいなことがない。プリズンブレイクのように女優さんが現実で妊娠したからドラマ内では死んだことにしておいて後で実は生きてましたみたいなおざなりな展開もない。

ゲームオブスローンズは壮大な脚本を忠実にドラマ化している。だからかはわからないが原作の脚本がきれたシーズン8は一部で酷評されている。実際、いままでの物語の構成とは違うものになっている。そこが唯一残念ではあるけれどそれでもなお最高に面白いドラマと言っていいだろう。

 

 

知らない人になんといっていいのか迷うけれど洋画だとロードオブザリングを長編ドラマ化したもの、漫画だとキングダムからきれいごとを排除した感じが一番近いかもしれない。

ドラゴンも魔法もゾンビもあるのでファンタジーと言えばそうだがファンタジーが作品の現実感を壊さないようになっている。主題は七つの王国からひとりの王様を競うものである。王国や血筋は人間が全力で欲望した場合にどうなるかの舞台設定としてとても優秀だ。

僕達は社会からの要請として自らの感情や欲望を他律的に自制している。それがない場合、内面化された善性というのを発揮できる人間はとても少ないのだろう。ドラマ内でも先天的な善性をそのまま持ち続ける人は少ない。

人間の残酷さ、それでも持ちうる善性、脚色されていない世界ゆえの純粋な人間観。

それが今、時に権威的になり、時に個人主義的になり、時にどうでもいい見栄をはる僕達にとってうらやましく見えたりしたのかもしれない。その悪行さえも。

 

またゲースロに関してはなにか書きます。

自動車社会について

最近、たてつづけに起きている自動車事故に波及するような形で自動車そのものにたいする嫌疑の声があがっている。

自動車がめちゃくちゃ危険な乗り物であることは事実である。正確に言えば認知機能がまばらな不特定多数が運転すると車は危険な乗り物となる。今のような高齢化社会ではますますその危険性が高くなっている。ABSなど自動車側で制御するようにしても人間が操作する以上ヒューマンエラーによる事故はおき続けてしまう。

だから規制するべきだというのは理にかなっている。自分も車は極力乗らないようにしているので賛同したいのだけれど、自動車が走らない社会というのも現状考えにくい。

 

産業革命以降、すべての生産業の土台になってきたのが自動車を主軸とした流通網だからだ。産業革命により蒸気機関が汽車等にも使われるようになったことから交通革命も同時に起きた。蒸気船や鉄道、製鉄業の進歩によって流通が整備されたことから当時のイギリスGDPが伸び始め経済成長が始まった。

なにかを生産して販売するにはインフラが必要不可欠なものである。インフラがなければ経済もない。経済がなければ利便性もない。今、アマゾンやコンビニなどを使い欲しいものがすぐ手に入る状況は産業を発達させインフラを整備して経済成長した結果、獲得した豊かさである。平成のことを失われた30年という言葉で言う人もいるがこれだけの豊かさをまだ持っていることに僕達は感謝すべきである。その豊かさを下支えしているインフラの主軸となったのが自動車の存在である。10トントラックやトレーラーが走らなければ経済は根底から成立しない。

 

そういう利便性を追求して次々に技術を発達させる過度な文明が危険だというのはもうずいぶん前から語られてきたことだ。昨年、自死した西部邁さんが特にそういうことをずっと言っていた。文明は不可逆で人々は既得権益を手放すことはできないから文明そのものにたいして注視しなければならないと。

既得権益というと政治家や官僚、財界人を揶揄する言葉として使うけれど僕達が当たり前のようにコンビニに行くのもある種の権益である。便益を当然のように使う権利があると無自覚にみな信じている。コンビニにいきお金を払えば物が買えるということは自明のことではない。資本主義社会においてすべての人間が手にしている権利である。

 

たしかに車の運転は難しい。しかしヒューマンエラーが危険であるというのであれば車によって僕達が与えられている便益も程度問題として同時に手放さなければいけないだろう。

