メロンダウト

メロンについて考えるよ

暴力が先か、人間関係が先か、大人が先か、子供が先か、悪が先か、偽が先か

原理の前に人間関係があるのか、人間関係の上に原理があるのか

fujiponさんの記事を読んでなにかそんなことを考えていました。

日野皓正さんの「ビンタ事件」についての雑感(あるいは、人間は善悪ではなく、好き嫌いで「判断」するということについて) - いつか電池がきれるまで

体罰が議論となるポイントを整理すると

当事者同士の文脈があれば暴力も正当化されるのか否かであります。

原理を重んじる人々はいかなる状況においても暴力は許されないといった原理を支持しますが、関係性に重きを置く人は愛のある暴力は暴力ではないといった主張をします。

 

しかし原理を重んじる方も本当の原理主義者ではないはずです。例えばボクシングの試合を暴力だと非難する人はほとんどいません。

また路上に子供が飛び出してあやうく車にひかれそうになったこちらの動画

www.youtube.com

 

これを見て子供にビンタした親を責める人もあまり多くはないでしょう。

 

多くの方は暴力は関係性により許されることもあることは承知しているにもかかわらず、「関係性が不明な」他人同士がおこなった暴力を原理によって批判します。

争点となるのはどのような条件下での暴力は許されるのかどうか。それだけです。

 

例えば教育現場における暴力は絶対に許さない、親が子供を叩くことも許さない、上司が部下にビンタするのもダメだ、彼氏が不倫して彼女がビンタしたら彼氏は傷害罪で告訴すべきだみたいないろいろなシチュエーションがあります。

日野さんの件を見て思い出したので極端な例をあげますが

生活が困窮して息子が母親の首をしめて殺してしまった事件がありました。

www.dailyshincho.jp

さまざまな報道を僕も見ましたが介護に追われ仕事も十分にできずそれゆえ生活が苦しく助けてくれる親族もいなかった息子に同情の声を寄せる人が大多数だったように記憶しています。当時はただただ悲しい事件だと思うのみでした。

しかし今になって振り返ると、当事者同士の文脈や物語があれば原理的に許されない殺人も許される文脈はあるということができます。殺人が許されうるなどと書くと僕自身も自分が書いている文章に生理的嫌悪感を抱きますがしかしそれを象徴したひとつのモデルケースととらえ返すことはたしかに「可能」です。

人間関係は(殺人は絶対悪といった)原理を超えることがあるとも言ってもいいかもしれません。人間関係のほうに善悪の判断は依存していて行為そのものは付随してくるものでしかないと考えることができますし、当時多くの人達があの事件を見てそう判断していました。

 

ここで言いたいことは上記のような人間関係によって善悪判断が決定されるケースでは同情可能性によって行為そのものの絶対的な価値判断はできないということです。

 

日野さんの件に話を戻しますとつまり人間関係によってビンタすることが許されるのか許されないのかが争点になりうるべきで暴力そのものが許されるのか許されないのかといった議論はすでに終わっている議論だと認識すべきだということです。

 

ニュースで暴力と出ると脊髄反射的に暴力をふるう人間は悪い奴だといった認識がはしりますがしかし本当は善悪の判断そのものは人間関係が先にあって原理の話をしてもほとんど意味はないと思うんですよね。

上記の親子の例で言えば殺人という行為をした息子は行為だけを見れば悪だと言えますがそう単純化していい話ではありません。彼は母親を殺したあと自らも自殺をはかりましたが未遂に終わり裁判にかけられ一連の事情を裁判官に話しました。(その後、再度自殺をはかり遺書を残して亡くなったというニュースも見ました。ご冥福をお祈りいたします。)

自らだけ自殺して生きることを終えればそれでもよかったはずですが自分が死んだら母も生きられない、餓死して孤独氏するよりもと殺人するわけです。その行為は原理的には悪ですが偽の悪、偽悪であってそれが彼の物語で彼が判断した大人の判断だということなのでしょう。

 

日野さんもお客さんがいる中で子供にビンタをしたら自分に批判が飛んでくるだろうこともわかっていたんじゃないかと思うのですよね。それでも叩いたのは他の子供たちとのバランスであったり子供への教育だったり最も大きいのは叩いてもわかってくれるドラムをたたき続けた子供との信頼関係だったと思うのです。

インタビューされた記事でも親と息子の関係だということも言っています。

子供を叩いたらダメ、原理的に悪なんて判断は簡単です。しかし子供との信頼関係を築けて自らが批判されようとも正しい判断で子供を叩く判断ができる人って僕はすごい人間だと思いますけどね。

暴力を権威主義と批判する人がいますけど日野さんは少なからず今回の件で権威をむしろひきずりおろされたわけです。偽悪になり批判されようとも子供のためと判断できる大人。そういう大人は事なかれ主義のただ恐れおののいている暴力をしない大人よりもはるかにまともな大人だと少なくとも僕は思います。

 

日野さんを批判する人は善悪を判断する前にその悪は偽悪ではないのか

そして批判されようとも偽悪をひきうけつぶれ役になる大人をそのままつぶしていいのか。そんなことを考えたほうがいいのでは、と・・・