メロンダウト

メロンについて考えるよ

個人主義と恋愛とリベラルと

シロクマさんの記事に関して

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190624/1561360692

近代化ゆえの自由、自由ゆえの個人主義個人主義ゆえ僕達は恋愛しなくなったと書かれている。これが自然を超克した文明の帰結であって望まれてきた世界であるといった結論でしめられているけれど皮肉めいている。数年、シロクマさんのブログを読んでいるが彼は精神科医という立場でありながら今の社会における人間の自然状態において違和感を持っている人だと個人的には認識している。間違ってたら申し訳ないけれど。ブログ記事を読むにシロクマさんは心療的というよりはたぶんに社会学的な側面も有している人物だと思う。

恋愛しないでいられる世界は個人主義がいきわたった世界で、ある意味では理想郷だといった文章を読んで思い出したのだけれど

リチャード・ローティは「リベラルユートピア」という言葉を使っている。

 

他者が被る残酷さ(LGBT差別、黒人差別、女性差別、部落、在日等々)にたいして同情しうる僕達の「感性」を拡張することによって真のリベラル的連帯は達成できると書いている。

シロクマさんが書かれていた恋愛しなくなった個人主義社会はローティのいうリベラルユートピアとはすこしズレがある。ローティは他人が被る残酷さ、悲劇を共に解決しようと試みる感性が真にリベラル的な感性だと説いている。しかし恋愛しないで個人で生きている他者に干渉しない無干渉主義をリベラル、あるいは近代化と呼んでいいのだろうか。それがこの記事の主旨である。

今、巷で言われている個人主義は単に「切断主義」とでも呼んでいいものではないだろうか。リベラルとは本来、他者を切り離して語ることを至上とする思想ではないはずだ。自らの経験による理解では及ばない他者を想像することで自他を拡張して仲間として解釈する思想であったはずだ。自由とは個人主義でもなくましてや無干渉ではない。他者が自由であることを自己にひきつけて想像する思想であったはずだ。他者が自由であることを認めることから自己も自由でいられるといった相互作用がもととなる思想であったはず。ローティはその意味で自由を論ずる時に(保守陣営が金言とするような)「感性」という言葉を用いている。他者が被る残酷さを想像しえない限りリベラルではない。個人は個人、だから自己責任というのはリベラルとは程遠い。

 

ところでみな恋愛をしなくなった。それは自分のまわりでもそう思う。僕が学生だった時はまだみな恋愛に躍起になっていたと思う。恋愛していない人も恋愛したいということを暗に言っていたし恋愛そのものから距離を置くような人は少なかった。僕自身もそうだった。学生の時にはなんだかよくわからないうちに恋愛に「巻き込まれていた」と思う。詳しくは書かないけれど。大学という共同性がある環境が個人を巻き込んでいたのだと思い返せる。僕も友人に女性を紹介したりしたこともある。そういう相互扶助的な恋愛が学内では存在していた。当時はそれが自然であり当たり前のことだと思っていた。人間はみな恋愛をしたいと勘違いしていた。勘違いではなくそれが共同体における真実だったのだろう。そういう「重力」があった。重力といってもプレッシャーとはまた違ったように思う。不文律とか自然状態とか共同幻想とかコモンセンスとかそういう言葉のほうが近い。強制はしないけれど従うことに嫌気がない因習とでもいうのか、そういうのが自然にあった。

社会人になるとそういった共同性は限定されている。共同性がないと幻想もない。幻想がないと人は恋愛をしなくなる。

僕自身、経験的にそう思う。大学時代のように共同幻想的に恋愛していたほうが自然状態に近かったような感覚がある。他律的であるゆえにむしろ自然という矛盾に違和感がなかった。思い返せば大学の時にも誰かを好きになったりすることは状況に即した勘違いであったとすら思う。恋愛は自発的ではなく幻想的であるほうが自然であるし個人が自発的に恋愛しようという動機は性欲以外にないとすら思う。それでも誰かを幻想的に好きになったりすることは尊い。それでもそれはともに過ごした時間の経過に応じて自己と相手を切り離せなくなった「恋慕」でしかないのではないか。恋愛が自発的であるというのは僕は嘘だと思う。恋愛は個人による内発性によっては開始しない。共同的な幻想の「上」にたつものだと確信している。

 

しかし社会人になると大学の時のように誰かを巻き込んでその人を変化させるようなことはすべて「余計なお世話」扱いされる。端的に言えば近代化したこの世界におけるルールは「法律に触れない限りにおいて個人は共同体よりも優先される」である。

となれば共同体は成り立ちえない。個人が恋愛をしないという選択をする限りにおいて共同体が当該個人を恋愛に駆り立てることはこの社会のルールにもとるからである。であれば共同性の上に成り立つ恋愛が始まるわけがない。

はじまるとすればそれは性欲を解消しあえる関係が奇跡的に開始した二人がそれを恋愛だと勘違いしうる時間を経たのちに「結果的に」お互いがそれを恋愛だと幻想することによってのみである。

元来、幻想である恋愛が開始するには事前の段階において幻想を共同的に構築する必要がある。しかしこの社会において共同的な幻想はそれ自体が悪とみなされる。結論として恋愛は事後的にしか成立しなくなった。

性欲にまかせて肉体関係を結び時間経過とともにそれを恋愛と呼ぶこと、経済的理由により結婚する社会人男女が時間経過とともにそれを恋愛と呼ぶこと。

今は独身か既婚者かという社会からの要請も機能しているがそれも将来なくなっていくだろう。将来的には上述した2つでしか恋愛ははじまらなくなる。

 

共同体が消えることで幻想も消える。「個人」は恋愛などしないのである。

性欲は即物的にAVでも見て解消するほうがはるかに合理的である。経済合理性で言えば子供を産むなど愚の骨頂である。幻想が機能しなくなり他者に干渉できなくなった社会において、誰が原理的に幻想でしかなく他者にたいする最大の干渉である恋愛をするのだろうか。しかしその個人主義はリベラルな社会ではない。

リベラルユートピアとはそういう意味では本来なかったはずだ。

個人主義はけっしてユートピアではない。リベラルは元来、他者への想像力を喚起することでしかない。個人主義を提唱してもいない。それはリベラルを恣意的に使用するリベラル使用主義者の戯言でしかない。人間は原理的に共同的ないきものであって個人ではありえない。個人は個人でいい、しかし他者を想像するのと同様に共同的な幻想も同時に「想定」するべきである。