メロンダウト

メロンについて考えるよ

参議院選挙考察その1~デフレと合理的消費者~

また選挙が始まる。また自民党が勝つのだろう。数年前までは首相が毎年のように変わってこれだけ国のトップが入れ替わる国はないなんて言われてた。そう言っていた人達は今の状況をどう見ているのだろうか。政治が悪い、自民党が悪い、民主党は最悪だったと繰り返されてきた。いつまでも変わらない政治そのものへの批判にも少々食傷気味だ。昔はよく、政治関連のことにたいしても色々考えて書いてみたりもした。しかしもう自民党が悪いとか個別の政策がどうとかを超えた問題がこの国にはあるような気がして、それ以来、政党批判をしてもしょうがないんじゃないかと思っているのだ。

 

日本で起きている問題のひとつにデフレがある。デフレは問題だとありとあらゆるところで言われている。リフレ派は財政金融政策でマネーサプライを増やせばインフレに転じると言ってきた。インフレになれば経済は成長してみんなの生活が豊かになると。しかし自民党が金融緩和でマネーサプライを増やしても名目賃金だけ上昇し、実質賃金はむしろ下落している。通貨の供給量は上がっているのに国民まで波及しないので景気が悪いんだと皆言っている。

内部留保にまわす企業が悪い。最低賃金をあげない政府が悪い。皆そう言うけれど本当にそうなのだろうか。デフレの問題はもっと根が深いところにあるように見える。経済理論だけでそれが解決できるとは思えない。それを政治家は言わない。

 

経済学の基礎的な知識に合成の誤謬というやつがある。すごく簡単に言えば市場から見ればみんなが楽観的にお金を使うほうがインフレになり景気が良くなるけど、個人から見ればお金は消費に回さずに貯蓄や投資に回したほうが有利になるというやつだ。

合成の誤謬の理論で言えばみんなが貯蓄すればするほど全体は貧しくなっていく。

日本で起きているデフレの最大の問題は個人主義的な消費構造そのものにある。デフレになるのは国民が悪いと言ってしまうと身も蓋もない話であるが、デフレから脱却しないのは政治が悪いと簡単に言える状況ではないことは確かだ。政治家はそれを言わない。デフレなのはおまえら国民が悪いと街頭演説で言う候補者がいたらぜひ投票したいぐらいに僕なんかは思ってるのだけど。

 

みんなお金を使わない、あるいは合理的に考えて利をえることにしかお金を使わなくなった。給料を一週間で使い切ってお金を友人に借りるみたいな人は本当にいなくなった。個人がその所得で獲得できるだけの消費を合理的に選択するしそのうえ貯蓄もする。賢い選択だと思う。合理的な近代人としては正解だし誰からも批判されるべきではない。しかしその結果デフレになって全体が貧しくなっていく。全体が貧しくなると個人はまた合理的に自分の分を確保しようとしてデフレスパイラルになる。

 

みんななんでてきとうにお金を使わなくなったのだろうか。以前の日本人はそんなに合理的な経済人といったイメージはなかったように思う。車を買い、家を買い、家電を買い、ステータス的な消費行動にもむしろ躍起になる人が多かったはずだ。それがいつのまにかコストパフォーマンス重視の消費形態に変わっていった。服はユニクロで十分。ブランド品なんかいらない。パチンコもタバコもやらない。賢い生き方であるけれどそうすればするほどにマクロ経済は縮小する。そのうえコストパフォーマンス的に商品をつくるのは自社工場でプライベートブランドをつくれる大企業のほうが強いので市場も寡占化して格差が増大していく。いま話題になっているセブンイレブンなどがいい例だろう。

 

個人が合理的消費に走る市場では中小企業が大企業に勝つことはできない。

結果大企業の営業利益と内部留保が積みあがっていきそのお金が流通しないので市場ではデフレがずっと続いて格差が広がり、自営業者は激減している。

逆に言えば中小企業や個人が経営するには合理的な消費が行われていない市場でやるしかない。例えばフランス料理だったり、私塾などの教育関係、ガーデニングなどがそれにあたると思う。単純な小売や物流に合理的でない消費をする人はもういない。

 

