前回の記事はすこし気合入れて書いてひさしぶりにツイッターをみたのですが反応が飛んできていました。
内容は
半分しか読んでないけど偏差値49の大学生が一生懸命書いた文章
といったもの。自分の文章の至らなさは自分でも了解している。世の中には本当に頭が良い人達が無限にいる。はてな界隈に限っても比較して自分の未熟さに自分が文章を書く意味なんかおよそないんじゃないかと感じたりすることもある。(まぁおそらく意味ないんだろうけど自分自身の中では思考の安置所のような役割がある)
あるいは大学時代もそんな敗北感はあったし本や小説なんか読んでも感じる。そんなことは自明すぎて言われるまでもない。しかしだからといって敗北主義に依ってはいけないとも思っている。
上記引用のような批判だったり、ツイッターのクソリプ、はてなブックマークの政治カテゴリでの強烈な正論もそうであるが未熟な人間に対してそのそのまま未熟であるというのはこれは基本的にやめたほうがいいんじゃないだろうか。
例えば自分は上記の批判をされても今はそうだよねやっぱり(鼻ホジ)ぐらいしか思わないが同じような批判をされて一生懸命考えること自体をやめてしまう人も中にはいると思うんだよね。生半可な知識で政治や思想を語るとひどい批判が飛んできて考えること自体から離れてしまう。
考えること自体が不毛なことだと当該個人のなかで結論づけてしまう。そうやって政治が高尚な議論になり閉ざされれば閉ざされるほどに政治について考える人間は消えていく。そしていざ選挙になるとポピュリズム的な投票行動しか取れなくなる人が多いのでポピュリズムが勝つ。
その結果を受けてまた政治高弁者がなんたる愚民だと馬鹿にする。その愚民をつくったのは政治の議論から隔絶した「お前たち」であるにも関わらずである。
これは現在の安倍政権のケースにも当てはまっていて、安倍政権が前回の選挙で議席を3分の2取ったが自民党に投票した国民の割合は3割しかなかった。投票に行かない人間が多すぎるのだがこの投票に行かない人間がなんで投票に行かないのかは政治について考えることが「できなくなった」からと上記の理由により考えることができる。
つまりもう政治についてツイッターやその他議論する場所でなんか言ったってどうせ馬鹿扱いされてつまはじきにされてよくわからない単語並べられて偏差値49とか罵られるから考えるのも投票に行くのもいいや、と感じている人が少なからずいるんじゃないかと思われる。
もちろんそれが安倍政権を支えている唯一の理由とは言わない。
そんな考え方で言うと僕はSealdsは政治的イデオロギーの是非に関して置いておくとしても動員して考えて行動が起きたということは良いことなんじゃないかと思う。
Sealdsに関しては政治を議論する場所でさんざっぱら叩かれていてその諸々の理由については自分もそうだなと思うんだけど、その未熟さを批判する構造そのものが人々を政治や思考から退出させるものになっていることにもっと意識的になったほうがいいと思うんだよね。
民主主義において結局勝つのは大衆であって大衆にリーチしない政治的議論はその射程においてエンターテインメントでしかない。
そんなことを偏差値49の大学生は考えたのでありました。終わり