メロンダウト

メロンについて考えるよ

ワニと倫理と虚構と虚像

100日後に死ぬワニについてだけど

なんか似たような騒動あったなと思って考えてたんだけど、元NMB48の須藤凜々花さんが総選挙で結婚発表したのがそうなのかもしれない。

自らの認知する枠の外にはみ出してしまうと驚きや失望などいろいろな感情が湧いてくる。アイドルの恋愛スキャンダルやぬいぐるみペニス問題なんかもそうかもしれない。自分がこう思いこういう形だとある種、盲目的に信じている物・人が実はそうではなかった衝撃は思いの外大きい。というか思いの外だからこそ大きい。

 

件のワニについてもツイッターで無償提供されている漫画で商業とは離れた創作だと読者は信じていたのだろう。それが突然、実は商業物でしたと言われれば驚くのも無理はない。だからみな批判しているけどしかしそれってアイドルは恋愛してはいけないと言っているのと何が違うのだろうか。

正直、件のワニについてまったく思い入れがない僕から見ればアイドファンがアイドルに怒っているのとまったく同じに見えてしまう。アイドルも人間で人間である限り恋愛もするということを認知していないアイドルオタク。そして無償提供されているフィクションが商業とは離れていると信じている読者は同じにしか見えない。

ladyjokerさんのブログで怒りという言葉が使われていたけどアイドルオタクもアイドルが恋愛したら怒る。恋愛しないって言ってたじゃん、と。それと何が違うのだろう。

人間を聖域化するのは許さないのにフィクションを聖域化するのはダブルスタンダードではないのか。フィクションだって金欲がある人間が描いたものである。

死んですぐに商業化するのは読者のことを考えていないというのであればアイドルもファンのことを考えて恋愛するべきではないと言わなければならない。しかしそれは愚かな発言だろう。

 

僕自身もフィクションが(あるいはアイドルも)現実の人間に影響を与えるほどの力を持つと思っているけれど、それはそういうこともあると限定的にとらえている。だからなんの感慨も湧かない作品を読んでも僕には影響しなかったなと思うだけだしワニが死んで商業化されてもそういう物だったのねと思うだけだ。この記事を書くにあたって100日後に死ぬワニを全話読んだけれどいい作品だと思った。そしてそれを商業化するのが許せない気持ちもわかる。しかしそれは単にこちら側の認知とはズレていたというだけの話で済まさなければいけないとも思っている。人は自分の期待とは全然別の認知で動いているのだし人間によって作られたフィクションも同じである。

それが倫理的ではないという批判は可能だがそれにたいして「怒る」ことは完全に筋違いと言うべきだろう。それはアイドルが恋愛してはいけないと言っているのと同じで恋愛しないという契約によってアイドルとファンの関係は成り立っていたのだからとこちら側が認知していたのと同じような話だ。100日後に死ぬワニは無償提供された漫画で100%作者が死について書きたかった作品で読者もそういう期待と契約のもとに読んでいたとこちら側が勝手に思っていたにすぎない。

それが突然梯子を外されたからといって怒るのは筋違いだろう。アイドルも人間である限り恋愛するのと同じくフィクションも人間が書いたものである限り商業化してもいい。アイドルをフィクションに変えた途端どこかリベラルめいた言動になるのはよくわからない。どちらも相手との距離感を間違えた人間の愚かな言説に見える。

タイミングが問題だという指摘はあるだろうけれどすごく単純に言ってしまえばそんなものは作者の勝手なのではないか。追悼機関を設けてから商業化すべきというのもよくわからない。

というか商業化してもしなくても作品内の描写から受け取れるものを受け取ることがフィクションにたいする正しい姿勢なのではないか。商業化するようなクズが書いた作品には価値がないというのであれば

