メロンダウト

メロンについて考えるよ

それいけコロナちゃん

人「君、今たいへんな騒ぎになってるよ」

ずいぶん遠くからそう言われた気がした。目を開けると不思議な光景が広がっていた。私を中心に走り回る人。私を中心に動く世界。私を怖がる人。私を敵だと見なす人達。どういうわけか生まれて数か月もしないうちに神様になっていた。寝起きが悪い、虫の居所が悪い、たちが悪い私だけどこの際だから聞いてみることにした。

コロナちゃん「騒ぎって何?」

男は驚いた顔をした。返答がくると思っていなかったのだろう。ウィルスはみんな寝ているから、私のように目覚めてしまうのは珍しいことだった。

人「おはようございます。」

コロナちゃん「おはょ」

人「あなたはCOVID-19ですか?」

機嫌を損ねないように丁寧に、それでいて有無を言わさぬ圧力を持って、彼はそう言った。彦星が織姫の浮気を疑うように。とても丁寧に。

コロナちゃん「・・・それが私の名前ですか?」

問い正すように聞き返す。

人「あなたは眠っていたのです。私達はあなたのことを新型コロナウィルスもしくはCOVID-19と呼んでいます。」

私の学術的呼称だということはすぐにわかった。

コロナちゃん「そうですか。」

不躾に答えた。ことさら興味がなかった。

人「聞きたいことがいくつかあります。」

コロナちゃん「はい。なんなりと。」

人「あなたが現在、人類に猛威をふるっているのはご存じでしょうか?」

知っていた。というよりも確信があった。動物がみな生まれたときから呼吸できるように。ウィルスである私も自らにどのような機能が備わっているか、それがどのようなことになるかを、ほとんど明証的に知っていた。

コロナちゃん「はい。」

沈黙が流れた。私をどう取り扱っていいのか迷っているのがわかった。腫れ物に触るように私の機嫌を損なわないよう注意をはらっている。だから私はこう続けた。

コロナちゃん「私が・・・いや私達があなた達に何をしているかはわかっています。しかし私達は目的ではなく習性によって動いているだけです。ですので気を使っていただかなくてもけっこうですよ。私達の習性がどうあれ私はあなたの敵ではありません。」

できる限り穏やかに言った。

人「そうですか。ありがとうございます。では・・・単刀直入に聞きます・・・あなたたちに絶滅してほしいのですが・・・」

すこしは気を使え。そう思った。

コロナちゃん「ずいぶん嫌われているみたいですね」

人「ええ、もう全世界で10万人ちかく亡くなっていまして」

驚いた私は次のように答えた。

コロナちゃん「そうなんだ。ずいぶん多いですね。このようなことは珍しいのではないですか?」

人「ええ、ここ数十年では最も感染が拡大したウィルスと言っていいと思います。」

私は私が思っている以上に凶悪で成功したウィルスだということに妙な高揚感と罪悪感を抱いた。種が誇らしいとはこういうことを言うのだ。

コロナちゃん「それであなた達が困っていて私達に絶滅してほしいから私を目覚めさせたのですね。」

人「そうです。」

コロナちゃん「そうは言っても私にできることは何もありませんよ。」

人「いえ、あなたがどのように行動しどのような動機で動いているか。何を好み、何を嫌うかがわかれば私達がウィルスを追跡・治療する際に役にたつはずです。」

何を好きか、何を嫌いかなんて考えたこともなかった。私達はみんな起きないからな。でも確かに同じ動物でも肉食だったり草食だったりするか。そう言い聞かせ納得することにした。

コロナちゃん「でもご存じの通り私はこうして目覚めたばかりだから何もわからないわよ。私がわかるのは私がどのように呼吸し、どのように生きるかっていう生存本能だけ。だからそうね・・・あ、人間に感染するのは好きよ。いろんなところに行くものね。人間って。そうやって私達も運ばれていくの。そうしたらいろんなところに行けるでしょ。そうしたらいろんなものが見れる。いろんなことを知れる。なにより生き続けられるじゃない。そうね。人間は好きよ。それは本能的にそう。」

驚くほど早口でまくしたてる自分に、驚いた。

人「好きと言われても困っているんですよね。」

苦笑いがありありと浮かぶかのような声だった。

コロナちゃん「そうよね。迷惑よね。だと思った。かなわぬ恋なのよね。」

生まれてはじめておどけてみせた。しかし男はこう続けた。

人「人が好きなのはわかりました。けれど私が聞きたいのはあなたが嫌いなもののほうなのです。アルコールが嫌いなことはすでにわかっているのですが他に何かありますか?」

冷静にそう切り出す男を見てすこしせつなくなった。私はしょせんウィルスでしかない。眠っていれば良かった。そんなふうに思ったら、すこし悲しくなった。この人は私とコミュニケーションするつもりはないみたい。だから私も事務的に答えた。

