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メロンダウト

メロンについて考えるよ

人材市場で負けた人間の文章に文学など必要ない

ステージがうんたらかんたらという文章を読んだのだが文章の荒さはともかく自分と思想的には類をなす人だと思った。

蟹工船などで有名なプロレタリアート文学や村上春樹さんのエルサレムスピーチ「卵と壁があるとしたら私は常に卵の側に立つ」などなど。多くの文学は弱者と呼ばれる人の劣情を掬い上げてくれる。

最近では格差問題や生活保護その他社会的に恵まれていない人にたいしても同情する声が多くなってきている。良いことだ。

 

そもそもなぜステージにあがれないのか、なぜ増田に悪文ともいえる文章を投稿してしまうのか、なぜ社会的に困窮してしまうのかに関して言えば様々な要素が絡んできているのだろうがその中に

心の底の底から取引に疲れ切ってしまったという要素もあるのではないかと思う。現状基本的に人間関係は取引で構築される。

労働市場では実務能力や対人スキル。恋愛至上では話術、家事能力、容姿、収入。あるいは友人市場では無謬性、共感力。などなど。ありとあらゆるシチュエーションにおいて能力が要求される。

労働市場における人材、恋愛至上における人材、友人市場における人材

合コンにでも行けばまず職業を聞いてくる。あるいは友人同士でも共同体においてのキャラクターを不可避なコミュニケーションの流れのなかで設定してくる。そこでは存在意義を求められ存在自体を求められることはない。そんなこと当たり前だろガキじゃないんだから、と思われたかもしれないし僕もそう思う。

何もできないで何もしゃべらないで人は人と繋がることはできないので能力一切を否定はしない。人材市場を否定しているわけではない。

がしかしある個人の人生という状況に限定すれば、子供のころから家庭でも学校でも職場でもいついかなる時も「人材」であることを求められ続けている人がいる。さらにそれは一見すると恵まれた生活にも見えてしまう。大学教授や社会的成功者の子供は苛烈な教育のせいで鬱になりやすいみたいだが人材として育てられる教育にたいしての反逆なのかもしれない。つまり存在自体が人材としてしかいることを許さない現実を生理的に拒否していると推測できる。

人材として能力を高めることは大事だ。しかし日本では取引をする必要のない状況においても人材としてふるまうことを要求される。家族、友人にすらそれは浸食している。

これは海外でのコミュニケーションと日本のコミュニケーションを比較するとわかりやすい。海外でもキャラクターはあるがそれを他人から要求されるようなことはほとんど(僕の経験的に)ない。道化を演じる人は好きで演じるしそれを笑いたい人は勝手に笑う。個人の行動が尊重されるし反面ドライな面もあるが他人から人材としての要求を受けることなどほとんどない。議論でも発言しなければ発言しない人間と認識されるだけだ。

日本だとそういうわけにもいかない場面が多い。お笑いに象徴されるようにボケとツッコミという役割が与えられる。それぞれの共同体のなかでいかなる人材かに収斂していくし何もしないという自由は、ない。日本のいじめ問題もこれが原因だろう。いじめられっ子はクラスの中で交替することがあるが本人に問題がなく勝手に役割を与えられるからいじめられる。後輩は後輩らしく、先輩は先輩らしく、社長は社長らしく、子供は子供らしくといった役割として与えられた自己を演じ続けるのは人間の存在そのものに異常な疲れを引き起こす。

 

おそらくそんな無限に続くかと思われる人材の輪廻に中指を突き立てる「元気」すら失ってしまった人が日本では落伍者と呼ばれる。

そんな人にとっては文章力という能力もまた人材、役割といったくくりの愚物でしかないのかもしれないとふとそんなことを思った。良文しか評価しないような人材市場に辟易した人間にとっては悪文こそが社会に振り上げる鉄槌として望ましい。だからこの増田もその主張だけ見ればそんなにおかしなことは言っていないように見える一方で同じことを繰り返し書いている文章は異常に疲れているんだなと同情しそうになる。

anond.hatelabo.jp

競争に疲れた人間には聖域が必要だ。それは自分だけでは構築できず他者からの愛によってのみ作られる聖域が。ある日とつぜん何もできなくなったとしても存在しているだけで許される環境をつまり幸福と呼ぶのだろう。