過去にいじめをしていた吉本隆明思想書を書いて正しさを書いているのも許せないとなるし、イソップ物語も一見正しい人間を描いているようだがそれは従順な奴隷像を描くことで自らが奴隷から解放されるためだったりした。作者がクズな作品など無数に出てくる。文豪と呼ばれる昔の作家など現在の倫理観で言えばほとんどがクズである。しかしそれが彼らの作品を貶めるわけではない。こちら側のとらえかたひとつである。

作品がつくられた動機や作者の現実がどうであれ「とらえようによっては」その作品は読者に刺激をあたえてくれるものとなる。吉本隆明がいじめをしていたとして彼が正しさを語るのは不誠実にうつるかもしれないがその先入観を持って彼の書いた文章を読むのはおそらく間違っている。100日後に死ぬワニも商業化したからなんだというのだろう。それでもその作品が好きな人は好きだしそれでその作品から離れる人は離れればいい。みんな勝手に書いて勝手に読んで勝手にとらえればいい。それが表現の自由というやつだろう。

コロナウィルスと国家の脆弱性といろいろ

田原総一郎さんがいつかの番組で戦争を知っている世代と知らない世代とでは物事の受け止め方や考え方が違うといった趣旨のことを言っていた。同じ種類の言説は他にもあって会社の教育担当がゆとり世代に向けて今の若者はこらえ性がないというのもよく言われていたし、林修さんも侍の肖像画をひいて今の日本人とは顔つきが違うというようなことを言っていた。

実際、環境によってその人間に耐性ができていくことは少なからずあると思う。環境に順応することによって社会的免疫が醸成されていくのは感覚としても人間の機能として備わっているんだなと実感する時がある。

戦争を知っている世代と知らない世代とで物事の考え方は決定的に違うのだろう。人はたやすく死ぬことを実感して生きるのとのっぺりと平和に生きる人で考え方が違うのは当然だ。僕達はおそらく過去生きたすべての人間よりも繊細でもろく傷つきやすいほど平和な時代を生きている。パワーハラスメントに悩んでいると昔の人が聞いたらきっと一笑に付すだろう。過去と比べて平和であっても平和のなかの比較で言えばパワハラは問題になる。僕達はきっと弱くなっている。個人としても社会としても、あるいは国家としてさえも。

 

コロナウィルスについては門外漢でニュースで知るような情報しかもっていないので書くことはないけれど、社会的な観点で言えば今回のコロナウィルスで明らかになっているのは国家という形態およびグローバル経済の欠点、そして僕たちの社会的免疫力の脆弱さの3点が挙げられるかと思う。

国家は会員制のバーのようなもので日本国籍を持った人間は税金や保険料等を会費として払えば国家は国民の生命、自由、財産を守る義務を負うという建付けになっている。

なので今回のような緊急事態になると国家は国民の生命を守る義務を負うことになるけれど問題は生命をまもるあまり経済とのバランスが取れなくなるところにある。実際、今回のコロナウィルスによる騒動でダウを中心に株価が暴落しているけれど今の経済活動、特に金融やITはグローバルになりすぎてて今回のような騒動になると全世界を巻き込んだものになってしまう。アメリカの一企業であるリーマンブラザーズが破綻したことが全世界に不況をもたらしたようにグローバル経済は一国家、一企業の影響をいとも簡単に受ける。ギリシャが経済破綻した時にヨーロッパが混乱していたようにもはや全世界がヨーロッパでありすべての国家がギリシャとなりうる世界で国家が国民を守ることは条件的に難しくなってきている。

今回の騒動を受けて日本は学校を休校にしたり世界中で渡航禁止になっているけれど経済の停滞による倒産および失業は止めようがない。経済的理由による自殺者も出てくるだろう。

 それによって明らかになるのがグローバル経済の脆弱さである。今まではグローバルに経済を拡大してとにかくスケールを広げて人も金も物も集めて最大効率で生産するのが最も合理的だという幻想のうえにたっていたがその幻想はリーマンブラザーズによって破壊された。

