メロンダウト

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SEALDsとセックスピストルズの違いは狂気だった

SEALDsが解散したらしい。参院選自民党が過半数を獲得して改憲に向かうのだろう。そこで祭りが終わったSEALDsについて個人的な感想のようなものを書いていくことにする。

 

Sealdsを一番最初に見た時に抱いた感想が「スマートすぎる」だった。イデオロギー的にどうだとか右左関係なくそれ以前の印象として綺麗すぎてまったく政治っぽくなかった。だからここではあえて政治的な話はしない。改憲が是か非か以前のデモや反体制とはなんなのか。

 

 

大人が望む記号として祭り上げられたSEALDs

SEALDsは反体制組織としての渇きがまったく見当たらなかったのだ。若者の鬱屈だとか激情だとか怒りのような危うさがなく大人が望む大人しい記号としてただ「居た」という印象しか受けなかった。

存在自体が時代の流行が作った像だった。自民党にたいして敵となりうるような主張も若者を動員するだけの激情もなにも受け取れなかった。

若者のほうを向いて本当にしいたげられ憤っている人間(低所得者ニートフリーターやブラック勤務、ブルーカラーや非正規、派遣)を巻き込む集団とはなりえなかったのがデモ組織としてのSEALDsの失敗(もしくは成功?)なんだろう。

代表の奥田さんや牛田さんなども大学院生やサークルでhiphopをやっていたりおよそこの国の若者の漆黒の闇のようなものとは実際的にほぼ無関係な人達だった。むしろ彼らは現状としては完全にレールに乗っていて大人が望む理想的な若者像を生きている人間だった。それで反安倍などと歌っていても若者が同調しないのは当然だ。

 

 

 

 

SEALDsとセックスピストルズの違い

歴史を見てみればわかるがほとんどの革命や反権力組織に見られたのが激情であって怒りであってそれをぶちこむ狂気だった。対案などそっちのけでとにかく現状をぶっこわす、論理を超えた感情の爆発が人間を突き動かす。それが良いか悪いかなんて話ではある意味ではどうでもよいものですらあってデモに人を動員するのはそういう政治への怒りなんだろう。

SEALDsも憲法改正には怒っていたのだろうが狂気に達するような怒りには僕には見えなかった。

それはどういうことかというと

 

1970年代にセックスピストルズというパンクバンドがいた。彼らは無政府主義をうたいイギリスの若者から絶大な支持を得ていたが彼らのやったことで一例を出すと

 

ゴッドセイブザクイーンというイギリスの国家と同名の曲をつくりそれをエリザベス女王の王位25周年の式典で勝手に演奏して逮捕された。

 

セックスピストルズにあってSEALDsになかったものがこの法律を無視してでも逮捕される危険を侵せるか侵せないか?の違いであって

僕が見ていたかぎりSEALDsのデモにそれはなかった。もちろん法律は守らなければいけないなんてのは社会生活において当たり前

 

しかし人間、ぶちきれた時には相手の胸倉をつかみ場合によっては法律など無視してぶん殴るのがむしろ普通な行いだと僕は思っている。胸倉をつかんだ時に、ぶん殴ったら法律に触れるかなんて考えるまでもない怒りを持っていれば自然と手が出る。

それがピストルズにあってSEALDsになかったもの。社会的な良い悪いなんて超える激情と狂気がSEALDsにはなかった。スマート過ぎた。

 

 

デモという絶望

白無地のTシャツを着てスタイリッシュな曲にのせ平易な言葉を連呼しても何も変えられない。

 

フジロックで主張するのではなく安倍首相の桜を見る会で拡声器で勝手に「日本死ね」と連呼するような激情を示すことができれば僕もまともに彼らの怒りに耳を傾けたかもしれない。

逮捕され反社会的と烙印を押されまともなキャリアからはずれるようになってもかまわないという覚悟が見えれば、すくなくとも大人が望む記号としてではなく若者のいきどおりとしての組織としては認識されたのではないだろうか。

 

そんなの彼らは望んでいなかった。そしてその程度の怒りだった。

もしくはピストルズとは時代も国も違うのでそんな激情や狂気にまかせた活動は「痛い奴ら」と烙印を押され似非ネトウヨなどと揶揄されて終わることもわかっていたのだろう。

 

SEALDsが教えてくれたことはそんなデモやカウンターカルチャーの現代における難しさだけだった。

 

身を捨ててこそ浮かぶ瀬はもうない

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