合理的な消費をする国民であるから市場が寡占化して格差が拡大していきデフレから抜けられない。それが今の日本経済のやばさと言える。市場が成熟した先には遅かれ早かれこういうことになるのは資本主義の帰結でもあるのでこれが日本人の国民性ということはできないが、いずれにしろもう行き詰っていることは間違いない。それは政策とか金融とかでどうにかなるものではないと思うのだ。

政府としては唯一、再分配を強化するしかないのだが自民党は消費税をあげようとしているのでそれには反対する。しかし自民党のせいで格差が拡大した、民主党のせいで株価の回復が遅れたとか言ってももうしょうがない段階までこの国の経済は行き詰っている。とは言っても派遣法とか最低賃金とか非正規とか政治が解決すべき問題はある。しかし賃金も消費も経済のパワーバランスで勾配していくもので実質的な経済の構造そのものが健全化しない限り、格差はなくならないだろう。政治は社会不安がおきるほどの貧困や格差が起きないように弁として機能することはあっても経済の機構そのものに与える影響は一時的だ。

 

結局、資本主義的な流通で株価の恩恵を受けられるのは直接的にその大企業に雇用されている人間だけでその他の人にとってはデフレだろうがインフレだろうが関係ない。金が回らないんだから。

 

楽観的な消費構造を回復し、合理的ではない消費ができる経済状態にすることで市場機能としての分配も回復するはずである。今はとにかく再分配するのは政府で政府が悪いということが言われているが、本来は分配する機能として資本主義があり、通貨があるはずだ。その資本主義が機能不全であることは間違いなく、その源泉は何かと言えば「不安」であるように感じている。

 

不合理な決断をしない合理的な個人、損得を考えて打算的に動く人間は不安だから普遍的に正しい合理を選び行動する。

みな不安だから合理的に消費する。その結果格差が広がりさらに不安になる。数多の個人の実態として経済の数値がでてくる以上、多くの人間がどういう感情で動いているのかを考えるほうがデフレをクリティカルに見通すことができるように思う。

そう考えるとデフレの原因となっている不安を構成する要因は莫大な数になる。

将来への不安、終身雇用が崩壊した現状での収入の不安、未婚者が増えている現状での孤独の不安、精神疾患が一般的になった現状での動けなくなる不安、障害への不安、事故、労働災害地震津波、離婚、病気などなど。

 

人間を過度に臆病にし機能不全に陥らせるのも不安であるのなら市場を機能不全に陥らせるのも不安である。

不安をどうにかしようというとまあどうしようもないわけだけれど、政策的にどうこうできるものでもないとは思う。感覚としてはもっと獏前とした巨大な何かが天空を覆っているみたいなそんな感じである。

 

とまああんまり選挙の考察にはなっていませんが、デフレは政治のせいと一概には言えないかなと素朴に思ってます。以上です。

男性が結婚しないのは経済的理由を内面化しているから

結婚と少子化と賃金と男女差別を縦断して論じているすもも氏の記事に関して

 https://note.mu/sumomodane/n/nda55d2cf494e

すもも氏の記事だけではなく少子化や結婚に関して書かれている記事を読むと社会学的、経済学的に分析してこうこうこういう状況があるから結婚しないんだと論じられている。マクロな分析は大事だと思う一方で結婚とか恋愛ってそんなマクロで語ることができる話なのかなあといった違和感を抱く。

統計的な分析は結果から原因を推測して対策をたてようという手法だ。結婚や少子化に関して言えば既婚者と独身の属性を比較すると子供を産まないのはお金がないから、結婚しないのは年収が低いから、学歴が低いからだといった原因が見つかる。

だからそこにリソースを投入しようといった議論が繰り返される。みんな生活に余裕ができて子供を将来的に安心して育てられるような社会になれば結婚するんだと思っている。もちろんそれも結婚を決断するのに必要な要因である。しかし本当にみんな経済的な理由だけで結婚しなくなったのだろうか。身体的な違和感を覚える。「お金がないから結婚しない」は言説としてなにか足りないと思うのだ。

 

