メロンダウト

メロンについて考えるよ

誹謗中傷について

トイアンナさん久しぶりに見た。

toianna.hatenablog.com

 

誹謗中傷VS反誹謗中傷とあえて言うけれど、インターネットの特性として誹謗中傷しやすい機能が備わっていることは間違いないと思う。

勝間和代さんとひろゆきが対談してたテーマもまさにこれだったけれど、こんなもん誹謗中傷はいけないに着地するに決まってるんですよ。しかし2ちゃんねるのころから議論されていたこの議論はいまだに終わっていない。いまだに誹謗中傷する人はいる。自分もされたことがあるけれどこんな泡沫ブログにすら誹謗中傷マウントコメントがくるのだから有名な方のそれは推して知るべしというところだけど。

貼っておきます。顕名にすれば誹謗中傷は減るという議論だけどそうはならなかったですね。なんすか写像って(笑)

www.youtube.com

 

勝間さんは運営がある程度管理するべきという主張の一方でひろゆきはネットも単なる場所でしかなく飲食店と変わらないという主張をしている。ひろゆきは飲食店で殺人事件が起きても飲食店に罰則や責任を求めるべきではないという主張で勝間さんはネットの環境的要因=匿名性が誹謗中傷を誘発する原因になると言っている。

僕は勝間さんの主張に賛同する。実際、ネットの匿名性と即時性によって誹謗中傷をしやすくなることはあると思うからだ。それは感覚的にもわかる。誹謗中傷ではなく批判にしろという意見もあるけれどなんで見ず知らずの他人をわざわざ批判して諭さないといけないのかよくわからない。実際、現実にも喫茶店で見ず知らずの人にアムウェイに勧誘されたことがあるけどそういうのはやり過ごすに限る。はっきり言えば知ったこっちゃないのである。そうなるとネットでおかしなことを言っている人にたいしても一言で「あいつは馬鹿」とアムウェイ的に処理しその容易さに頼りそうになる。テラスハウスの彼女にたいしても彼女がリアリティーショーに出てる愚かな人と僕がアムウェイの人を見たような感覚で見ている人がいるのだろう。彼女にたいして直接的に罵倒していた人もそういう感覚なのかもしれない。違いは黙ってやりすごすかアムウェイは社会悪だと諭すことが公共的だと思うかの違いでしかない。ネットで誹謗中傷している人に関しては単純に愚かだという可能性のほうが高そうだけど。

やり過ごせばいいのに誹謗中傷してしまう人がいることが問題でそれをやらせてしまえる要因としてネットの匿名性とツイッターの即時性があるのは間違いない。

すごい簡単に言えば目の前に人間がいたら誰もそんなこと言わない。ゆえにそれをやらせてしまう環境に問題を求めることは当然の論理である。全部実名にすれば誹謗中傷など激減するけどそうはできないでいる。ならば次善策とやりすごす方法について考えなければいけない。

 

結論から言えばブログが主流だったころは健全だったのだと思う。主義主張は違えどそのすべては批判足り得ていたし長文になると一応の論理を構築しなければいけないので人格批判はできない。人格批判した瞬間にその文章は破綻するし「あいつは馬鹿」系の意見は書く前に書き手がバカバカしくなってやめるからだ。仮にこのブログに一行で「あいつは馬鹿だ」と書いたとしてもブログでこんなこと書いてるおまえのほうが馬鹿だと切り捨てられる。相手の心まで届かないから切断処理できる。そういう「見方ができる」ことが重要だったのだろう。ブログにはフィルターがかかっている。

「ブログで」ということが重要だったのだ。わざわざブログで書く労力を費やして時間をかけて書かれたものは読む価値があるけれどツイッターのつぶやきは読む価値がない。ツイートには上述したようなフィルターがないので誰でも感情のままどんなことでも書くことができる。誰もがどんなことでも書くことができるからここまで流行ったのだろうけれどそれは資本主義的なものでしかなくそれがすなわち人々をつなぐものとして「ふさわしい」わけではない。