コロナちゃん「たしかにアルコールは嫌いです。他には思い当たりません。」

人「そうですか、人が好きなのはわかりました。人があなたに感染すると亡くなることもあるのは知っていますか?」

コロナちゃん「はい、知っています。それがどうかしたのですか?」

人「できるだけ人が亡くなることを防ぎたいのです」

コロナちゃん「それは感染するなということですか?」

人「感染するなと言っても無理なことはわかっています。これ以上広がらないようにしたいのです。」

コロナちゃん「わかりました。つまりどうすれば私達が絶滅して人に感染しないようになるかその答えが欲しいのですね」

人「その通りです」

コロナちゃん「私達は死ぬことも生きることも選ぶことができません。人に感染することもしないことも私達は選んでそうしているわけではありません。私達はそこにただいるだけです」

人「・・・それは死ぬことにも生きることにも執着がないということですか?」

コロナちゃん「いえ、生きたいという本能はあります」

そう言うと男は再び返答に窮しているようだった。そして、言葉を詰まらせた男は意を決したようにこう言った。

人「人が亡くならないためにあなた達を絶滅させることが我々の最終的な目標になります。これ以上感染させないためにあなた達を抹殺しますが同意していただけますか?」

不思議な感じがした。なぜそこまで他者の命にたいして執着するのだろうか。人はまったく知らない人が亡くなることが許せないみたいだ。種のために功をなそうとする反面、頑なに個を重んじる。いや、個を重んじるからこそ個人の命がこれほど重大事であるのか。

生まれたばかりの私にはよくわからなかった。

コロナちゃん「同意も何も私達はただそこにいるだけよ。あなたたちが私達に何をしようがどうとも思わないわ」

人「わかりました。実はそれが聞きたかっただけなのです」

コロナちゃん「どういうこと?」

人「目覚める自我があるということは生きる自我もあるのではないかと、つまり心配していたのです」

男がそう言った瞬間、突然体中が震えだした。これが感情というやつなのだろうか。そう思った瞬間に前言を撤回したくなった。生きたい・・・のだ。

そう感じたが私は私の感情を無視することにした。今更どうしろというのか。人間と共存できるわけもない。殺されてもおかしくない存在、それが私達なのだから

コロナちゃん「ありがとう。その言葉だけで十分だわ。生まれてきてよかった。わざわざそれを聞くためだけに私を起こしたの?」

人「・・・ええ、そうです。」

コロナちゃん「ありがとう。そろそろ寝るわ。たぶん今度は永久に。おやすみなさい。楽しかったわ。」

人「おやすみコロナちゃん」

誹謗中傷とスケーラビリティズム

リアリティーショーに出演していた女性が自死された問題でネット上、主にSNS上での誹謗中傷について議論が巻き起こっている。

先週も書いたように僕の立場は短文SNSが反射的なコメントを可能にしたことで感情の発火をそのまま投稿してしまえることが問題だというものだ。実際、指先ひとつで人を殺せてしまうのだからこれほどの娯楽はない。そんなもの娯楽ではないと言う人も当然いるだろうし僕もそう思うがある人達にとってはこれ以上ないほどの娯楽なのだ。人を不幸にしたいという欲求はそれほど特別なものでもない。初等教育におけるいじめなどを見ればそれは明らかである。

てきとうに書いたコメントで誰かが右往左往してあまつさえ精神的に参ってしまうことは明らかに快楽の一種だと言える。同様の話にパパ活があるがパパ活をしているパパ側は若い女性の金銭感覚を狂わせることが面白いみたいである。ネット上における誹謗中傷も「他人の人生を自分が握っている感」によってどんどんエスカレートしていく。それはおそらく楽しいものなのだろう。他人が不幸になっていくのを自分自身がコントロールするのを面白いと感じる人は当然いる。そしてそれはネット上に限った問題ではない。誹謗中傷はやめるべきだが絶対になくなりはしない。それはいじめとまったく同じレベルでそう言える。

現実には「対面性」というフィルターがかかっていてネット上よりも誹謗中傷は少ないがネットにはそのフィルターがない。ならばどうフィルターをかけるかを考えなければいけない。