経済的な理由だけで言えば子供を持つのは別として2人で生活したほうが(年収が低ければ低いほど)楽になるはずである。法的な扶助が受けられることもある。低学歴低年収の人ほど結婚したほうがいい。なのになぜか上流層はお金があるから結婚できるんだとみんな考えている。しかし結婚する動機付けとしては「お金がない」ほうがインセンティブとして働くはずである。お金が必要になる場面とは子育てに関してのみであり、本来的な意味では恋愛や結婚を阻むものではないはずだ。

今の恋愛市場におけるお金はステータスとして機能していてそのステータスを持った相手をパートナーに選ぶ人が多い。しかしそれは誰がいい男か女か「相手を選択」するものであって自分自身が恋愛を始めない理由にはならないはずである。パートナーを探す動機付けとしてはお金はなければないほどむしろいいはずである。

などと書いているけれどそう思うことができるのはかっこつきで(動物的)なものである。僕達は人間なのでそういう収入の多寡に関する相手からの社会的な評価を内面化するようにできている。

 

今、少子化において問題となっているのはその内面化に他ならないように思う。容姿がいい女性(現代では顔が整っていてやせ型)を選ぶことも歴史的に見れば他者からの評価に依存して男性は選択してきた。お金に関してもそうなのだろう。お金があるかないかで自分自身の評価を無意識に査定してしまってその劣等感ゆえにパートナーを探さないという「人間」がいるのだと思う。僕個人にもそういう感覚を持った経験はある。

 

そういう他者からの評価を自分自身で内面化する傾向というのは日本人は特に強いのではないかと感じている。日本ではよく「相手にたいして失礼」ということが言われる。しかしこの文章には続きがあり相手にたいして失礼だから「自己を整えよ」という文章が暗黙的に付記されている。これを結婚にあてはめる。

結婚においてお金がないのは相手にたいして失礼だからお金を稼いで「から相手を探せ」とさらに付記される。そういう内面化地獄が特に男性において強烈にあるのではないだろうか。

さらに、収入は可変的であって自分の努力によって変動する。もっと稼ぐことが可能であるので自分の努力の不足は相手に失礼であるという論理に正当性があるように思えてしまう。外部が可変的であるほどに自己の内面化は絶対になっていく。

いっぽうで女性は男性から容姿によって評価されることが多いが、女性の容姿はそこまで変動可能ではない。女性の容姿が整っていないのは(努力不可能な領域であるゆえ)相手にたいして失礼ではない。相手から選択されないことはあっても失礼にはあたらない。僕は男性なので想像するしかできないけれど、それもまた別の意味でつらいものではあると思う。

お金がないから結婚しないのではなく「お金がないのは相手にたいして失礼だから失礼がないようにまだ独身でいよう」という礼儀正しさゆえである。

 

整理する(めずらしく笑)

統計的に分析すると年収が低い男性は結婚していないという結果が出る

  ↓

年収が低い男性はお金がないから結婚しないので収入を増やせばいい

  ↓

みんな政策としては最低賃金増加や福祉政策などで対策をしようと言うが違和感がある

  ↓

お金がないのは相手が選択する場合の条件であって自分がパートナーを探さない理由ではない

  ↓

問題はお金がないことに劣等感を抱き内面化することにある

 

経済的理由が精神的な理由に変換される日本の「礼の精神」が一因として考えられる。

 

 

まだ続きますというより蛇足です。書きたかったことは以上です。

少子化の原因としてはもっとベタベタな理由として男性の性欲の問題がある。性欲というと低俗すぎて結婚という神聖な話題に繋げて誰も話さない。しかし男性を恋愛に駆動する理由として一義的に考えられるのが性欲に他ならない。

しかし近代化、特にアダルトビデオの出現によって男性が性欲に駆動されて女性を探すというイニシアティブが少なくなった。実際、セックスするよりもAVを見てオナニーしていたほうがいいという男性はたくさんいる。性欲に限って言えば現実の様々なハードルを越えて女性と会うよりもビデオを見たほうが手っ取り速い。文句なしに。

