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メロンダウト

メロンについて考えるよ

マナーは規制するのではなく許容可能なものを広げていくべき

電車内で化粧するかしないかが話題になっているがこのマナーに関して思うことがあるのでひさしぶりにブログを書く。

このマナーだったりあらゆる公共空間のルール作りに関してもそうであるが公共性は民主主義によってつくられるべきものであることをどうも忘れているような気がしてならない。少数者の奇異な意見を拾うことはいいがその意思決定は物言わぬ人間の賛否も合わせて決めなければいけない。それが民主主義の原則である。電車内での化粧は不快だという声と僕のように勝手にすればいいという声も同等に評価しなければ民主主義たりえない。僕は電車内の化粧に関してはしてもいいと思ってるしそれどころか電車内で酒を飲んでようがいいと思っている。そのほうが陽気だろう。多少うざったい絡まれ方もするだろうがゲラゲラ笑っていたりする人がいたりしんみり飲んでいる人が公共の空間に存在できるのは僕はユートピアだと思っている。

しかし現状は神経質ともいっていい大きい声が拾われてそれが公共のマナーを決定しているのでどんどん息苦しくなってしまう。大きい声の裏には場合によってはそれ以上の声なき声が存在することを議員や公務員は自覚し意思決定を行うべきであるのだ。

少数者の意見を無視するなどという意見ではない。少数者が我慢すべきか大多数が我慢すべきかを勘案し決定するのが民主主義であってそれはどちらの声が大きいかという尺度をもって評価すべきではない。どちらの声が多数かによって決定すべきなのだ。政策であっても、法律であっても、そして電車内で化粧をするのかどうかというマナーであっても。

例えば以前はタクシーの中でも新幹線でも駅のプラットフォームでも喫煙可能であったが今は禁煙となっている。これに関しては僕はタバコぐらい喘息の人の前など致命的な状況以外どこでも吸っていいと思っているが大多数が禁煙であるべきだと考えているから喫煙すべきではないという公共性に喫煙者は従うべきである。これに関しては僕なりの意見があるが現実に公共性は私的欲望の上位に来るので従わなければならない。それは化粧に関しても同じことが言える。化粧も別にそれが実害を伴おうとどう見えようと関係なく公共空間においては多数が不快だと思うことを行うべきではない。

 

しかしここで注意したいのは少数者が不快だと思うことは我慢しなくていいということである。少数者が不快だと思うことは無視して堂々としていいなどと書くと批判がきそうであるが人間は存在しているだけで不快だと感じる人がいるのだ。

パーソナルスペースという。化粧をしているかどうかにかかわらず他人が手の届く距離に存在すること自体が不快なもの。家族であったり友人であれば許容できるが人間は他人がおよそ2mの範囲に存在しているだけで緊張するしあるいは不快に感じる。それを基準に公共のマナーを決定すれば人は人に近づくななんてマナーになりかねない。

 

だからどこまでその不快を引き受けるか引き受けないかは許容力や胆力の問題であって良いか悪いかという問題ではないと思ってる。そして公共空間で生きるかぎりは他人を不快に思うと同時に許容する矛盾を引き受けるべきだと僕は思っている。

そうして大人になること、沈黙すること、嫌なものを見たら滑稽だと微笑すること

その大人の沈黙こそがマナーであり、その沈黙を声として政治が拾うことがより多様な、より寛容な、そしてより良い公共をつくることに資すると僕は思う。

とりとめのない記事になってしまったが僕がブログに糞エントリをあげる自由も、どうか許してほしい。

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