メロンダウト

メロンについて考えるよ

シッキーとクラシックスとはてなブログと互助会とインターネット的大義の無価値さ

シッキー(id:skky17)さんのアドセンスコードが互助会ブログ「クラシックス」と同一だったとして増田界隈ですこし話題になってた。後日謝罪記事をあげるらしいのですが謝罪しなくてもいいんじゃないかと・・・

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20171108201122

個人的な意見に過ぎませんがはてな的礼儀は完全に無視したほうがいいと思っています。まとめサイト排除とか互助会批判とか嫌アフィリエイトとか嫌マイルドヤンキー文化とかはてな的TPOに埋没して個々の人生で得たパーソナリティが毀損し再設定されていくのは完璧な悲劇です。再設定されるのが悲劇なのではなく経験を伴っていない自己の再設定は偽的になるという意味で悲劇です。

 

「善意による偽化」のようなものがインターネットには存在すると思っていてネット的なリテラシーを完璧に体現しようとすると自己との不和が大小あれど必ず起きてくる。はてなだけではなく2ちゃん的冷笑だったりインスタ的キラキラ感も同じものを持っています。それらを見て楽しむぶんにはかまわないですがそこに過剰にコミットする(謝罪する必要性を感じる)と自己が偽「的」になって身体と連動した雰囲気などが壊れ自己は逆に退行していく。

そしてそれはそのコミュニティーが正しければ正しいほどその危険性が強い。

 

はてなは他のネットコミュニティーと比べても理知的な人が多く見受けられますし自分のような頓珍漢は劣等感すら感じることがあります。しかし高尚で非のうちどころのなく論理的に正しいコミュニティーほどその高尚さと比例して自己を侵食してくる可能性が高くなる。そこにコミットすることは一見正しいように思えるが経験と連動していないいかなる正しさも人間を人間にはしない、と断言できます。

 

ネットや世論に思想を同一化させるのはいかなるコミュニティーでいかなる方法をとろうがどうあれあまり良い結果にはならない。

仮に完璧に理知的にふるまうことができる人がネットにより出来上がったとしてもその人を誰も魅力的だとは思わないでしょう。

 

 

時に芸能人や政治家が世論に迎合的になることがあるが彼らはそれが現実的な生活と連動しているので世論迎合には明確なメリットがあります。それはヨッピーなどのウェブライターも同様ですが普通の一般ブログなどでそれをやろうとすると明らかにデメリットのほうが大きい。

すこし考えればわかるがはてなに迎合してはてな的価値観をはてな的ライティングで書いて読者数が500人増えたといってそれがなんの実態を持って自分の生活を支えてくれるというのでしょうか?これまでも無数に悲劇が語られた文章はインターネット上に投稿されてきましたがそれらはただ文学的に楽しんで読まれただけだったたではないか

 

リテラシーを守りはてなのTPOにそった(?)手斧合戦を繰り広げていたシッキーですが互助会ブログを運営し検索流入からくる読者にアドセンスを踏んでもらったほうがシッキーこと「本名○○○○」という現実の肉体を持った一個人にとって明らかに彼の現実を支えてくれます。そしてそれははてなで批判されることが多い互助会ブログ、アフィリエイトサイト、転売屋などにも言えることだと思います。

 

 

アフィリエイト批判も転売批判も正しい。なるほど。よくわかる。

しかしその論理的正しさは転売屋の生活をどれだけ救うのだろうか?哲学という地獄に落としいれて正しさを設定していく。そしてやってくる当事者の生活の困窮は誰が責任をとってくれるのだろうか。キャリアもない、知恵もない、甲斐性もない、コミュニケーション能力もない人間を現実的に救うのは最終的に金である。

 

互助会でも同様ではてなブックマーカーに批判されても彼らは互助会ブログ運営者の生活を救うことはないし仮にはてなブックマーカーに諭されて正しさを知ってもそれは自己の経験を伴っていないので偽的になるのでやめたほうがいい。

互助会が倫理的に正しいとは思っていないですがはてな的正しさも正しさを獲得する過程がすっとんでいるので正しくない。ならお金にはなる互助会アフィリエイトブログを運営するほうが生活を支えてくれるぶんましです。またはブログを書くことそのものに楽しさを見出すしかない。

 

 

と関連した話をこの際だからまとめて書いていきますと

 

はてなブログの奇妙さってよそよそしさだと思うのですよね。

こうしてはてなでブログを書いていて不思議だなと思うのがはてなブログには友達という概念がほとんどないように見えます。自分のような弱小ブログだけではなくけっこう広範なブログでそうです。アメブロとかライブドアなんかではともだちが書いているようなコメントが多々見受けられます。自分も以前、FC2でブログ書いていたのですが連日フランクにコメントしてくれる方が数名いました。ブログ内容とは全然関係ないような「最近彼女できました」みたいなことを書いてくれたりしました。僕はそいつに「死ね」と返答しました。そういうブログもはてなでは探せばあると思うのですがはてなでは基本的に関係そのものに興味がないというかそういう作法が欠落しているのだと思います。もちろんそれぞれの生活のなかでは適切にコミュニケーションをとっているのでしょうけどはてな内になるとUIの問題なのかわかりませんが友達を見つけることが難しい。

だから互助会のような関係性を継続するためだけの中身のないブックマークコメントが異質に見えるんだと思うのですよね。互助会も友達というよりか取引先のようなイメージがあるのでやはり友達ではない。

おそらくはてなでは関係性よりも何を書いているかが重視されているのでしょうけどそんなに何を書いているかって重要ですかね。

 

すこし前に「誰が言ったかより何を言ったか問題」が話題になりましたけど何を言ったかって・・・・・・・・・・・・・どうでもよくないですか?

たいへん語弊がある書き方かもしれませんが何を言ったかよりも誰が言ったかのほうがはるかに重要です。

政治家が失言などで言葉じりを切り取られて報道されたと弁明する時がありますが、インターネットで顕著になったのが文脈をすっ飛ばすことだと思うのですよね。何をいったかより誰がいったかより誰がどんな状況で何を言ったかが重要だと考えるべきです。

仕事でいやなことあって胸糞悪い時にクソミソな文章書いたとしてそれがいったい誰の何を定義するのかよくわからない。暴力の話に関しても暴力はダメと一言にいってもじゃあボクシングはダメなのか、子供をしかるのはダメなのかはすべて誰と誰が関係しあっているのかにその正しさは依存しているので「誰のない何」は無意味な議論です。

 

愛などについてもそうです。愛するとひとことにいってもストーカーのように愛する人もいればDVを愛だと思っている人もいます。アニメやドラマで表現され想像されるような「誰という主語のない愛」なんてものはありません。

すべてのことにしてもそうです。殺人でさえ文脈があれば正しさを包含します。

 

関係性こそが重要なはずなのに誰を無視し「何」を普遍的に結論づけるのはやめたほうがいいと思います。

そうして普遍化され刷り込まれた「大きな何か」は現実の複雑な関係性の中では容易に通用しなくなります。それが現実のなかで自己との不和を起こし偽となる。

 

その意味ではてなやヤフコメ、2ちゃん、ツイッター等々の巨大コミュニティーにおけるネット的正しさは無視したほうがいいと僕は思っています。

出会い系や趣味アプリなどで友達をつくり正しさを無視しアフィリエイトサイトで金をかきあつめるツールとしてネットを使用するほうがはるかにインターネットの使い方として「正しい」と言えます。

 

つまり長々と屁理屈を書いたすえに友達面をして最後に言いたいことは

シッキーよ、謝ったら負けだぞ。