だから男性は女性を探さなくなった。というと身も蓋もない話であるが、多くの恋愛関係において恋愛が始まるには男性が能動的である必要がある。男性が恋愛にたいして能動的であるとは低俗な言い方をすれば「さかっている」状態のことだ。女性とセックスしたいと思うから女性と付き合う。こう書くとおまえは恋愛を知らないとかなんとか言われるかもしれないけれど恋愛を知らない状態の人間が恋愛を始めることができる理由を探すのが少子化の議論ではなかったのかと思う。誤解をまねきかねないのでちゃんと書いておくと僕個人は恋愛感情は当然持ちます。

社会的には忌避されるこうした言説だけれど現実に流通している恋愛の多くが男性の能動的な性欲によって成り立っている部分が大きい。男性ももちろん恋愛をする、しかしそれ以上にセックスしたいのが男性の本能的な部分である。

それが失われている。現実の恋愛市場で流通している性欲の絶対量がアダルトビデオなどによって失われている。性犯罪の減少という点で見れば功績であるが、少子化という課題という点で見れば問題である。

 

個人的な意見だけれど、アダルトビデオは極端に規制したほうがいいと思っている。この国で何がいま一番せっぱつまった問題かというと少子化に他ならないからだ。万難を排してでも少子化は解決する必要がある。

アダルトビデオが少子化の原因になっているのか昔調べたことがあるけど

最初のアダルトビデオが発売したのが1981年で「ビ二本の女」ってタイトルの作品

少子化がはじまったのが第二次ベビーブーム後の1970年代後半あたりから

オイルショックとかバブル崩壊とか他にも考えられる理由はあるので因果関係があるかは不明であるが時期としては符合する。

セックスして子供ができる以上、アダルトビデオのように性欲処理を外部に委託することと少子化が無関係であるわけがないだろう。

 

まだもっと現実の環境において物語がないとかお金以外の価値は評価基準として機能していないなどのことを思いましたが後日にします。

おやすみなさい。オナニーして寝ます。

個人主義と恋愛とリベラルと

シロクマさんの記事に関して

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190624/1561360692

近代化ゆえの自由、自由ゆえの個人主義個人主義ゆえ僕達は恋愛しなくなったと書かれている。これが自然を超克した文明の帰結であって望まれてきた世界であるといった結論でしめられているけれど皮肉めいている。数年、シロクマさんのブログを読んでいるが彼は精神科医という立場でありながら今の社会における人間の自然状態において違和感を持っている人だと個人的には認識している。間違ってたら申し訳ないけれど。ブログ記事を読むにシロクマさんは心療的というよりはたぶんに社会学的な側面も有している人物だと思う。

恋愛しないでいられる世界は個人主義がいきわたった世界で、ある意味では理想郷だといった文章を読んで思い出したのだけれど

リチャード・ローティは「リベラルユートピア」という言葉を使っている。

 

他者が被る残酷さ(LGBT差別、黒人差別、女性差別、部落、在日等々)にたいして同情しうる僕達の「感性」を拡張することによって真のリベラル的連帯は達成できると書いている。

シロクマさんが書かれていた恋愛しなくなった個人主義社会はローティのいうリベラルユートピアとはすこしズレがある。ローティは他人が被る残酷さ、悲劇を共に解決しようと試みる感性が真にリベラル的な感性だと説いている。しかし恋愛しないで個人で生きている他者に干渉しない無干渉主義をリベラル、あるいは近代化と呼んでいいのだろうか。それがこの記事の主旨である。

今、巷で言われている個人主義は単に「切断主義」とでも呼んでいいものではないだろうか。リベラルとは本来、他者を切り離して語ることを至上とする思想ではないはずだ。自らの経験による理解では及ばない他者を想像することで自他を拡張して仲間として解釈する思想であったはずだ。自由とは個人主義でもなくましてや無干渉ではない。他者が自由であることを自己にひきつけて想像する思想であったはずだ。他者が自由であることを認めることから自己も自由でいられるといった相互作用がもととなる思想であったはず。ローティはその意味で自由を論ずる時に(保守陣営が金言とするような)「感性」という言葉を用いている。他者が被る残酷さを想像しえない限りリベラルではない。個人は個人、だから自己責任というのはリベラルとは程遠い。

 