UIを無視してデザインするなら500文字以下の文章は投稿できないようにするのが倫理的にはふさわしいSNSだと言える。そうすると当然誰も使わないのでマネタイズとして失敗するけれど便利さとはつまり悪性と等価であり、悪貨は良貨を駆逐するのを地でやっているのがツイッターその他主流のネットサービスなのだろう。

ブログのほうがはるかに良貨だと僕なんかは思う。わざわざ長文で書く痛い奴というカウンターをツイッターではよく見るけれどわざわざ長文で書くというフィルターの重要さをツイッターなどの短文SNSに疲れた人は知るべきだと思う。

数秒で脳内に電気が走り数十秒で見ず知らずの他人が書いたものに読む価値があるわけがない。そう考えればツイッターなどの「コメント」がゴミでしかないと切断できる。ブログ的に考えればいい。ブログにのせた時にゴミに見えるコメントはすべてゴミなのである。

Re: 発信するということ

検察庁法改正案に関して著名人が抗議ツイートしてそれにクソリプがつくという事態および村本さんが書いていた「発信するということ」についてだけど

note.com

自分も似たような記事を書いたことある

plagmaticjam.hatenablog.com

 

この手の話は定期的に出てくるもんで芸能人だけでなくグレタ・トゥンベリさんの時や中学生を装って選挙のPRしていた大学生もそうだった。

村本さんもそうだった。朝まで生テレビ井上達夫氏や小林よしのり氏に愚民扱いされネットでは袋叩きにされそういう叩き潰しがいかに「効く」か体感としてわかっているのでしょう。

あの時ははてブでも村本さんが無知だと袋叩きにしてたけど今回の記事には肯定的なコメントが散見される。はてブダブルスタンダードは今に始まったことではないのでどうでもいいけれど普段叩きつぶしてる側が何を言っているんだと思わないでもない。彼が言っていることは朝生の時から変わっていないのに。今回の記事にあるような無知の知を朝生で憲法学者相手に地でやっていて「1から説明してください」と言っていた。彼のスタンスは昔から変わっていない。

 

僕は過去記事でも書いた通りおおむね村本さんの意見に同意するのだけど同時に政治をそうやってソフトな場所に変えていくことにたいして疑問も持っている。いわゆる表現の自由的に政治的な発言も表現みたいに取り扱うことには反対したい。

ツイッタークソリプしてる人は論外だけどクソリプはただのマウンティングでしかなくてそれとここで議論されている政治的無知はまったく別の問題であると思う。いわゆる教養やリベラルアーツの問題に近い。

今の政治論壇は横割りになっていて上から物を教える知識人とそれを拝聴する民衆みたいなことになりがちである。知識人は自分がどれだけ知識があるかで価値が決まりそれに応じてメディアや執筆の仕事がくる。ゆえに公の場で「知らない」と言うことができない。あるいはコメンテーターもそうだが何か発言しないと仕事にはならないので頓珍漢なことをいってひんしゅくを買うのをよく見る。 

その言葉をメディアで聞いている人は自分に都合の良い発信者を見つけて誰々だから信用できるというランドマークをたてることによってほとんど盲目的に信じることになる。その出会いがほとんど偶然であるにも関わらずだ。例えば虎ノ門ニュースだったり、NewsPicksだったり偶然出会ったメディアでそれらしいことを言う知識人を見つけ「彼、彼女は頭がいいし信用できる」と思うようになる。そしてそのメディアを見て政治を情報としてインストールすることによって自分は政治リテラシーが高いんだと自負する。その自負を持ってしてきゃりーぱみゅぱみゅに「無知は政治的発言をするな」と言うのだからなんだか地獄めいている。

 

そもそも政治は情報でどうにかなるものではない。もちろんエビデンスや歴史など知識として必要なものもあるがそれですべてが計算可能ならいまだにケインズ主義と自由主義が反目していたりする理由が説明できない。あるいは単純な右と左でもそうである。個人の感情が違ければ政治的なスタンスも違う。個々人によって世界の見方が違うので当然そうなる。しかしその世界の見方、政治的スタンスが本当に自ら考えたものであるのかは疑うべきである。それは誰かに与えられただけのものなのではないか、と。

