メロンダウト

メロンについて考えるよ

#metootoo

実のところ最近のリベラル的なmetoo運動にたいして疑問がないわけではない。

根底にあるのは個人主義への疑問であるがいま日本で問題になっているのはハラスメントのような過干渉ではなくむしろ無干渉の作法=個人主義にこそあると感じているからだ。そしてmetoo運動はその個人主義推し進める懸念がどこかある。

とはいってもいまのところただの疑問である。あまり意味のある話ではない。ので意味のない文章として読んでいただけたらと・・・

 

開沼博さんが著書「漂白される社会」であってはならぬものたち(売春島、客引き、ホームレス、援助交際)を排除し不可視化することによって社会は漂白化していると書いている。初版からもうずいぶん経っているがこの感覚はいまだに僕の社会観の中心を貫いている。そして最近その傾向は強くなっているように思える。嫌煙などがそうだろう。

 

漂白化。社会を綺麗に、健全なものにしようという運動自体はなにか直観的に正しく見えるし善と悪で振り分けた場合社会運動のおおくは善といっていい。しかしその善行、社会規範の分別。まともな人間とまともではない人間とを振り分けて漂白化していくこと。問題をすべて問題化する。そのカオスからの離脱こそがむしろ底の底で問題となっているように思えるのだ。

 

 

metoo運動に話を戻す。

metoo運動は正しい。おそらく(あえて断定はしないが)正しい。

しかしmetoo運動で善と悪に振り分けハラスメントする側とされる側とに分けていくと結局のところ人は人と関わらない世界が生まれるような気がしてならない。極端な話、すべての愛の告白はハラスメントである。相手の合意がある場合はハラスメントにはならないがそんな合合意の関係なんて考えてみればそんなにない。多くの場合、相手に愛情を課したり課されたりして関係は始まる。相手がいいといわないかぎりすべての干渉がハラスメントとなる「完全世界」ははっきりと地獄であると言っていい。人間はそんなに強くない。ハラスメントに耐えることができないのと同じように決定そのものにも耐えられない。

 

全員が主体的な個人という世界観。それ自体が間違っていると自分は思っている。

多くの人間は恋愛でも仕事でも「課せられて」生きる。自立した個人を前提に社会観を話す人が多くいるが本来、人が完全に主体的に決定できることなどほとんどない。

metoo運動で問題となっているのはセクハラを「課せられる」ことであるという点。セクハラを批判することは正しい。しかしあえて言うならその正しさは逆説的に課す側の決定にたいして壁を築くことになる。つまるところmetoo運動は人は人に「課すな」「侵入してくるな」と言っている。それが個人主義の問題で日本で言われる閉塞感=他者への不可侵へと繋がる。問題を発した側の理念そのものが問題という構造もある。もちろん個人主義は問題ではないと考える人もいるだろうけど自分はそうは思わない。

 

metoo運動がここまで大きくなっているのは

個人主義が徹底された世界ですべての個人は主体化しているという「幻想」が素地にある。その素地があるからセクハラを批判する声が大きくなっている。

しかし僕が考えている問題はここまでセクハラを糾弾する声が大きいほど肥大化し漂白化した個人主義社会そのもの。

こう書くとどちらか選びたくなるが個人主義(課すのも課されるのも嫌)によるかハラスメント(強引に課す)によるかだがこの問題はどちらに寄ってもダメだと思う。

主体的な個人はいない、いっぽうで他者に強引に侵入してはいけない。その矛盾を抱えるしかない。それがベストだと思う。

 

 

なんども念を押すようだが単純にセクハラは悪である。metoo運動で暴露されている社内の力関係で搾取するのは悪行である。

しかしハラスメント自体を根絶しようというのであれば自分は反対に回る。ということだ。

実際のコミュニケーションで大事なのは「相手との関係性を考えながらあえて無視して侵入していく」ような作法であるように思う。metoo運動は相手のことを考えないことが批判されているだけでそこを取り違えると個人主義に飲み込まれることになる。

 

それだけは忘れないようにしたい。

はあちゅうと #metoo への批判 ハラスメント社会を変えるために共感を広げるには