ところでみな恋愛をしなくなった。それは自分のまわりでもそう思う。僕が学生だった時はまだみな恋愛に躍起になっていたと思う。恋愛していない人も恋愛したいということを暗に言っていたし恋愛そのものから距離を置くような人は少なかった。僕自身もそうだった。学生の時にはなんだかよくわからないうちに恋愛に「巻き込まれていた」と思う。詳しくは書かないけれど。大学という共同性がある環境が個人を巻き込んでいたのだと思い返せる。僕も友人に女性を紹介したりしたこともある。そういう相互扶助的な恋愛が学内では存在していた。当時はそれが自然であり当たり前のことだと思っていた。人間はみな恋愛をしたいと勘違いしていた。勘違いではなくそれが共同体における真実だったのだろう。そういう「重力」があった。重力といってもプレッシャーとはまた違ったように思う。不文律とか自然状態とか共同幻想とかコモンセンスとかそういう言葉のほうが近い。強制はしないけれど従うことに嫌気がない因習とでもいうのか、そういうのが自然にあった。

社会人になるとそういった共同性は限定されている。共同性がないと幻想もない。幻想がないと人は恋愛をしなくなる。

僕自身、経験的にそう思う。大学時代のように共同幻想的に恋愛していたほうが自然状態に近かったような感覚がある。他律的であるゆえにむしろ自然という矛盾に違和感がなかった。思い返せば大学の時にも誰かを好きになったりすることは状況に即した勘違いであったとすら思う。恋愛は自発的ではなく幻想的であるほうが自然であるし個人が自発的に恋愛しようという動機は性欲以外にないとすら思う。それでも誰かを幻想的に好きになったりすることは尊い。それでもそれはともに過ごした時間の経過に応じて自己と相手を切り離せなくなった「恋慕」でしかないのではないか。恋愛が自発的であるというのは僕は嘘だと思う。恋愛は個人による内発性によっては開始しない。共同的な幻想の「上」にたつものだと確信している。

 

しかし社会人になると大学の時のように誰かを巻き込んでその人を変化させるようなことはすべて「余計なお世話」扱いされる。端的に言えば近代化したこの世界におけるルールは「法律に触れない限りにおいて個人は共同体よりも優先される」である。

となれば共同体は成り立ちえない。個人が恋愛をしないという選択をする限りにおいて共同体が当該個人を恋愛に駆り立てることはこの社会のルールにもとるからである。であれば共同性の上に成り立つ恋愛が始まるわけがない。

はじまるとすればそれは性欲を解消しあえる関係が奇跡的に開始した二人がそれを恋愛だと勘違いしうる時間を経たのちに「結果的に」お互いがそれを恋愛だと幻想することによってのみである。

元来、幻想である恋愛が開始するには事前の段階において幻想を共同的に構築する必要がある。しかしこの社会において共同的な幻想はそれ自体が悪とみなされる。結論として恋愛は事後的にしか成立しなくなった。

性欲にまかせて肉体関係を結び時間経過とともにそれを恋愛と呼ぶこと、経済的理由により結婚する社会人男女が時間経過とともにそれを恋愛と呼ぶこと。

今は独身か既婚者かという社会からの要請も機能しているがそれも将来なくなっていくだろう。将来的には上述した2つでしか恋愛ははじまらなくなる。

 

共同体が消えることで幻想も消える。「個人」は恋愛などしないのである。

性欲は即物的にAVでも見て解消するほうがはるかに合理的である。経済合理性で言えば子供を産むなど愚の骨頂である。幻想が機能しなくなり他者に干渉できなくなった社会において、誰が原理的に幻想でしかなく他者にたいする最大の干渉である恋愛をするのだろうか。しかしその個人主義はリベラルな社会ではない。

リベラルユートピアとはそういう意味では本来なかったはずだ。

個人主義はけっしてユートピアではない。リベラルは元来、他者への想像力を喚起することでしかない。個人主義を提唱してもいない。それはリベラルを恣意的に使用するリベラル使用主義者の戯言でしかない。人間は原理的に共同的ないきものであって個人ではありえない。個人は個人でいい、しかし他者を想像するのと同様に共同的な幻想も同時に「想定」するべきである。