その意味でネット上における誹謗中傷は理性が働くよりも先に投稿ボタンを押せることが問題だというのが僕の考えだ。僕が考えたところでどうにかなるわけではないが笑

ツイッターが典型であるがコメントを主体としたサービス、5ちゃんねるやはてブにしたらばも同様だがそういうものはすべて無視したほうがいいと思っている。適切な批判や議論は誹謗中傷とは別に行われるべきだという意見のほうが強い。しかし誹謗中傷が飛び交うサービスの中で議論するのは不可能だとはっきりと言ってしまったほうがいい。議論にはその俎上にあがるまでにフィルターをかけるべきでたとえば前の記事でも書いたが長文で書くということもフィルターのひとつである。人に何かを訴えたいのであれば文章を尽くせということである。文章を尽くせないほどの熱量なのならば人に何かを諭すべきではない。その点で長文に限定すればてきとうに指先ひとつで感情のままコメントする人をスクリーニングできる。実際、今回の誹謗中傷の件に関しても記事として出る意見はすべて穏当に読めるものばかりだ。

しかしツイッターでは誹謗中傷をやめるべきだという「スローガン」ばかりで実際に意味のある議論がなされているようには見えない。むしろそうやって一人の人間の死にたいして過剰なまでに反応する構造そのものが彼女が自死した原因にさえ見えてしまう。

人が亡くなることは大変に残念でショックが大きい出来事であるがそうやってひとつの話、ひとつのストーリーのスケールを無限に拡大して感情的に正義にする動きこそがまさにSNSの問題ではないのだろうか。

 

その意味でテレビ番組での小さな話を拡大して人格批判する人間とひとりの人間の死をもとに誹謗中傷撲滅をスローガンとして掲げる人間は同じ様式を持ってそうしているように見えてしまう。彼ら彼女らは対立関係にあるように見えるがそうではない。善悪が問題なのではない。ベタに言えば善悪も大事であるが彼らが同様に持っているその様式(ひとつの話を感情的に拡大して受け止めるその拡散性)こそがSNSの本質的な問題ではないだろうか?すくなくとも僕はそう考える。

あの即時性と拡散性・・・拡大主義とでも言えばいいのか、スケーラビリティズムがなくならない限り何も変わりはしないはずだ。

 

なので前回書いたように批判も議論もすべてブログでやればいい。長文にすればそれ相応の熱量を持った人しか書かない。書かないし書けないからてきとうに指先でコメントする人を排除できる。その意味で誹謗中傷をする人もすくなくなる。もちろんものすごい熱量でブログで人格攻撃する人も中にはいるだろうけれどツイッターのようなリプライに比べれば圧倒的に少なくなるはずだ。

「コメント」を主体としたサービスは1VS複数になりがちでそれが批判であろうとも複数であること自体が数の暴力になってしまう。その意味でツイッターはてブは最悪である。僕もそこそこ長いことはてなにいるけれど増田やブログで記事を書いて批判コメントをもらってああ確かにそうだよなと思うけれどそれが複数になると見方が変わる。最初に見てああそうだよなと思ったコメントすらもネガティブに見えてくる。それはけんすうさんが書いていた通りだと思う。

誹謗中傷かどうかよりも、批判の量のほうが問題じゃないかなという話|けんすう

 

そして数の暴力が上述したような拡散主義によってスローガンとして単純化され広まっていくのがツイッターの恐ろしいところである。はてブのようにひとりひとりがスターをつけるなんてかわいいものだ。この人こんなコメントしてましたよと書いた本人の想定した範囲を超えて拡散されることがツイッターの面白いところであると同時に怖いところだと言える。そしてそれが平時においてはいいことに見えている。いいねがたくさんついたりリツイートされたりすれば承認欲求が満たされて面白い。しかしそれは他方では炎上という問題を生む。そしてその炎に焼かれてしまう人も当然ながらいる。それは常に表裏一体でそのツイッターの様式が変わらない限り何も変わりはしない。感情を直接的に他人にぶつける誹謗中傷が悪だというのはその通りだがその誹謗中傷がいかにして暴力たりえているのか考えなければ何も解決しないだろう。

誹謗中傷について - メロンダウト

幾田りらとコロナと東浩紀と生と死とタナトスと宮台真司と無知とタバコ

最近もやもやと考えてることを書いていきます。長くなると思います。

見て聴いて読んでほしいものをはじめに貼っておきます。

 

・YOASOBI-夜に駆けるの原題となった小説

monogatary.com

・THE FIRST TAKEチャンネル 幾田りらさんによる「夜に駆ける」

www.youtube.com

東浩紀さんのツイート

 

 

