メロンダウト

メロンについて考えるよ

フミコフミオとポリティカルコレクトネス

僕が最も最初にはてなブログの存在を知ったのはフミコフミオ氏のブログを読んだのがきっかけだった。それからブックマークをやりはじめてその流れでなんとなくブログも開設して今に至るというわけなのだ。まぁ僕のことはどうでもいいんだけどフミコ氏のポリコレ力についてすこし書いていきたい。フミコフミオフリークの僕から見るとフミコさんの文章術もとい文笑術こそが「ポリティカルコレクトネスと本音」の問題を解決する態度のような気がしている。

 

というのもフミコさんのブログを読んでいる方ならばわかるだろうが彼のブログはけっこうひどい。フミコ氏であればゲスイと言うのかわからないが事実や内容だけ切り取って見ると書いてあることはたんなる俗情であるように見えることが多い。しかしフミコ氏のすごいところはその俗情をとても柔らかくユーモアたっぷりに語ることであってどれだけゲスイ内容であっても内容以上の文笑術によって成り立たせてしまう。

 

トランプが当選してからポリコレ関連の話題をいろいろとみてきたがどの主張・文章・発言もその内容に関してだけ言えば総じて真面目すぎるように見えた。差別や偏見などはそれ自体は大真面目な議題であって軽々しく冗談をまじえてきとうに語ることはあまり許される行為とは言えないかもしれない。しかし大真面目な議題だからこそてきとうさを持って語ることが重要なんではないかとフミコ氏のブログを読んでいると思えてくるのだ。

文章は往々にして言葉をストレートに伝えすぎてしまい現実の対人コミュニケーションよりもいくらか誤解を生みやすい。現実にはハゲやデブなどひどい事を言ったとしても友人や同僚などの限定された条件のもとでは冗談半分に言ったことは冗談として伝わる。雰囲気、語意、文脈、冗談によって言葉が純粋さを失うことで軽くなる。ポリコレ的にはアウトなデブやハゲなどの言葉達もそんな軽さを装備することで使用可能な言葉に時としてなる。それがポリコレを解決する一つの術なのではないかと思うのだ。

 

しかし現実とは違い文章としてデブやハゲなどと書いてしまうと多くの場合、非常に無機質で乾燥した棘を持った言葉になってしまうことが多いのではないか。僕自身もブログを書いていてたびたび思うことがある。なんだか僕が思う以上に僕の文章は真面目に過ぎるような気がする時があるし他の方のブログを読んでもそんな感覚になる時がある。例えば炎上する人は文章にしたら意固地な人に見える。けれど炎上するような発言ができるのは普段はそんなひどい言葉でも現実の人格が軽さを与えているからなのかもしれない。だからOFF会などで現実に対面すると良い人のようなことになる。それはギャップではなく現実の人格が言葉に軽さを与えているからなのかもしれない。文章自体がコミュニケーションのツールとしてはそれだけでは重すぎるようにも見える。

 

しかしフミコ氏は違う。彼の文章は読み手がひどいことでも許してしまうように読める冗談や文脈が盛り込まれていて読んでいても良い意味での軽さが伝わってくる。文笑力として右に出る人はいない。だからいくらゲスイ内容を並べていてもフミコ氏のブログの世界観は壊れないしどこか楽しく優しい。

 

ポリティカルコレクトネスや差別は大真面目な議題である。時に人が死ぬこともある。軽蔑するような言動をする者がいることも事実である。しかしだからこそ冗談半分に、いいかげんに、適当に、スコッチでもロックで飲みながら語ることが必要なのではないだろうか・・・

事実が真面目であればあるほど不真面目に語ることこそが壊れない世界を形作ることができる。そうフミコフミオ氏(女子大生好き)は教えてくれているような気がしてならないのだ。