メロンダウト

メロンについて考えるよ

僕がポリティカル・コレクトネスに懐疑的な理由は価値観と一言で言っていい価値観など存在しないから

ポリコレもといフェミニズム文化左翼と呼ばれるような人達にたいして僕は若干距離をとって見ている。感覚的にもポリコレや似非リベには違和感がある。しかし感覚的な違和感とだけ書くとしょうもない個人の感想に過ぎないのですこし頑張って言語化してみたい。あ、この記事への言及です。

yossense.com

『ドラえもん』でLGBT差別な表現が……この時代にまだ「同性愛はキモい」と発信するか?! | ヨッセンス

自分はもとからポリコレには懐疑的だからこういう神経質な記事自体を否定するよ。あとでブログでも書くかも。

2018/08/12 17:10

b.hatena.ne.jp

 

まずおおざっぱに言うならば最近のポリティカルコレクトネスの議論を見ていると真面目がゆえに危険だと思っている。真面目さそのものが疑問視されることは少ないが真面目さは多くの場合において悪徳と言える。原理主義者が危険なのと同じだ。オウムがインドの仏典の翻訳に尽力していたのもイスラム原理主義者も真面目に宗教をとらえすぎるからおかしなことになる。真面目な人はいい人だという価値観が日本には根強いが僕はこれは単に真面目で危険な人を社会に組み込むための方言だと思っている。いいかげんな人のほうがいいやつに決まっている。詳しくは以前書いた記事があるので貼っておきます。

 

plagmaticjam.hatenablog.com

 

また、ポリコレなどの価値の議論において真面目さを伴って周知するとその価値観は必ず「形式」を帯びることになる。

価値観は周知する段階において(大規模になればなるほど)ワンフレーズ化し単純で短絡的なものになっていく。反アベや原発反対、差別反対などがいい例だろう。しかし価値観と一言で言っていい価値観など存在しない。ちょうどひとつ前の記事で言及した宮台真司氏がクソフェミなどを称して「言葉の自動機械」と呼んでいるがそれに近い。自動反射的に大義を持ち出して個別事案それぞれを考えない人間は以前は自動反射的にゲイは気持ち悪いと言っていたであろうことは確信を持って言える。つまり価値観の正しさなんてのは大した問題ではなく短絡的な思考に走るその様式こそが問題なのだ。最近のポリコレ界隈を見ていると明らかにその問題があると確認できる。

 

ポリコレを肯定するのであればおおいにすればいいと思う。ポリコレは価値としての正しさの側面で言えば正しいことのほうが多い。しかしそれを大義として持ち出すとなると話は別となる。個別事案には個別に思考する必要があってその思考の結果としてこれはポリコレ案件だなということは言える。個別で考える際にはそこになにがしかの現実の論理と価値観の余白(不真面目さ)が必要であって言及記事のように

「ポリコレは正しい、LGBT差別反対」という形式的なワンフレーズポリティクスを御旗にして外れているものを批判するような方法は支持できない。なぜならそれは原理主義者と本質的に同じ思考様式を取っているからだ。

逆にこれがこうこうこういう理由で僕は差別だと思うという記事であれば有用である。ポリコレという大義にあてはめて対象を批判するというのは価値観が間違っているのではなく方法として間違っている。

以前、男性はみんなフェミニストになるべきという漫画がばずって炎上していたことがあるがあれも同じことが言える。

またイスラム教もひとつの正しさとしては正しい、けれど使用用途を間違え他の価値を排除するほどに正しいと考える思考は正しくない。

 

まとめると真面目さによって疑義がなくなって周知の段階において形式的になった価値観を「使用すること」はその価値観がいかに正しかろうが正しくないということである。

問題は常に個々人の思考プロセスの中にあって短絡的な価値観に飛びつきそれを発信する人は瞬間的には承認を得るが正しさに酔い必ず間違うことになる