今回のコロナウィルスで明らかになるのは国家の脆弱さだろう。国民の生命を守ることを義務として課されている国家は経済的な損失を無視してでも国民を守る義務がある為、短期的な見通しによって政策を打ち出さざるを得ない。学校休校やイベント自粛などが日本でも行われているがこれらが株価に影響し実体経済へ連鎖した時に発生する自殺者数はウィルスによる死者数を超えるかもしれない。

リーマンショックの時にどれだけ自殺者数が増えたかといった記事がある

https://www.ibtimes.co.uk/2008-financial-crash-blamed-6566-suicides-1666555

36の国でサンプルをとった結果、トレーダーの自殺者は6566人増えたという試算となるみたいである。現実にはトレーダー以外の失業者などの自殺もあるのでもっと増えるはずだけど。

今回のコロナウィルスによる株価の暴落率は現時点ですでにリーマンショックの時を超えているし生産活動もストップして労働収入がなくなった人もいる。あらゆるところへの渡航も各国で禁止されていることを考えるとリーマンショック以上の被害になることはほぼ間違いないだろうと思っている。

それでも国家は今の国民の生命を守る義務があるので「将来において経済活動の停滞から自殺する人が発生する危険があるので国民の皆さんは今ウィルスにかかるかもしれない状況で働いてください」と言うことができない。それが今回のウィルスで明らかにになった国家の脆弱さだと言えるだろう。

 

これだけの騒動になったことはここ十数年ないのではないだろうか。東日本大震災は一瞬ですべてが飲み込まれて損害としては莫大すぎたけれど地震は「過去起きたこと」として処理された。ウィルスは未来への不安であってこれだけ人々の不安を喚起するものはほとんど記憶にない。北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれないってことは報道されるけれど日本人の感覚からすると「またか」で処理される。疫学的にはSARSやMERSのほうが感染した時には恐ろしいのだろうけれどこれだけひろがるとコロナウィルスは現実的なレベルで生命への不安を煽るものとなった。

そして僕達はそれに耐える社会的免疫をおそらく持っていない。なぜなら戦争を知らないからだ。

マスクを買い占めるのも予防と言えば聞こえはいいが一般的なマスクではウィルスに感染するのを防ぐのにほとんど効果はないみたいでそれは連日報道されている。しかしマスクはどこにも売っていない。

 

飛沫による感染を防ぐのであれば誰かと話しをする時にはお互いが明後日の方向を向いて話すほうが有効だし接触感染を防ぐのであれば手洗いを徹底するほうが有効だと様々な情報を見ていると知ることができる。マスクはあまり意味がない。しかし問題はマスクが売っていないことではなく意味がないマスクを買い求めるほどに不安な心理のほうである。僕達はこういう生命の不安に対処する心理的な術をほとんど持っていない。だから不安を埋めてくれるものをアウトソースする。その象徴としてマスクがあると考えたほうがむしろしっくりくる。

どうあっても感染する時には感染する。ダイヤモンドプリンセスの乗船者の感染率の高さからも非常に怖い。だからといって全員が家にひきこもろうと言いたいわけではない。引きこもったら物流もインフラもなにもかもストップするからそういうわけにもいかない。社会や経済活動を維持しながら同時に生命の不安やリスクに冷静に対峙すべきである。そのためにはきっと覚悟のようなものが必要でそれが田原さんや林修さんが言っているような社会的免疫力ではないかと思っている。

もちろん覚悟なんか持ったって感染する時にはするので意味がないと言えば意味がないけれど心理的な不安に対処することに関してはすくなくともマスクより効くことは間違いないと言えるのではないでしょうか。

