メロンダウト

メロンについて考えるよ

きもくて金のないおじさんと慰めのプラグマティズム

はてブのトップエントリーにあがってきたきもくて金のないおじさんと多妻制に関する記事を読んでいました。

koshian.hateblo.jp

当該記事の中できもくて金のないおじさんでも慰みがあれば犯罪者予備軍にはならないということが書かれており、すこし、めずらしく、記事を読んで考えていました。

 

論理としては記事内で書かれているように秋葉原の連続刺傷事件も鬱屈を爆発させた人間の犯罪だから慰みで鬱屈を麻痺させ、犯罪に手を出させないようにしようというのはよくわかります。

しかしそれって誰にたいしての慰めなんだろう・・・その人物が望む人生の本懐(こっ恥ずかしい表現であるが)ではない慰みを与えることによって一時的に鬱屈を忘れ静かになるその静かさは社会が求める静かさでしかないように思う。

アニメやアイドルを批判する人の本質的な理由もここにありそうである。

人間的感情は代替物による慰めに寄ってはいけないとする人か、アニメでもAVでも見てマスターベートして静かにしてれば迷惑じゃないからいいよという人が2人いたとしたらはたしてどちらが人間にたいして「誠実」なのであろうか?

 

 

おそらく加藤氏はそんな慰みには手を出さずに永遠と自己について考え続け、携帯掲示板に綴りつづけた。あの事件を起こすまである意味現実と戦いつづけ結果として絶望してしまったのかもしれない。

そして僕はむしろ加藤氏のように現実から目を背けずに慰みに寄らず生き(結果あのような事件になってしまったが)るのはとても人間的で、自然な行いに見えます。

よく犯罪者の動機づけに関してアニメやマンガが槍玉にあがることがあるが、よほど猟奇的な人間以外は動機付けにならないのはネット界隈の皆が言う通りでしょう。逆にそれらが慰みになって犯罪を抑止することのほうが多いと推測できる。しかし犯罪を抑止するメリットに加えその感情まで抑止するデメリットに関してこそ考えるべき側面ではないだろうか?

もちろん趣味として消費していたりするのはまったく問題ない。

 

社会が静かになり一見平和に見えても慰みによって鬱屈もとい感情が殺されているならばその平穏はかりそめであってただただ既得者(自己実現済みで承認され幸福な個人)のための平和でしかないのではと疑うべきであると思う。

加藤氏のように社会にたいして怒り憎しみ暴動し人を刺すとまでいかなくても普通に怒ることすら=悪であるとする価値観こそがまさに閉塞感の根本にあるのではないだろうか?いつだったかバスの社内で誰かが怒っている動画がYoutubeにあげられ嘲笑のコメントであふれ返っていた。僕たちは人の怒りを笑うべきではない。

人のセックスを笑うな
 

 

そうして僕達はみな怒ることができないからアイドルのCDを何百枚も買うことで既得者に金を提供し同時にアイドルに慰められ平和も提供する。それがいかに馬鹿馬鹿しくてもみな許された慰めによってしか生きえないのだろうと。

 

そうして人間的感情を慰められ麻痺させられ静かに生きる。その象徴がきもくて金のないおじさんなんだろうと・・・

しかしその静けさは静謐ともいえずましてや幸福とも言えないと断言できる。

 

先進国で決定的に日本の幸福度が低いのはアニメしかりAVしかりこの慰めによる感情の欠落があるのではないかと考えることができる。同時に慰められることによって犯罪も少ない。

 

しかしそれは悪い社会でもなければ良い社会でもないのではと思うことがあるのだ。

一言で言えば日本では望まれざる自由は政治・社会・個人・家族・会社ありとあらゆるレベルにおいて許されない。

バスの中で怒ることも、何もない平日に有給を取るのも、世論と真逆の意見も、ありとあらゆる自由度のレベルが低いと感じる場面が多い。

端的に言えば日本には日常レベルでのリベラリズムなど存在していない。リベラルは卓越した集団の既得者の中でのみ存在する。またはネットにはびこるウワゴトに近い理想論でしかない。

 

この日常から自由へ向かうのに必要なのは慰めに依存しないためのリアリズムでありプラグマティズムである。

希望の思想 プラグマティズム入門 (筑摩選書)

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