読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

メロンダウト

メロンについて考えるよ

先崎彰容さんとズイショさんに学ぶものさし不在の時代という複雑さに耐える覚悟

このブログでも取り上げたことがある先崎彰容さんとはてなブログのズイショさんの言っていることがすごい似ていると思ったので記事にしてみます。お二人に共通している考えはこの多様化、急進化する社会における思想的リテラシーの持ち方についてなのでしょう。思想なんていうと抽象的すぎるきらいがあるので具体的な言い方を試みるならば軸足の置き方みたいなものでしょうか。

 

ズイショさんはこちらのエントリーで以下のことを書いていました。

zuisho.hatenadiary.jp

私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない。僕はこの言葉を目にした瞬間、泣きたくなった。僕が、こうありたいと思うのは、まさしくそういうことであった。態度で示すしかないと思っていたことが、言葉として自分の目の前に現れることは、なんとこうも頼もしい。私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない。本当にそう思う。ルービックキューブのシールを剥がしたあの時の私は、たしかに複雑さに音を上げたのだ。

 「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならない」この言葉はズイショさんの記事を読むともともとは美智子様の言葉でズイショさんはこの言葉をはてなブックマークのコメントで知ったようです。それを見てズイショさんは態度としてしかわからなかったものを言語化している人がいることに衝撃を受けたと書いています。このズイショさんの文章を見て自分もまったく同じ感情を味わったことがあることを思い出しました。先崎彰容さんのことです。

「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければいけない」という言葉を先崎さんはこちらの著書「違和感の正体 (新潮新書)」のなかで「ものさし不在の時代」「処方箋を焦る社会」という言葉で美智子様、ズイショさんと同じことを書いているのです。

終身雇用が崩壊してしまい個人主義が蔓延して高度経済成長時に国民全員がビジョンとして抱いていた3丁目の夕日はなくなり多様性の名のもとに個人を集団に繋ぎ止めるものもなくなった。個人がバラバラに分断され砂粒化した現代においては全ての物事を自己決定しなければならない。そういった状況では人々は極めて短い時間で極めて即効性の高い処方箋に飛びつきやすくなることを先崎さんは「処方箋を焦る社会」という言葉を使って表現しています。

「何でも信じていい世界の裏返しは何も信じられない世界に直結しています」。そして「何も信じられないことに耐えられないとすれば、そこで何かを、しかも、これしかない何かを盲目的に信じようとする力が働くのです」と姜尚中は言うのです。相対主義の時代には、各人バラバラに正解を導き出す必要がある。一見、自分で何でも決められ、自由にすら思えるこの状況は意外にも私達を苦しめます。なぜなら、目の前の世界を自分の善悪判断で色分けし基準を定めるのは、面倒くさいと同時に、「ほんとうにそれでよいのか」、つねに不安と隣り合わせだからです。

「違和感の正体」p23より引用

世の中のたいていの炎上・失言・暴走した正義ってのは、複雑さに耐えられずに音を上げて本来複雑である問題を単純化して極論を振り回している

謝ったら死ぬ病の人に「間違ってない部分もある」のは当たり前 - ←ズイショ→

ズイショさんの言う複雑さというのは先崎さんの言う不安のことなのでしょうね。不安だから何か処方箋があれば飛びつく、そして複雑だから単純化して解決しようとする。

これは個人的な観測でもかなりいろいろなところに表れているように見えます。

先崎さんは著書のなかでデモ、差別、教育、ノマド反知性主義、平和、沖縄問題などで各章に分けて書かれていますが自分の観測でも例えば職業の多様性を担保にお金という即効性でAV女優になる女性。ネット右翼のように単純なイデオロギーに飛びつく人。与沢翼氏の秒速で一億というキャッチフレーズ。そしてズイショさんも書かれていたように最も直近な例をあげれば長谷川豊氏の透析患者の件は社会保障費の問題についてまさに処方箋を焦るがゆえに出てきたエントリーと言えるでしょう。

どれもこれもズイショさんのエントリー「私たちは複雑さに耐えて生きていかなければいけない」に繋がりますしお二人の指摘通りのことがありとあらゆるところで起こっています。そしてこの複雑さと不安に耐える覚悟を持つこと、その流れに棹さすことがこの時代を生きる上においてはものすごい重要な概念であると改めて思った次第です。

 

 

以上、先崎さんの著書とズイショさんの時代を見る目が似ていたので紹介させていただきましたが、お二人の文章を読んで個人的にすこし具体的な解決方法まで踏み込んで書いてみます。複雑さに耐えきれなかった人が時に単純な行動にはしってしまいその結果失敗してしまうのは個人がコミュニティーから切り離されて個人を抑制する社会的機能が失われてしまったからだと考えられます。そういった意味でいえば私たちは複雑さに耐えて生きる術を自由主義の名のもとに社会からひっぺがして手放してしまったという見方もできます。それは言葉にしてしまえば抑圧とかムラ社会とかいまこの時代ではネガティブな意味合いが強い言葉たちなのだろうがしかし個人の暴走を止めるのはやはり周りの人間であってどれだけ洗練された個人でも個人の能力や知見には限界がある。だから集団でまとまった時にはじめて生まれてくるのがリテラシーだということを再確認する段階まできたのではないでしょうか。

つまり複雑さに耐えるというと単純に個人が耐えるべきのように捉えてしまいそうになりますが耐えるなんていう苦行ではなくできれば正しい集団に帰属する。その集団の中で生きる自己を見つめることが複雑さと不安に耐えうるほとんど唯一の術なのではないかと思うのです。 

 

違和感の正体 (新潮新書)

違和感の正体 (新潮新書)