メロンダウト

メロンについて考えるよ

なぜインターネット依存は語られなくなったのか

Hagexさんの事件から3週間経った。かなりいろいろな記事を読んだが記事を見通して疑問に思ったことがなぜ誰も「依存」について書かなかったのかということだ。

 

ネット上のやりとりで殺人までいく狂気の源泉にはネット依存が多少なりある。容疑者は4年間無職ではてなに執着していたみたいだがそこまで執着することは医学的に見れば明らかに依存症と呼んでいいものだろう。

捨て垢を大量につくってまで罵倒を繰り返していたことも、ネットのやりとりで殺人までいくことも、またその間ずっと無職だったことも依存症を根拠づける報道だと言っていい。

 

僕も前々回の記事で低能先生の件に関して言及したけれど依存症については書いていなかった。しかしふと何の気なしにオウム真理教のニュースを見ていたら低能先生の件とつながった。

 

オウム真理教の件は当時、高学歴だった若者が麻原に吸い込まれていった件だったが低能先生ははてなに吸い込まれていったと考えれば合点がいくのだ。くしくも低能先生も国立大卒の高学歴だったわけだが

 

基本的に人間は感受性の動物であり理性や自律心などははっきりと後天的なものだ。環境や境遇次第で上下する不安定な能力だ。うまくいっている時には物事が客観的にとらえられたりするがたとえば無職になったり、たとえば就活に失敗したりとうまくいかない時にはなにかにべったりと依存することがある。それは誰しもが経験があることだろう。つきあってたった3か月の恋人が世界そのものに見えたり新卒ではいった会社が世界のすべてに見えて過労死するなど様々ある。若者のほうがそういうものに吸い込まれていくことが多いが何も若者だけの話ではない。恋人がいない期間が長かったり労働経験が空きすぎたりすると人の経験は無意味化する。再童貞化などとも呼べるかもしれない。再童貞化すれば男子高校生のようにセックスが時に世界のすべてに見え、良い意味で言えば純粋な感受性に還ることがある。

 

そして厄介なのは感受性のまえには学歴や理性などはまったくブレーキにならない。人間は時にひどく受動的な生き物だ。

 

宗教に吸い込まれたり、あるいはテクノロジーに吸い込まれたりする。何に吸い込まれるのか、何に傾倒していくのかはほとんど運の領域なのかもしれないと2つの事件を見て思うのだ。オウムに関してもたとえば土谷正実死刑囚も筑波大学時代に恋人と別れなければオウムに入信することもなかったかもしれない。上祐も村井も誰もかれも運のないめぐりあわせだと言ってしまえばこれほど簡単な結論もないが事実としてそういう人になる「可能性が誰しもにあることは理解すべき」なのは間違いないと思う。

 

自分だけは無謬だと思っていたらいつかドツボにはまる。

 

さて

テキストサイト時代の名残か、なにかインターネットがリアルからの救いのような意味合いで語られることが多いのだがこれだけ普及率があがったいま語るべきはインターネットにたいする依存のほうではないだろうか。

昔のネットは回線が遅いぶん中毒性がなかったというか中毒になる回路自体が存在しなかった。いまのネットは矢継ぎ早にザッピングし永久に情報を追い掛け回すことができるようになった。それは便利になったといわれるが一方では人が依存しやすくなったと言えるだろう。

ネット依存はなぜか現在の総数が定かではない。2013年には271万人とされているので普及率と利便性を考えれば倍増かそれ以上にはなっていると推測できる。

低能先生は情報だけを見れば明らかに依存症だった。そして低能先生の事件は依存症という点からインターネット全体の事件と考えることができる。

 

人をネット依存にする原因はインターネットの様々なところで見つけることができる。

はてなで言えばブックマークに流れてくる記事の回転率、UIのなかでただひとつある赤色の通知

保守速報、Kazuyaチャンネルに先導されるネトウヨ

Youtuberの間のない編集と喋り

ツイッターの操作性と「世界性」

 

これらに吸い込まれていく人は誰しもがオウムに吸い込まれていった可能性がある。そう自覚し宗教と同時にテクノロジーにたいしての免疫を獲得すべき段階までもうインターネットの依存性はきているように感じる。

シンギュラリティーがやってくるなどと言われているが少なくない人間がもうすでに過去の人間が宗教で世界観を形成していったようにネットで世界観を形成するようになっている。あるいは単にネットに操作されているといってもいい。

それは依存といっていいのか定かではないがネットには戒律もなければ教義もない。単純化された思想の「ようなもの」が刷り込まれていくだけで多くの場合それは時間の無駄にしかならない、がネットが普及して十数年しかないゆえにそれを判断し感受性をコントロールする経験自体を僕達はまだ知らない。

オウム事件からカルトを忌避するリテラシーを学んだように低能先生の事件からネット依存の危険性を認識すべきだといえるかもしれない。

 

いま幸福に理知的にインターネットを利用できている人でもいつ再童貞化するかわからない。

その時に人を吸い込んでいくデバイスとしてインターネットはあまりにも身近だ。そしてそれは過去なにか救いのようにすら見えるもの「だった」のだ。