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メロンダウト

メロンについて考えるよ

自立と貧困とリベラルとタバコと共同体概論

過去に書いた文章・・・雑文です。

NEWSZEROで子供の貧困について放送していた。子供の6人に1人が貧困であるようだ。この数字自体がかなり衝撃的な数字にうつる。アフリカの子供との比較ではない。日本人が感じる日本人の感覚として絶望的だと感じる。

離婚率の高さ、所得格差などでシングルマザーシングルファザーになって貧困にあえぐ人があとをたたないらしい。放送では飲食店でフルタイム働いて月収が9万円。それで子供2人を養っているシングルマザーが紹介されていた。育児は尊い

 

放送の中で貧困者にたいして食料品提供しているNPOを取り上げていた。寄付で集めた食料品などを貧困家庭に配るNPO団体。子供にお菓子などを配っていた。フードサービスを提供するNPO団体はこれからもっと必要になっていく。今回放送されていたものは学校側が貧困家庭を拾いあげてNPOに通知して食料を配給するという仕組み。シングルマザーの彼女も利用しているようだった。

 

そんな彼女が言った言葉におそらく日本の最も根源的な問題が示唆されているのではないのかと思った。彼女は月収が9万円しかなく子供2人を養うにはそうとうにきついのだがそれでも人に頼ることに躊躇いがあると言っていた。

自己責任、自立、平等原則など理念的にはポジティブに聞こえるものばかりで現実的に何の役にも立たない言葉達が彼女を苦しめているのかと思うとすこしいたたまれなくなってしまった。

 

個人的な所見を述べればこの世界に完全に自立している人などどこにもいなく誰しもが誰かに何かを依存している。その精神的、金銭的、性的、社会的なあらゆる支柱をまるで「自然」「自明」なものとして取り扱うものだけが声を大にして私は自立していると叫ぶ。そして失ったもの、自立できるほどの支柱を持たないものを自己責任論の名のもとに説き、殺す。その正当性を補された依存がほとんど運であるにもかかわらず、である。

 

人間は5つの依存先があるとココロが安定すると言われている。家族、中・高・大学の同級生、ママ友、同僚、趣味仲間、ネットなどなんでもいいがともかく別のコミュニティーから見た視点を複数獲得することで、はじめて冷静な距離を取ることが可能になる。あるいは単純に他のコミュニティーから離脱したとしても社会とは切り離されない保険としての役割か・・・

 

理由はどうでもいいのだがともかく広く人間関係を持つのは精神安定上では非常にポジティブな効果が期待できる。しかしこの自分を広く押し広げ複数のコミュニティーに在籍するような一見すると冷静で大人に見えるこの人は果たして「強い人」なのであろうか?

 

おそらく人間は心的リソースの分配がかなり大事であることは間違いない。間違いないのだが、ではマイルドヤンキーのように単一のコミュニティー、閉ざされたコミュニティーで生きる人は自らを客観視できなく依存しているから「弱い人」とされるのであろうか?

 

依存先のコミュニティーを複数確保し客観視できる人

単一の思想に染まり言語すら標準化されていない人

 

おそらくはどちらが強いかどうかで言えば繋がりの強さで言えば後者で、前者は世渡り上手でリベラルな人ということになるであろう。

しかしこの時、総量としての分配前の心的リソースは前者と後者もどちらもさほど変わらないのではないか?という疑念が僕にはある。

つまり前者のようなマイルドヤンキー的生き方、つまり「保守的、土着的な生き方」は自分のコミュニティーを客観視しないがゆえに自壊する恐れがあまりない。しがみつく。その繋がりの強固さゆえに壊れる時にはひどいことになる。

ちょうど世界に学校しかコミュニティーがない子供が時に子供をいじめ殺すように。

 

一方で前者はいじめられたら即座に逃げ出し別のコミュニティーに逃げることができる。しかしこの簡単に逃げ出してしまうようないかなるゆがみも客観視され矯正されるる世界では歪だが強い繋がりが生まれにくい。(強いつながりそのものを悪だと考える人もいるであろうが僕はそう思わない)

 

どちらのコミュニティーに属するにしても、おそらくは人間一人一人が持つ心的リソースの総量は違わないのであろう。一箇所に集中してリソースが投入されれば歪でも特別に強いコミュニティーが生まれることもあるし、振り分ければ何が大切かわからず遁走するように生き、延びていくだけになるかもしれない。

 

繋がりが持つ危険性は時に子供が学校で起こすイジメなどに見て取れる。エネルギーが爆散して被害者に向かう。だから個人的には一つのコミュニティーだけで生きていくことはおすすめできない。人間はコントロール不可能であるしあるいは配偶者でも家族でも裏切られるリスクが常につきまとう。

 

ところでまったく関係ないように見える話であるが、タバコほど無意味なものはない。燃やして煙になり空に還るだけである。まったく誰のためにも何のためにもならない、ならない、ならないがゆえに依存する。

人間や仕事、恋愛も常に危険と隣り合わせの関係であって常にいさかい衝突するリスクがある。コミュニティーから得る成果や承認もある。恋愛における静謐な空気も穏やかな呼吸も、友人同士でかわす笑顔も人生においては最高の果実である。一方でどれだけ信頼してもコントロール不可能な他者という視点が消えることは永久に、ない。

意味を求めあうし愛も信用も能力も求めあう。それらを獲得する努力が必要なくなることは永久にない。善も悪もないまぜになった人間関係が人に重力を与えるので関係そのものを否定してはいけない。その矛盾を抱え生きていくしかない。

ここで言いたいことは意味を求めあう人間関係では、100%完全な形で依存することはできないということである。だからコミュニティーを分散させることで依存先を増やすことでココロが安定する。

 

一方でタバコのようにまるで無意味なものへの依存が「人間関係が求める意味」にたいするカウンターとして生じてくる。だからタバコが無意味であるというのは批判にはなりえない。依存対象はそれが無意味であればあるほど良い。

紫煙をくゆらせタバコの煙に意味を乗せ空に還す、そんな無意味さだけがおそらくはタバコの(時にポジティブな)本質である。それは時に息苦しく感じる人間関係の意味の世界と対比してむしろ聖なるものに見えてしまう時がある。

しかし意味も無意味さも同時に保持しなければいけないのだろう。無意味と意味を同時に抱えるその矛盾だけが大人になるということなのかもしれないと、最近、素朴に、思う。