政治のみならず文系学問の多くは答えを出しにくいか、もしくは永久に答えが出ない類の議論がほとんどだ。その点でいわゆる科学的な意味における無知の知と政治的な意味での無知の知は分けて考えるべきである。

科学的な文脈における無知の知は「自分は知らないことのほうが多いから知りに行くべきだ」というふうに読める。あるいは好奇心こそが大切だと素朴に言うこともできる。一方で政治的な無知の知は「自分は知らないことのほうが多いから知りに行くべきだ」までは一緒だが文末に「知りに行ったとしても永久に知ること=答えを見つけることはできないかもしれない」と付記される。

だからといって全員が無知で政治的知識なんてものは勉強せずに私利私欲で発言していいんだとはならない。そのバランスが難しい。ちょうど検察が話題だけど検察の独立性が担保されることによって汚職を防ぐ機能として働くのと同じようなものだ(もちろん完全に独立させた場合、検察自体が独裁的になるので逆に国家や国民による監視も必要)。あるいは三権分立によって国会、内閣、裁判所がバランシングされるように政治的発言においても個人の独立的な発言は許されるべきだがバランスは必要である。右寄りの発言をしたら左の人から批判される「べき」であるし逆もしかり。単に無知の知として民衆は自由に政治的発言をしてもいいということはほとんど片手落ちの考えだ。政治は常にバランスの上に成り立っていてそれは個人の発言に関しても同様の措置がとられるべきである。そうしなければすぐ知識人が啓蒙した思想に染まり先鋭化するようになる。その点で自由な発言は大事だが同じくらい批判も大事なことだと言える。

 

なぜこんなことを書いているかというとつまり政治をライトに議論ができる場として開き自由に発言することが大事なんて言うと自由主義に敷衍されて逆に振り切れることが目に見えているからである。今でもすでに先鋭化していて右は右、左は左で固まっている。誰しも批判はされたくないので当然の現象だけど上述したように政治は常にバランシングされるべきでその点で自由に発言し、自由に批判を回避していいんだと言ってしまうことは弊害を生むのではないか。そんな危惧がある。

政治について何も知らない人が政治的発言をするのは完全に自由だがそれを持ってして何を言ってもいいとはならないしなるべきではない。叩きつぶしてもいいけど叩き潰されるべきではない。つまるところ強くあるべきだなんていうとマッチョイズムみたいだけどそうでもないとこんな不毛な文章は書けないのである。

社会から降りる方法はないけど自由の意味を考えることならできる

シロクマさんが社会から降りることについて書いていてすこし思うところがあるので書いていきます。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

社会から降りるっていうと古くは学生運動から派生した新左翼共産主義同盟、高度経済成長後期のヒッピーやフリーター、最近だとさとり世代などが挙げられると思うけれど

彼らの誰もが結局は社会から降りることができなかった。どんな主張も資本主義的な設定に組み込まれコンテンツと化してしまうことで資本主義に包摂されてしまう。それ結局競争だよね、と。あの人たちは反資本主義で競争していたよねとどのみち競争原理にさらされてしまう。

社会から降りるというのはことさら難しい。昔、テレビで完全に社会から降りて無人島に一人で暮らしている老人を特集していたが、その人も家族から物資を送ってもらっていた。無人島は極端な例だがむしろ無人島に行ったりして身体的に社会から降りることのほうが容易ではないだろうか。

多くの人が望むように精神的なレベルで社会から降りることは無人島で暮らす以上に難しい。

 

人類は地球上で最も繁栄しているが全生物の中でも生まれた時には最も無力な生物として生まれてくる。動物は本能的な機能が備わっており一部の例外を除いて鳥は生まれながらに飛び方を知っている。魚は泳ぎ方を知っている。