男性の息苦しさは多様性では救えない

仏教の経典に「受想行識も苦なり」「一切皆苦」「色は苦なり」

などあるけれど男性の息苦しさは社会がどのように変化しようともなくなりはしないのだろう。

社会の外部条件によって男性のロールモデルが変化し、求められる男性性が変わっていることは確かにあると思う。

ブレイディみかこさんもどこかの記事で「今はアフォードできる男性が求められている」と書いていたしこちらの記事

gendai.ismedia.jp

に書かれていることも社会が変化した以上のことは書かれていない。社会が変化して求められる男性像が変わったことにより男性は適応を求められるようになったは僕の実感としてもそうだと思うしまったく同意する。

同意するのだけどそれはそれでどこか幼稚な思想のようにも見えてしまうのだ。

一昔前に「あるがままでいい」や「ありのままでいい」とか世界にひとつだけの花とか流行った時期があった。上記記事で書かれていることはその「ありのまま生きられない問題」に近い。

社会の条件が変化しても求められるロールモデルも変わっていく以上、結局は適応勝負になってしまい男性の息苦しさはなくならないのは、それはそれでその通りだと思う。

 

だからありのままでいい。ありのままで生きて多様性を認めてみんな個人のまま生きていこうは正しいように聞こえる。それこそが我々男性を男性性から解放する唯一の思想なのだとみんな言っていたし今でも言われている。多様性というのがそれだろう。しかしそれは言説や音楽として正しくても現実に落とし込んだ場合、途端に何を言っているのかわからなくなる。

人はみな現実において限られた条件の中でなにかを選択して生きていかなければいけない。その中で主観的な選択を迫られる場面が必ずありその時に多様性という言葉は何の役にもたたない。ニートがいいからニートでいいというわけにもいかない。バンドマンが音楽で食べていくんだと言ってもそうはいかない。40過ぎて48グループにはいってアイドルをやるんだといってもそうは問屋が卸さない。

ましてやそういう志しがある人間のほうが少数派ですらある。誰もが人生において夢や自己実現を追うような物語を持っているわけではない。なんのチェックポイントも持たず物語を得る機会もないまま大人になった人だっている。

そういう人にとって多様性や自己実現やありのままという言葉を叩きこんだとしてもそんな言葉にどれほどの意味があるのだろうか。

多様性や夢や物語がない人でもそれでも生きていかなければいけない。そういう人にとって最終的に残された指針として男性像だったりロールモデルが残されることになる。

主観的なレベルにおいては多様性やありのままという言葉はなんの影響力も持たない。多様性は常に外の世界を見る視点として理想的だと語られるに留まる。支配的になることはない。人間は自分の見ている世界の認識でしか世界を想像できないのだから。主観的なレベルにおいて多様性がいかに無意味な言葉かという戦慄を持った無垢の弱者にとってすれば外の世界を見る時にも多様性は無意味なものに見えて当然なのだ。

人間は外部と内部を切り離して認識できるほど上等な生き物ではないし外部の世界を語る時に内部の経験を引っ張り出して語ることのほうが多い。外部を切り離して「やっぱそりゃ多様性だよ」って語るほど多くの人間は愚かではない。内部の経験を引き合いに出して現実はこうだよと語るほうがむしろ普通であり説得力すらある。そうやって個々人が内部の経験を引き合いに出すとひどく主観的なものになり多様性に反するものしか出てこないので識者達が「今の世の中は多様ではない」などと言い出すことになる。

 

人間がこの世界に生きている限り、現実からは離れようがない。その結果、程度問題としてみなリアリストになり結果としてみなが「適応が一番だよ、多様性なんてなんの役にもたたない」と言うことになる。そして僕はそれは当然のことだろうと思う。

みながみな多様性だよと言う世の中のほうが気持ちが悪い。みんな自分の経験の範疇で語れることを語るほうがむしろずっとありのままだろうと思う。その結果、わけのわからない男性像や息苦しいロールモデルが生まれることになろうともそちらのほうがむしろ好ましい。ありのまま生きれる人は「多様性を発揮できる限定的条件のもとに生まれた幸運な人」であるだけである。物語など必要ない。人間は産まれて死ぬまで生きなければいけない。

そこに物語があろうとも、なかろうともだ。