「自分は自動車に反対で乗らないから過失事故も起こさない。だから自動車がばんばん走っている現状には文句を言う。しかしコンビニやアマゾンを使い事実上外注するのはやめない」というのは筋が通らない。自動車の存在にたいして反対するのであれば文明化した結果獲得した利便性を拒否し閉じられた経済圏で地産地消して生活する以外に他はない。

 

車のUIに関しては確かに改善の余地があると思うが車の安全性能があがっていることは間違いない。飲酒運転の罰則強化、若者の車離れなどによる効果もあるだろうがそれ以前から交通事故の発生件数、死者数ともに減り続けている。

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https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikokoutsu

 

プリウスのUIに関しても確かに直感的にわかりにくい。シフトレバーがどこにはいっているか視認しにくいので改善の余地はあるだろうがそれでも全体として見ればここ80年で今は交通事故による死者数が最も少ない。

犯罪件数に即して言えば悪いニュースばかり見て治安が良くないと印象的に判断するのが間違っているのと同じようなものだ。社会がここまで高齢化したにも関わらず自動車による事故は過去最低を更新している。

 

それでも事故は起きると言ってしまえばそれまでであるが上述したように人々が経済から便益を獲得するには自動車が不可欠な存在である。

ならばメリットとデメリットをはかりにかけ功利主義的に考えるしかないだろう。

自動車は年間3532人を殺してでも社会にたいしてメリットがあるのか?に自動車の社会的な問いは集約される。

経済的には自動車がなくなれば経済が破綻するので考えるまでもなく3532人が亡くなってしまっても存在するほうが合理的な選択である。

仮に民主的に多数決で決めるとしても多くの人は自動車があるほうに投票するだろう。なぜなら死ぬのは他人だから。自分の便益を獲得するためにはわずか500円の商品をアマゾンで買うために他人に30km運転させることもためらわない、というかそんなことそもそも考えない。水道から出る水を飲まずたいして違わないミネラルウォーターを配達させるのになんの呵責も感じない。それが正当な取引であると信じて疑わないだろう。

運転のプロであるタクシー運転手などの二種免許保持者でさえ5万kmに一回は事故に遭う。運転のプロは事故に遭わないかというとそんなことはない。子供が突然飛び出してきたり信号無視した車がつっこんできたり車を運転する以上不確定なリスクは0にはならない。

 

車を運転すると死ぬリスクがある。この社会で死ぬリスクがある行動はもう車ぐらいだ。一方で自ら運転しないと死ぬのは他人だ。自ら運転しようともしなくとも経済の利便性を受け取っているなら死なせているのは全員である。

都内に住んでて電車しか乗らず自動車は必要ないから車を批判するというのはさすがに無自覚すぎる。むしろ都内に住むという行為によって獲得する利便性によるほうが田舎で車を運転するよりも事故のリスクをあげている行為だと言える。

 

自動車は生活を営むためにはきってもきれない。それでも事故は起きる。

経済的にも車を規制するのは無理。自分が運転しないからといっても流通している商品を手にしている以上は全員が当事者である。

車は時に人を殺すことがあってさえ今の社会には必要だという結論はもう出ている。

なら事故を減らすしかない。車体の安全性能強化、飲酒運転の罰則強化、道路の整備等をやっていった結果として自動車による事故は過去最低の数字を出している。いまの状態がベストだとは思わないが事故ひとつなくすのにどれだけの労力がかかるのか考えると、道路を舗装している業者さんや違反車両を取り締まる白バイ、ABSなどを開発している自動車会社には感謝すべきであろう。

 

たしかに完璧ではない人間があんなに大きく速く動くものを運転するというのは冷静に考えれば常軌を逸している。僕も本当にそう思う。

しかしやはり車はこの社会に必要である。

ピエール瀧氏とセキュリティー社会

ジャン・ボードリヤール「悪の知性」に情報化社会が発達すると人々は仮想現実と事前のセキュリティーに侵食されていくといったことが書かれていたことを思い出す。

 

