メロンダウト

メロンについて考えるよ

「よく生きるとは幸福に生きることではない」ということを知ることが決定的に重要なのだ

先日コメントいただいたid:iireiさんのダイアリーをふわっと眺めていたらこんな記事を発見しました

d.hatena.ne.jp

 

この記事を読んでタイトルにもさせていただいた中島義道さんの言葉を思い出しました。

「よく生きるとは幸福に生きることではない」ということを知ることが決定的に重要なのだ

 

僕は中島義道さんは今となってはあまり好きではないのですけど以前、面白い人だなと思って何冊か著書を読み漁ったことがあります。

「うるさい日本の私」「私の嫌いな10の人」「観念的生活」なんかは刺激としては中々面白いものがありました。

中島さんの本はポジティブな感情は基本的にはめったにわかない懐疑に満ち満ちた文章なのですが(哲学自体がそもそもそういうものなのですが)その中でもめずらしくポジティブな印象を与えてくれた言葉がタイトルの「よく生きるとは幸福に生きることではない」というものでした。

 

 

そこでiireiさんのブログ記事と「無名の人生」と中島さんの言葉を紐付けて考えてみると結論から書いてしまえば

幸福でなければ生きていけなくなってきている

のかなと感じています。これはアランの幸福論にも生きることが義務なのではなく幸福でいることが義務なのだと書かれていますので何も今に始まった話ではないのでしょう。

不幸な人間はすべからく死んでいくというのはもう絶対に覆ることのない原理なのですが、趨勢として幸福であることが生きることの必要条件ではなく絶対条件にまでなってきているのではと感じるようになってきました。

これはおそらく閾値の問題なのでしょうけど原始時代から振り返れば猟に出て猪の一頭でも狩って帰ってこれればそれだけで充分に幸せを感じることができた。

おかしな論法ですがあえて原始時代の価値観で現代を見てみれば、食べるものに困るということは日本に住んでいる限りはまずまずありえなく原始人から見れば一億総幸福な社会に我々は生きているということになります。

けれど一方で当事者たる現代人に「あなたは幸福ですか?」と聞けば即座に首を縦に振る人はまぁあまり多くはない。

 

それは価値観や選択肢が爆発的に多様化してしまったことによって理想的な幸福というものがバケモノか物の怪かなにか、とんでもなく巨大で視界に捉えることができないほどに肥大してしまったからなのでしょう。

 

だから僕達は幸福じゃない、のではなく、幸福に疑問を持つようになった。幸福だと感じることが難しくなった。

幸福だと宣言できる人はバケモノと化してしまった理想的な幸福を慎みうる殊勝な人、もしくは子供のころからそんな幸福のでかさを知らない無知な人、もしくはバケモノと人生を賭して戦って勝ってきた人。

 

だから僕らは成長するにつれ、まず最初に「諦める」ことを覚えます。

幸福というバケモノと戦う勇気を持ったままいわゆる「夢」を叶える人間になるか、そうでなければ日常生活に竿を差してある程度の諦観と共に忽然と生きていくことになります。

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ここで「無名の人生」という言葉を見てみると承認欲求に関しての諦めであると同時にエクスキューズにも見えてきます。

パイプカットした70股爺さんが「評価経済社会」という言葉を使っていましたが今の社会では無名なまま生きていくことが難しくなってきているのでしょう。

 

20世紀までの産業資本主義が幸福の形成や承認という側面では終わりに近づいていて良い製品を造るためにかかるコストにたいしてそこから得ることができるリターン=承認=幸福はどんどん少なくなってきている。

100mを10秒ジャストで走ってももはや世界一という栄誉と賞賛は得られないようにありとあらゆる既存産業において競争という概念に限界が来ています。

だからゆとり教育なんていうものも出てきた。個性を重視するあまり社会的には迷惑な人たちも排出することになりましたが、個人の幸福追求というただ一点のみにおいては間違った教育ではなかったんじゃないかと思えてなりません。

 

 

そんな従来の産業が限界を迎え

変わって台頭してきたのがインターネットやスマートフォンに代表する情報資本主義です。その中で有名になることで承認を集める人が異常に増えてきました。それは感覚的な物言いをしてしまうとかなり「気持ち悪い」のです。

 

気持ち悪いと読んで字のごとくですが、気持ちが悪い、つまり原始時代に猪を狩ってきたことで得た報酬の獲得構造や産業資本主義の競争価値観にそぐわないから僕達は気持ちが悪いと感じるのでしょう。

身体性を伴っていなく何がすごいのか、どういった卓越性があるのか、どの程度の高等な様式を持って人々に承認されているのかがけっこう多くのサイトでまさに謎なのです。

つまり産業と情報の狭間において軸足をどちらに置くのかが判然としていない感覚になることがあります。どういう気持ちでいればいいのかわからなくなる。だから「気持ちが悪い」と感じてしまうのかもしれません。

 

 

しかし将来的には承認をかきあつめることが100mのタイムと競うがごとく、一般的な能力として認知される地獄のような時代ももしかしたらやってくるのかもしれません。

 

だから「無名な人間」というタイトルの本も承認欲求が金欲と同じくらい一般的になった未来には「強がりな人間」というタイトルに変換されて捉えられてしまうのかもしれません。

中島義道さんの言葉はそんな幸福を得ることが難しい今こそ必要なのかもしれない。

 

「よく生きるとは幸福に生きることではない」ということを知ることが決定的に重要なのだ

 

 

(幸福というと多義に渡り過ぎる概念なのですがあえて書きましたよっと)