メロンダウト

メロンについて考えるよ

00年代のオタク批判は間違っていなかった

真木よう子さんがコミケに出展しようとしたらコミケの趣旨にそぐわない品物だと炎上し、謝罪させられ、出展も取りやめになるといった一連の流れを見ていて00年代にオタクを批判していた人達は間違っていなかったのではないかという感覚を覚えた。

 

オタクについては触るな危険であるし、いまやオタク批判は時代錯誤でしかない。オタクを批判すると一発で老害認定され袋叩きにあう。しかしオタクの精神性がなぜ当時、00年代に批判されていたのかいまになって振り返る必要があるのではないかと思った。

批判するといっても僕自身もライトなオタクといっていいほどにはサブカルが好きである。だからオタクを趣味として批判するつもりはまったくない。萌絵がロリコンを醸成するなんて批判をするつもりはない。

問題としたいのは真木ようこさんをコミケから退出させたその排外性についてである。

 

00年代に批判されていたオタクはその趣味の如何ではなくオタクの排外性にあった。オタクは根暗で陰キャで社会性がなく自分の世界に閉じこもるから批判の対象とされた。自分の世界に閉じこもることの何が悪いんだ、僕達には僕達のコミュニティーがあってといった反論が必ずくるこの手の話題であるが

 

自らの世界に閉じこもり外部を遮断したコミュニティーは悪であるとはっきり言うべきであると最近思うようになった。

というのも保育園建設問題、独身税、分煙、騒音、パワハラ、告ハラ、体罰などなど最近になって噴出してきたこの手の分断問題はすべてがオタクが市民権を得て排外するようになったことに通じる。

 

オタクは外部とは別の世界を大事にしている。しかし別の世界に生きれば生きるほど外部の雑音を受け入れずらくなる。これは社会心理学で明らかになっていて人間は知り合いであればある程度の雑音、迷惑行為でも受け入れることができるようになるが心理的距離が遠いほど些細な迷惑行為も許せなくなる。

これを加味して考えるとオタクのように自分の世界にだけ生きている人間は自分の世界に生きるその強さと比例して排外性が強くなる。意識して回避して沈黙することもできるがそれにはリテラシーが必要で一般的な話ではない。これが00年代にみながオタクの内向性を批判した原因のひとつである。そしてその批判は正当なものだったのではと振り返り思う。

さらにオタクが市民権を得て大衆化したことにより自分の世界に生きてもかまわないというランドマークが流布されることになった。自分の世界を大事にする人が増えたことにより一般社会でも分断が強くなった。

そしてこの論理をオタク以外のあらゆる場面でも適用する人間が増えた。 

 

だから保育園の子供の声が雑音に聞こえるようになり、独身をナチュラルに差別し、きもくて金のないおじさんなどという蔑称を作り出し、喫煙者を徹底的に排外し、教師を他人と識別して体罰がより許せなくなり、ありとあらゆる他人への干渉はハラスメントと呼ばれるようになった。

 

つまりは一億総オタク社会、である。

だからいまになって僕は00年代のオタク批判は正しかったのだと思うようになった。

主語がでかい、オタクにもいろいろな人がいるといった反論がきそうであるがここで問題にしているのはまさに主語であり、オタクという主語を大きくして一般化したことこそが問題なのである。終