メロンダウト

メロンについて考えるよ

風邪をひいてブックマークコメントを読んだのですが、議論は人格否定した瞬間に終わりですよ

数年ぶりに風邪をひいたのですけど前回記事のコメント欄をベッドに寝転びながら見ていました。ひさしぶりになんかたくさんの人に読まれたなあとそれはそれで嬉しかったのですが

政治とかの真面目な議論を書いてばずると必ず人格批判コメント、誹謗中傷コメントが紛れ込みます。増田でもそこそこ政治のことについて書いていたりするのでブログだけに限った話でもないでしょう。政治的議論はその批判的土台があって成り立つので批判するななんておかしなことを言いたいわけではありません。むしろ対立意見や補足意見は大変ありがたい。

しかし誹謗中傷はいただけない。これってもうネットリテラシーというかそれ以前の話なのですがこの手の話になると「ネットでは個別意見にはスルースキルが必要だ」としか語られません。言及する側の言及スキル、リテラシーを唱えると未成熟なネット素人だとか言われます。しかし本当にそうなのだろうか?と風邪をひいてコメントを眺めて考えてしまいました。

 

前回の記事には

おおむね考えてコメントして下さった方が多数だった一方で

文章が駄目とか屁理屈こねてるとか心に響かないだとか炎上専門のヤツとかコメントされていました。こういう批判がきた時に自分は普段ならスルースキルとかいうやつで見て見ぬふりをします。そういう耐性は人よりはあるほうだとは思います。しかし先日、風邪をひいて弱っている時に見たらなんかそれはもうなんというか・・・参ってしまいました。

おかしな人がおかしなことを言っているだけと普段は切り捨てられるんですけどね。弱っている時に強い言葉できりつけられると内容関係なくダメージがくるものです。そんな経緯で思考を整理するためにこの記事を書いているところです。

 

そもそもの話ですがブックマークコメントやツイッターで見知らぬ人に知らないからいいやえいっと軽い気持ちで誹謗中傷してその人が傷つかないとでも思っているのでしょうか?これは議論とか政治とか以前の話だと思うのですよね。

ネットの使い方、セキュリティーに関する話をテレビなどがたまにやってるのを見ても掲示板ではスルースキルが必要だとか「逮捕されるから誹謗中傷してはいけない」しか言いませんがそんなのどうでもよくて「相手が傷つくからやってはいけない」んですよね。

小学生でも知ってるコミュニケーションの根底を成すリテラシーがネット上になるとまったく言われることがありません。これは個人的にけっこう不思議です。理由を考えるともともとは2ちゃんねるが醸成したネットコミュニケーションの希薄性に由来するのではないかと思っています。

 

どこもかしこもネットの書き込みって2ちゃんねる的なんですよね。ツイッターでもヤフコメでもしたらばでもまとめサイトのコメントでもはてなでもニコニコでもそうだしフェイスブックでさえ最近はそうです。唯一違うのがインスタグラムなどでしょうか。昔、mixiをやってたのですがmixi全盛期の時にはまだ2ちゃんねる的なコミュニケーションがネットに蔓延していなかったのでmixiはわりと実際の対人コミュニケーションのほうに近かった記憶があります。

mixiではなく2ちゃんねるのほうが席巻しスルースキルを全員が必要とされるネットコミュニケーションってそれだけでネット文化の形成過程において一部失敗したのではないかと記事を書きながら思いました・・・結果だけの話なのであまり意味のない話ではあります。

 

こういう匿名で勝ち負けを判然とさせるネットコミュニケーションは特に政治の話になると非常に顕著に見てとることができます。政治を語る時に経済や政局の知識とかって必要ではあるけどそれが政治議論的素養と言えるのかっていうと全然違う話のような気がするんですよね。

無知の知」ってソクラテスが書いていましたが議論をする時の条件がまさに無知の知だと感じます。知らないということを知る。のであれば相手の無知を責めたり未熟であると罵ったりはできないし絶対に人格否定まではいかないはずなんですよね。

マンガで読む名作 ソクラテスの弁明

マンガで読む名作 ソクラテスの弁明

 

 無知の知は購入して読まないとわからないものではなく日々コミュニケーションをとるなかで自然に感じるような道徳律のことが精緻に書かれています。

 

無知の知を無視し2ちゃんねる的に未熟な人間だと叩いて政治的議論から退出させる。自分を無謬と信じきった発言が人々を政治から退出させることにもっと意識的になったほうがいい気がするんですよね。と自分も偉そうなこと言える人間ではありませんが・・・

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