こちらの記事に回答できると思うので書いていきます。
議論を壊すのは真面目さ。偏見を生むのも真面目さ。ほぼ確信してそう思ってる。真面目さこそが議論における最大の癌。議論する人が論破とか言い出して真面目に議論するから偏見を持たれる。真面目さへの偏見。それはむしろ当然の偏見だと言える。
不真面目さこそが議論するのに必須のマインドセットと言っても過言ではない。もっとベタに言えば「微笑」と「余白」こそが議論の素養といっていい。
先崎先生の記事を貼っておきます。微笑的議論のすすめ。
より引用
「真の勇猛心は必ず柔軟心を伴う…精神は極度に動脈硬化の症状を呈したのである。言論も文章も微笑を失った。正しい言説、正しい情愛といえども、微笑を失えば不正となる」(『大和古寺風物誌』)
幣ブログ過去記事。フミコさんの不真面目さこそが大切と書いた。
より一部抜粋
ポリティカルコレクトネスや差別は大真面目な議題である。時に人が死ぬこともある。軽蔑するような言動をする者がいることも事実である。しかしだからこそ冗談半分に、いいかげんに、適当に、スコッチでもロックで飲みながら語ることが必要なのではないだろうか・・・
事実が真面目であればあるほど不真面目に語ることこそが壊れない世界を形作ることができる。そうフミコフミオ氏(女子大生好き)は教えてくれているような気がしてならないのだ。
過去に弊ブログにいただいたfnoithunderさんのブコメ。
真面目すぎる寛容は毒になる
エビデンスに耐え僕達の実存を取り戻す方法~東京都受動喫煙防止条例~ - メロンダウト
確かに「寛容なヤツ」は「寛容でないヤツを殴っていい」ような、寛容警察が蔓延る息苦しい社会こそが寛容な社会である、ような。
2017/09/10 10:27
通底して言えることは議論における微笑と余白の大切さ。
ベタな具体例をあげればきりがないが
たとえばネトウヨの問題はその国粋主義的な思想そのものではなくその思想の異常なまでの真面目さにこそある。
たとえば自由主義者の問題は自由を真面目に捉えすぎて自由と比較する価値を探し比較しない側面である。
たとえば橋本徹さんの問題は現場主義で切り離して議論が終わってしまう真面目すぎるリアリズムにこそあった。と思う。
あらゆる議論における正論、合理、正義などはそれがどんなに正しくても微笑を失えば不正となる。
巷で騒がれている芸能人の不倫騒動に関しても不倫が駄目なのはみんな知ってる。あるいは駄目じゃないと考える人もいるかもしれない。そんなことはどうだっていい。賛否はなんでもいい。
問題は不倫絶対ダメマンもフリーセックス信奉者もその思想が硬直化することにある。芸能人への不倫バッシングはその思想の属性ではなく強固さゆえに問題がある。
メタに抽象的なことも書いてみると
議論における偏見って議論をする人間が真面目だから偏見の対象になってる。「真面目さへの偏見」であってその意味では僕はむしろ真面目な議論に偏見を持つ人々は
論理や感情の硬直から距離を取るという点では至極正しい感性で生きている人のような気がしてならない。
真面目な議論をする人って僕もそうなのだが議論をする時に
対他者的議論ではなく対データとか対論理とか仮想敵的議論になっててゲームに近いのだと思う。たまに論破といか言う人いるけど論破とか聞くと議論ゲームをクリアした、敗北を知りたいイェイみたいな感じを受けるのですよね。
2ちゃんから出てくるなと言いたい。相手を馬鹿にする嘲笑と相手の話を引き出す微笑は違う。
微笑こそが硬直化する議論から解放してくれる。
また議論への偏見は議論する人が論理やデータなどの権威をかかげて話す人が多いことも偏見の対象になる原因。データも論理も重要だがそれが権威になった瞬間に失格。
データ漏れなどを考慮する余白を考えれば絶対に権威的にはならない。
終論
これらを踏まえ
今井さんの「批判なき政治」「批判なき選挙」の意味を再度考えるなら2つは「不真面目な政治」「不真面目な選挙」とも言える。
それは現在の議論の素地となっている真面目さから退出しようという意味で言っているのであればむしろ正しい感性だと考えることができる。
ということで微笑と余白をできれば忘れずに。と言いたいところですがこの記事は私のブログにとっては盛大なブーメランでしかないの。それくらいわかってるよっと。