メロンダウト

メロンについて考えるよ

中途半端ないじめを受けていた経験は永久に消化しきれない

テレビなどを見ているとたまにいじめの体験談を笑って話す人がいる。

それ自体は当人の問題なのでいじめを自分のなかで笑って清算できるようになって良かったね、とそう思える。

 

しかしクラスから総スカンされていたり、体育館裏に呼び出され殴られたり、カツあげにあったりするほどに陰湿ないじめというのは「絶対悪」であって成長すれば憎しみや軽蔑で片付けることができるようになるケースがむしろ多いと思う。ああ、そんなこともあったなと。

もちろんそんな単純な話ではないし個々のケースに当てはめれば心に重傷を負っている方ももちろんいるのでいじめの話しはかなりセンシティブな話だということも承知している。

けれど単純でほとんど救いようのないほどのひどいいじめは「悪人による蛮行」というレッテルを自らの中で確立することができるという点で消化のしやすいものがある。正当な二元論で片付けることができる。と中途半端ないじめを受けていたことがある僕には(大変語弊のある言い方だが)時に羨ましく思えたりする。

 

 

僕は中学生の時には背も小さくいわゆるいじられキャラだった。今では170後半ある身長も当時はクラスの背の順で前から2番目で特別明るかったわけでもなければ秀でた特技もなくただすこし目立たないぐらいには成績が良かっただけだった。いわゆる何者でもない子供だった。

何者でもないといえば子供なんかまだ全員何者でもなかったわけだが僕は本当に何者でもなかった、not at allというやつだ。

 

けれど学生時代はクラスというコミュニティーが社会のすべてなのでなんとかしてそこに適応しなければいけない。よくある話だ。本当によくある話なのだ。

僕はいじられることでクラスに順応していった。今思えばいつもニコニコ笑ってヘラヘラやり過ごしていたことでだんだん緩やかに僕は死んでいたんだなということが「今となっては」よくわかるのだ。

 

ただいじられるといじめられるというのは未成年が行うとその一線を時に越えてくる時がある。子供は調子に乗れば必ず増長する。いとも簡単に。

 

ある日、クラスで体育の授業のときにマラソン大会の練習でランニングしていた。授業も終わりかけみんな走り終えるとある一人がタンが溜まったのか唾を吐いていた。

どうしてだかは理由は忘れたけれどその行為を見たクラスの数人が真似して唾を吐き始めたのだ。

 

僕に向かって。

 

タンがついた体操着を涙を堪えながらヘラヘラ笑って着替えたことは今でも覚えている。僕に唾を吐いた彼らは罪悪感を感じる様子もなくいつもの調子でいつもどおりだった。

そのときはじめて僕はいじめられたのだということに気づいた。同時にいじられるのといじめられるのにそんなにたいした違いがあるわけでもないことに気づいた。

ただ単純に軽んじられていただけなんだと。似たように経験はほかにもあった。

 

 

ただ僕に唾を吐いた人は僕の友人でもあった。一緒に家でゲームをしたり漫画を貸し借りしたり卒業旅行に一緒にディズニーランドにいったりもした。増長していじめっこに変貌しない限りにおいては彼らは大変気のつかわない旧知の友なのだ。

 

僕は彼らが何者なのか、友人なのか、いじめっこだったのか。僕はいじめられていたのか、いじられていたのか。今でもよくわからないままでいる。

 

今でもそんな昔のことを覚えているので僕はいわゆるいじめによる傷を受けた人間というのは間違いないのだろう。ただ僕はいまだに彼らを断罪できずにいるし街であったら笑って話すだろう。

 

 

だから今でも僕は彼らの行ったことを「気の迷い」という嘘めいた言葉でごまかしながら生きている。

 

もう昔の話でほとんど忘れてしまったが眠れない夜にはたまに思い出すことがあり、さらに眠れなくなる。

いいかげん寝ないと。