ピエール瀧氏がコカイン所持で逮捕されたことから彼の出演作品が配信停止になったりしているそうだ。日本では薬物所持による逮捕というとかなり評判が悪い。殺人、強姦、飲酒運転の次ぐらいには薬物の評判は悪い。法律に触れているので良いわけがないのだが個人的には薬物を使用して何が悪いのかいまいちよくわからない。薬物を禁じる法律はあるべきだがそれは社会的な役割として機能させるためであり倫理的に薬物が悪ということはできないだろう。自分の身体を傷つけていることを罪だとするなら自殺した人間やリストカットなども悪と認識されるべきであるがそういう言説は聞いたことがない。薬物は昔からならずものや堕落者、暴力団などを象徴する物であったことから概念的に悪という認識が広まっているだけでよく考えるとそれほど目くじらをたてて騒ぎ立てるようなことでもない。もちろん社会的、法律的、幸福的観点から「使ってはいけない」ものなのは間違いないが幸福と倫理はもちろん違う。

 

それはそうと彼の出演作品がのきなみ配信停止になっている事態を見ていて情報化社会によって形成される社会がどのようなものなのかが見えてくる。それは冒頭に書いたように事前のセキュリティーに侵食されていく社会だということが言えるだろう。

 

情報や統計が広まるとどのようなふるまいが企業にとって適切なのかどのような戦略が有効なのかが答えとして見えてくる。一見すると社内のことを何もわかっていない企業コンサルタントが流行りだしたのは社会が情報化したのと同時期だったことも偶然ではないだろう。何が本当に正しい行いかではなく何が戦略的に妥当なふるまいかを社内の人間よりも情報に精通している人間のほうが知っているゆえにコンサルタントという業務は成立する。

今回のことに関しても情報に精通していない普通の考え方を持つ人から見れば作品までお蔵入りさせる必要はないんじゃないかと考えるだろう。しかしそれは戦略的に正しくない。ピエール瀧氏の作品を放送すれば神経質なクレーマーから苦情がくることは統計的に間違いないからだ。

そうして事前の、匿名の情報に逐一セキュリティーをはっていくことになる。なぜなら情報をもとに戦略をたてるとするなら企業にとってそれが正しいからだ。

 

ピエール瀧氏の件だけでなく情報をもとに戦略をたてそれがセキュリティーを構築し普通のふるまいが困難になる事態はすべてのことに言える。

たとえば昨日の増田「セックスって難しすぎない?」もそうだ。

セックスって難しすぎない?

セックスどころか昨今の恋愛一般においてもそうかもしれない。

 

セックス前のセキュリティーが情報化により高くなりすぎて普通にセックスする関係を築くことすら困難になっていることをこの増田はよくあらわしている。

合意の確認を突破しなければ危険すぎて見ず知らずの相手とセックスなんてできない。そりゃそうだ。準強姦で訴えられるかもしれない。そういう情報を僕達は持ってしまった。だからセキュリティーを突破するために恋愛指南の本が必要になったり適切な戦略をたてることが必要になる。そうして恋愛が面倒臭いものとなる。そうして少子化が進む。そうして人類は絶滅する...は極論ですが恋愛は本来もっと自由だったはずではと素朴に思う。

 

また、会社内でセクハラやパワハラを過度に気にしたり電車における痴漢冤罪なども情報化社会ゆえのセキュリティーだと言える。

 

すべての事象を事前のものとして統計的にとらえようとするとその多くには答えが出る。何が優位か、何が有意かといった具合に。しかし「統計的にのみ」出た答えが正しいかどうかはもう一度考えるべきだと思う。

僕達は情報化社会のセキュリティーによってあらゆる場面で適切にふるまうことを要求され、一方で要求する。恋愛も、仕事も、友人関係も、あるいは家庭でさえも。

そうして正しさとセキュリティーに侵食され仮想現実が台頭する。世界を全面的に取り換えることによって問いそのものを消滅させてしまう。

客観的現実性さえもが無用な機能、一種のゴミとなる。ゆえにキズナアイだけが唯一人間である。