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メロンダウト

メロンについて考えるよ

コモンセンスとは何か?空気を読む日本人の正体

読んだよ。

piano-tree.hatenablog.com

 

 

日本人は海外に比べて空気を読む人種なのは間違いないだろう。

 

言語体系の違い、儒教キリスト教圏の違い、戦後の敗北主義、わびさび、沈黙の美学などなど原因はさまざまなのだが空気を読むということ自体は意見をぶつけあうことよりも高次のコミュニケーションとして成り立つことがあると僕は感じているし、信じている。

 

 

日本人の繊細さというものの根本は日本語にある。言語と思考と行動は密接にリンクしていて空気を読むという何もしない行動も何かしらの言語によって選択されている。

 

 

主語の曖昧さ

日本語と英語の違いとして文章の構成において決定的な違いが主語だ。

英語では主語の位置がほぼ文頭に固定されていて何を言うにしてもまず「I」から始まるので意見や行動にたいして嫌がおうにも主体性がついてくる。

いっぽうで日本語は主語が必要ない文章がほとんどだ。

 

例えば英語でI gonna work tomorrow.は日本語では「明日は仕事」と主語がない文章でも意味が成立する。

英語でも単語単体でworkと言っても通じるが文章としては英語の場合には主語の抜けた文章は成立しない。天気でさえ主語を it と書く。

 

つまり言語体系として日本語と英語では主語に決定的な違いがあり日本語の主語のなさがそのまま行動の主体性のなさになってくる。

仮に母国語が英語だとしたら空気を読む日本人はここまで多くはなかったでしょう。

 

 敬語の存在

英語にも敬語がないわけではないがそれは日本語ほどの厳密さではない。せいぜいplease shut the doorをwould you shut the doorのように過去形にしたり丁寧で長い言い回しにする程度だ。

 

What's up,men?のように「最近どう?」という言葉も日本では上司にたいして最近どう?なんて絶対に言えないが英語では失礼とまではいかないまでも少々くだけた人間だなぐらいの印象を持つ言葉になる。

 

これは儒教キリスト教の違いにも通じていると思う。

 

儒教キリスト教

儒教には5つの教義の中に「礼」という概念があり「礼」とはつまり伝統的価値観や宗教儀礼でのタブーなどを表していて無宗教の人が多い日本でも「礼」の概念は「失礼」という言葉によって浸透している。

日本社会ではどんな場面でも必ず失礼かどうかという価値判断がはいってくる。失礼という言葉にはどうしようもない重さを感じてしまうのが日本人だ。

 

宗教儀礼でのタブーは守らなければいけないや伝統的価値観を守るべきだという日本社会の上下関係の厳密さというのは儒教に由来しているところが多いがキリスト教は違う。

 

キリスト教には隣人愛(アガペー)という概念がある。

神は、善なる者にも、悪なる者にも、変わることなく、太陽の光の恵みを与えてくださる」というように、人間をその行為や社会的地位や身分性別などによって区別せず、恵みを与えてくれる存在として宣明されている

引用元:アガペー - Wikipedia

 

神は礼を逸しても悪に染まっても変わることなく愛してくれるという前提がある。告解質や懺悔室で罪を告白しても神様は愛してくれるという担保があるから告白できるのだ。

礼を逸することができない儒教と決定的に違うのがこの部分でありこの違いが海外と日本の空気を読む読まないの行動に直結しているのだと思う。

 

 

つまり議論において変な意見を言ってしまうことは儒教では礼を逸することになってしまう恐れがあるがキリスト教ではどんなに拙劣で幼稚な意見を言っても神は笑わないという保証があるから空気を読まない発言も可能になる。

 

言語の構造の違いと同様に宗教(思考)の構造の違いもまた空気を読む日本人を作っているのだろう。

 

まとめ

結局、日本人は立場におけるコミュニケーションに慣れ過ぎているのだと思う。初対面の人間にたいしてもまず相手の年齢や職業を知ろうとする人が多いしそれにより自分がどういう振る舞いをすればいいのかと決定する部分がすくなからずある。

相手がどういう人なのかをまず知った上でコミュニケーションを取ろうとする。いきなり政治やスポーツの話をしはじめるのは二度と会わない関係の居酒屋の酔っ払いぐらいだろう。

このブログも個人的なことはいっさい書いていないが仮に僕が社長だと告白すれば劇的に人の見方は変わるだろう、ニートだと言っても変わるだろう。

匿名性が高い日本のインターネットのコミュニケーションが日本人には歪に見えるのも相手の立場がよくわかっていないからということにも一因があるかもしれない。

 

 

相手が誰であろうと対等なコミュニケーションを取ろうと試みる、これはほとんど不可能に近いのだが唯一と言ってもいい真善で人生の命題でもあると思っている。

 

 

神は誰であれ平等に愛するという隣人愛は他者への侮蔑でもなく、尊敬でもない。

 

尊敬した瞬間に僕は相手にたいして相手に尊敬される相手を求めるようになってしまう。相手に偶像を求めてしまいプレッシャーをかけてしまうのだ。

それは尊敬というよりも信頼という期待であり信頼が崩れた瞬間に期待が失望に変わり同時に尊敬も侮蔑に変わってしまう。尊敬はひどく脆い愛だ。

ただ同時に立場によってかわすコミュニケーションというのは楽でもあり沈黙が許されるということにおいては会話によってしか成り立たないような言語的コミュニケーションよりも高次に発達したものとも捉えることができる。

 

 

 

つまり日本人は批判されることが怖いのではなく立場というものの重要性を儒教や戦後の敗北主義によって植えつけられている。

意見と権威を混同していて権威という立場を脅かされることが怖いのだと思う。

だから相手の立場を脅かさない(批判しないように)のと同時に相手からも自分の立場を脅かされないように振舞うのだろう。

 

We are just afraid.