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メロンダウト

メロンについて考えるよ

ベーシックインカムが全てを解決する。Basic-income can solve everything

常日頃思っているが現実ではあまり語りえないことがある。インターネットというのはかくも便利なものである。そんなものも書けてしまうのだから。

最初に結論を書いてしまうと全員が労働するという世界観を捨ててしまおうということをこれから書いてみようと思う。

 

 

今、僕はテレビを見ている。佐々木蔵ノ介さんが映画の宣伝で出ている。

吉行和子さんと富士眞奈美さんも一緒に出ている。東京を散歩して白金台で牛鍋を食べている。テレビに出演するのでもちろんギャラをいただいているのだろう。だからこれはおそらく仕事と呼ばれる。しかし子供のころからテレビを見るたびに思っていたんだが彼ら彼女らはどう見ても遊んでいるだけにしか見えない。

書いていたらこんどは橋本マナミさんと石塚さんが出てきた。こんどは冷やし天丼を食べている。うまそう。

 

芸能人が遊んでいるだけというのは批判ではない。労働の種類が馬鹿でかくなりすぎて交換しなくて良い価値までも労働として信じられているのが異常だと言っているだけ。

戦前の産業革命前は労働しなければ餓死する世の中だったので労働しなければいけなかったから全員で労働する必要があった。産業革命後の近代化に追われた時期には不可避の事態で近代化をすすめ列国に並ぶ必要があった。戦後は焼け野原から復興する必要があった。

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 前近代では男が働いて女は家事をする。近代になると男女共に労働する。そうして交換すべき価値を交換すべき場所で交換することで社会はまわっていてその中で労働が現実として美徳であった。しかしいまや労働が美徳であるというのは単なる理念になっていて現実は交換すべきではない価値の労働がやまほど蠢いている。交換しなくてもいい価値の労働と言ってもいい。

具体的な業種をあげると琴線やプライドに触れる方がいると思うが一次産業や社会インフラ以外は基本的にみんな遊んでいるだけなんじゃないかと思えてならない。余暇産業などは文化的価値はあるが前近代的な視点で考えればもはや労働ではない。

 

労働が義務であるというのは人間が生活を維持していくために刷り込むべきであった価値観であって働かなければ死んでしまう世界だったので働いていない人間は罪であるという論理は現実の上に立てていた。

しかし今この国でどれだけの人がいったい本当の意味で働いているのだろうか?一次産業に従事する人の比率は下がり続けているしクールジャパンに代表されるように余暇産業に従事する人の数はやたらと増えている。

農林水産省のデータを見てみればわかるが現状でも人口に対する農家の比率は下がり続けている。

農家に関する統計:農林水産省

産業革命後の機械化、そして農業システムの自動化、交通環境の整備、農薬の改良などにより農家にならなければいけない人たちが減って食料生産に人を投入しなくても良くなった結果だろう。

 

労働という前近代的な概念は21世紀になって吹き飛んできている。先人達が吹き飛ばしてくれたといったほうが良い。政治や経済の世界では失われた20年やデフレなどと呼ばれているがライフラインの面ではこの20年でどんどん人が働かなくても良くなってきている。それ自体は農家の所得が機械開発の人間に奪われたということなので格差が広まって消費に影を落とすので経済的には停滞と捉えられる。けれど機械に生産してもらって人間が遊んで暮らせるようになることは非常に喜ばしいことである。

 

そしてこれからもAIや機械化のさらなる進行によってそれは進むだろう。

 

では今、農業などに従事しなくても良くなって暇になった僕たちが行っている労働もとい経済活動は何かといえば社会が持つ総需要をいかに奪い合うかであってそれは再分配とか再設定とかそういったものでしかない。金も、時間も、そして心さえもだ。

 

だから全員が労働すべきという世界観を捨ててしまおうということだ。ゲームをつくったり小説を書いたりそれ自体はたいへんに文化的な行いであって人間を豊かにしてくれることは間違いない。しかし文化的活動は農業のような生存労働と違い社会に絶対に必要な労働というわけではない。職業差別でもネガティブな話をしているわけでもなくものすごくポジティブな話であって僕たちは文化的活動にその生活の大半を費やしても生きていけるだけ豊かになったのだ。デフレだ不況だ貧困だとこの20年来言われ続けてきたがそれは前述したように文化的活動に従事する比率があがってきているからだろう。もはやみんな現実に労働などしなくなってきている。単純労働は技術的に極端な差がでにくく、文化的活動は才能や能力でつく差が大きいのでその差が格差となって現れてきているにすぎない。

けどそれってみんなどれだけうまく遊んでいるかを競っているのであってそこには文化的尊厳はあっても労働的尊厳はないんじゃないかと思ったりする。正確には文化的活動は生存を保障するものではなく誰かが勝手に何か遊んでいる以上の価値はないから勝手にやっていればいいということだ。もはやそこに労働の義務とか美徳などをつける社会的必要性などまったくもってない。

 

 

 じゃあなぜ農業などのインフラに従事する人の数は減り続けているし実質的にはみんな遊んでいるだけだし生きていくための食料は数%の人間が働けば賄えるのに全員が働いているのかといえば現実問題として働かなければ収入がないからでしかない。そうして文化でも生存でもなくクリエイティブでもない仕事するための仕事を無理やり生み出している。ゴミをゴミと交換するだけの取引があふれかえっていて人間を疲弊させている。あまり僕は僕の話をしないことにしているんだけどすこし話すと学生の時に短期間だけど訪問販売のアルバイトをやっていたことがある。大抵が追い返されて嫌な顔されるなかごく少数の方が買ってくれる。しかしこの無理やり誰かに押しかけてまぁおよそ生活とは全く関係ないものを売るのって心底無意味だなと思ったことが原点にある。欲しくないものを説得して買わせるというのは相手の心と金に踏み入って奪っているのにすぎなくてお客様も正気になればゴミだとわかってしまうだろう。ならもう労働しないほうが倫理的にはよほどマシなんだろうなということだ。しかし僕は僕のお金のために誰かのリソースを奪う必要があって現実的にはそれが倫理的にどうであれ不可避の事態としてあったというだけ。

多くのサラリーマンもそうである。僕は自分は社会に貢献しているなんて自負している人間なんかそうはいない。ひょっとしたら経営者もそうなのかもしれない。

 

だからもう全員が労働するという世界観は捨ててしまってベーシックインカムにしてしまおうということだ。

 

 労働が義務であるとか美徳であるとかいう概念を個人が持ったさいには劣等感と優越感と自尊心などが生まれてくる。

 労働すればある程度の人間的尊厳は担保されるし人よりも働けば優越感が得られるし失職すれば劣等感にさいなまれることになる。労働によってもたらされるものはお金だけではなく心まで奪ったり奪われたりしているのであろう。しかし無職と訪問販売でゴミを売る仕事とどちらが偉いのかと言えばどちらも等しく無意味。

しかしこの国ではゴミを売ってお金を持っている人のほうに尊厳が与えられている。労働という宗教によって。しかしもう一度良く考えてみるとそれは前近代的な労働信仰の名残りでしかない。もう労働しなければ死ぬ、だからみんな働けという時代ではない。

 

 豊かになった。これ以上ないほどに豊かになった。しかし僕たちは価値観にひきずられて働いている。時にまったく無意味な形で。

 

 だから人間が無意味な労働に時間を使わないようにベーシックインカムを導入しよう。そうすれば介護だってできる、恋愛だって増える、利害を無視して社会的に良い形で起業する人も増える。労働によって殺されてきたありとあらゆる人間的活動が勃興するかもしれない。

 

長くなったので続きます