人間の赤ん坊は何も知らない。何もできない。ただ泣き叫んで助けを求めるのみだ。

何も知らないゆえにすべてが外部によって決定され教育や文化が違えば全く別の動物になっていく。つまり生まれた時から適応を運命づけられている動物が人間という生き物だと言える。

 

僕達は大人になって時にそれを否定しようとする。人間には自由があり社会と個人は関係しているが同時に切り離されているべきだと。最近だと多様性などがそれにあたる言葉かと思う。しかし、そう考えるのであれば生まれた時のことをどうやって否定しうるのだろうかという問いも同時にたてなければいけない。個人は個人であるべきだと僕達は言うけれどそれはそういう環境にさらされた結果生まれた適応に過ぎないとも言える。過去は過去、今は今だというふうに切断処理することもできなくはないけれどそれは同時に未来における適応を捨てるということにはならないだろうか。どうあれ人間は外部からの影響によって行動も思考も形作り、自由でさえも自由が大事だという後天的な教育によって獲得したものである。その自由をもってして適応を捨てるというのは論理的に矛盾する。自由が大事だと教えられた瞬間に自由は適応に成り下がるのだ。

 

自由とはことさら難しい。前記事でも書いたフロムの『自由からの逃走』によれば人間は自由と反自由を行き来する動物であると書かれている。自由に逃走し、自由からも逃走する。自由こそが近代人の心理的な監獄だと。

僕達は自由を欲する。時に社会から降りたいとすら思うほどに。しかしフロムによれば自由を得た人間は同時に孤独をも連れて行かなければならなくなると書いている。その孤独に耐えかねると自ら選んだ自由を手放し逃走するようになる。この心の動きはベタな話からもわかる。仕事をやめて無職になった当初は昼ビールうめえええなどと感じるけれど一か月もすればどうしようもない孤独感に襲われる。海外に自分探しに行って自由を得たような気分になるが夜に星を見上げたらむなしくなって何してんだろと思ったりする。みんな似たような経験があるはずだ。つまりてきとうにはじめたような自由には賞味期限がある。自由が欲しくなったりやっぱり自由なんてろくなもんじゃないと思ったりそうやって迷うのが普通だ。

それでも僕達は自由が大事だと思うし実際、自由は大事だ。しかしもっと注視すべきは自由の意味のほうである。

フロムによれば自由の意味は社会構造と連動している。社会構造がその社会からの自由の意味を決定する。たとえば日本は男尊女卑的な社会構造がある(もちろんこの議論は別にあるが仮に)とすれば日本における自由の意味はジェンダー問題となる。あるいはアメリカでは人種からの自由がある。どの社会に所属するかでその人が言う自由の意味は変わってくる。日本社会から降りたいという意味であれば広義には資本主義から降りること、狭義にはわけのわからない企業風土や競争から降りたいとなる。どのフェーズでとらえるかでも自由の意味は変わってくる。その意味で一口に自由と言っても関係している社会構造、そしてフェーズがわからないとなんとも言いようがない。つまり自由とは普遍的な価値観でもあると同時に可変的に考えなければならないものだと言える。

ここで問題となるのは自由が先にあって社会構造が先にあるかという問題だ。鶏が先か卵が先か。社会構造が自由の意味を決定するのか、自由が社会構造を決定するのか。この問題についてフロムは「巡っている」と答えた。どちらもどちらに関係し影響を与え続けることで循環していると。

上述したように僕達は無力な状態で生まれてくる。その戦慄からは逃れようがない。社会構造からつくられた教育およびその環境への適応によって自由とは何かを僕達は考えざるを得ない。そしてその自由を社会構造に還流していくことで巡るのだ。つまり社会から降りたいと言う人がいることは自由の意味を再設定する機能として社会全体において必要なことである。それでも教育された価値観からは逃れようがない。僕達は自由が本当のところなんなのかを知らない。なぜなら生まれた時から人間は適応するしかない動物だからだ。社会からは逃れようがない。しかし僕はそれでいいと思っている。社会でうまくやって生きているような人だけが必要なのではない。それは単に順応に過ぎない。順応だけが適応ではない。社会に反応することもまた適応なのだから。