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メロンダウト

メロンについて考えるよ

ベッキーが教えてくれた愚かさを肯定することの大切さ

金スマベッキー復帰会見を見た。涙ながらに懺悔する姿は過去のベッキー(敬称略)とはかけはなれた姿だった。

不倫に関して考察する時に坂口安吾の恋愛論ほど役に立つ書はないと確信しているのだがその中にこんな一節がある。

 恋愛は人間永遠の問題だ。人間ある限り、その人生の恐らく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う。人間永遠の未来に対して、私が今ここに、恋愛の真相などを語りうるものでもなく、またわれわれが、正しき恋などというものを未来に賭けて断じうるはずもないのである。
 ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、それをもって自らだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ。
 問題は、ただ一つ、みずからの真実とは何か、という基本的なことだけだろう。
 それについても、また、私は確信をもっていいうる言葉をもたない。ただ、常識、いわゆる醇風良俗なるものは真理でもなく正義でもないということで、醇風良俗によって悪徳とせられること必ずしも悪徳ではなく、醇風良俗によって罰せられるよりも、自我みずからによって罰せられることを怖るべきだ、ということだけはいい得るだろう。

 

「自らだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ」という文章がまさに坂口安吾の真骨頂ともいうべき文章であって万人万事の恋愛の相につながる。誇り高きなどと聞けば高潔で清廉潔白、闊達な人物を思い浮かべるが誇りは悲しさにこそ宿るものなんだということを安吾は言う。

ベッキーの不倫に関して言えば番組でベッキーは川谷さんのことを「好きだった」と言っていた。不倫を全否定する人は奥さんがいる男性を好きになる感情も否定するのだろうがそれでも好きだったという感情は肯定すべき人間の愚かさであって同時に真実だ。そして涙ながらに姿勢をただし正座して真実を語るベッキーの姿は悲しさと誇り高さを体現した姿だった。僕には彼女が持ち合わせる容姿以上にその愚かさが美しく見えた。

 

今回の騒動でいろいろなところでベッキーの不倫に関する意見などを見聞きしたが醇風美俗などというものは正義でもなんでもないのは安吾の言うとおりだ。口を出すなということだ。芸能人だからなんだ有名税がどうたらだと言う人がいる。はてにはスポンサーに対する損害賠償などと言う人もいるだろう。しかしそんなものは社会的価値観であって一個人が抱えるカオスな恋愛を侵食するものではない。アイドルは恋愛をするべきではないと主張するような幼稚すぎる価値観である。人は奥さんがいてもアイドルであろうともどうしようもなく人に恋をする。おそらくそれがこの荒涼とした社会においてかろうじて人間に残された数少ない救いなのだ。

それを否定する人間はもはや人間ではない。世間に従属したbotだ。もしくは過剰適応の化け物か。はたまた社会的人間の末路か。

 

 つまり不倫が社会的悪であるというそんな小学生でも知っていることは言わなくても誰でも知っている。社会的どころか奥さんからしてみればベッキーは家庭を崩壊させた最悪の人間である。しかし、それでもどうしようもなくタガが外れて誰かを好きになる人間はどうあれ僕は好きだ。これは不倫が持つ関係性を排除したベッキーという一個人だけを見た意見で、僕自身が仮に彼女や奥さんが寝取られた場合には腹の底から相手を恨むことになる。

しかし同時に、否応もなく立場を超えたところで誰かを好きになることができる人なんだと感心もするだろう。

 

今回のベッキーに関することでもそうだったが恋愛に関してだけでなく愚かさはありとあらゆる場面で誘導され利用され搾取される運命にある。仕事から税金、恋愛、株、金利、はてにはマイルやカードのポイントなどなど

だから多くの人は知恵をつけ利己的になり関係性を金や構造で縛り付けようとする。そんな社会で愚かさを持ち続けることは並大抵のことではない。

遅かれ早かれ誰もが愚かな人間は生きていけないことにきづき最も人間的な活動であるべき恋愛すらもある程度は打算、合理、将来性などで画策して行うようになる。

 

ベッキーも例外ではないだろう。本人も妻帯者と恋愛なんかしてはいけないと言っていたし不倫がばれればこのような事態になる甚大なリスクもわかっていたはずだ。

しかしそれでもなお愛してしまった愚かさは社会的には悪であれきっと「否定をしてはいけない」種類のなにかなんだろうなと・・・たまに思う