タイトルを先に書いてみた結果大風呂敷を広げ過ぎてどこからどう書いていいのかわからない(笑) とりあえず夜に駆けるがものすごく良い曲ですので聴いてみてください。余談ですがファーストテイクさんのチャンネルを見てるとただ一生懸命歌っている姿が最も人を惹きつけるMVになるのだなと思いますね。

 

コロナウィルスで緊急事態宣言が発令されてから様々な意見を見て自分で書いてもみたけれどその中でも東さんのツイ―トが今起きていることを最も端的に表しているように見える。僕も前の記事で「死ぬことができない社会」ということを書いたけれど、東さんの言うように近代の哲学から逆に振れたのが今の状態なのだと思う。

死ぬことはことさらセンセーショナルに取り上げられる。コロナにおける議論でもたいして死んでないと言うとそんなこと遺族に言えるのか警察が飛んできて大変なことになる。しかしまあ人は普通に死ぬ。死ぬけれど死ぬことを言明することができない。それが話をややこしくする。このへんのことは前に書いたので興味のある方はこちらの記事へ

死ぬことができない社会 - メロンダウト

国家が死を遠ざけることは正しく見える一方で他方では問題を生む。それが今起きているような緊急事態において死を語ることができないことだ。すでにもう誰を生かし誰を殺すのかという段階まできている。どこに予算をあてリソースをふりわけるのか考えなければいけない。しかし国家は死を語れないので現状維持しかできなくなっている。死を語る必要があるのに死を語ることができない。

これがコロナによって露呈した近代の弱点だと言えるだろう。

 

前の記事では国家に限定して書いたけれど社会全体を語る時にも死を超越するような議論はすでにできなくなっている。

自粛警察の問題にしても感染者が出たらどうするんだということに僕たちはまともに反論できない。反論したとしても生きること(生存)にたいして生きること(経営)で反論するに留まる。そこに何か理由をつけなければいけない点で自由とは程遠い。

 

そんなことを漠然と思いながら生活しているとタナトスの誘惑とそれが元になった夜に駆けるを知ることになる。

生きたいという欲求をエロス、死にたいという欲求をタナトスと分けてその対比を表現した小説だけどこれを読んだ時にああそうだよなと。死ぬことを過度にセンセーショナルなものとして取り上げるけれど死にたいという欲望もあって当然なのだ。もちろんそれは決して社会の表面に出てくるべきではない。死への誘惑は思いのほか強く自殺した人が出ると後追い自殺が増えるウェルテル効果などもよく知られるところである。なので報道的な意味で死を遠ざけることは意味がある。もちろんあるけれど一方で死がセンセーショナルであるという通念がベッタリと意識に貼り付くと別の問題も生まれてくる。その問題の代表的なものが自粛警察であり別の観点から見れば国家が死を語れないことでもある。そうなると誰かを死なせないために全員が生きるのをほとんどやめてしまうことが正当だという論理に着地する。それが今般のコロナ騒動(とあえて書くが)の理論的支柱として働いてしまっている。表立っては大切な人に感染させないために外出を控えましょうという意味で命の大切さを説くがそれは逆説的に命以上の価値を許さない自粛警察を生むという事態になった。

 

具体的には緊急事態宣言が出たころには医療崩壊の危機があったので外出自粛自体はそれほど抽象的な問題ではなく具体的なリソースを維持するための政策だったのだろう。けれどそれを支える基盤として死にたいするほとんど偏執ともいえる意識があったことは間違いないだろう。

それが東さんの問題意識に接続する。

過ぎたるはなお及ばざるがごとしという言葉があるが命についても同様のことが言えるのだろう。それがコロナから学ぶ最大の教訓だと僕なんかは思う。

 

 

それともうひとつコロナによって見えてきたのが人は自由と同じかそれ以上に管理統制されたいという欲望を持っているということである。よく宮台真司が損得マシーンや言葉の自動機械という言葉を使ってネトウヨなどを批判している。彼の言う自動機械とは自分の頭で考えないでどこかから借りてきた誰かの正当性を持って喋る人のふるまいをさしている。セクハラはいけないとふきあがったり男女差別だとふきあがったり日本人を批判するのかとふきあがったり神経症的なふるまいをする人のことをさしてそれは思想でもなんでもなく症状だというふうに言っている。だからその枠組みの外=法外に出ろといろいろなところで言っている。もちろん法律をやぶれという意味ではなくメタファーとしての法=観念的枠組みのことである。

僕はこれに100%同意するのだけどこれは今に始まったことではないと思う。

 

このブログではさんざんタバコについて書いてきたがタバコが最も象徴的に管理統制されたいという欲望を表している。ありとあらゆるところを概念的に整地することによりすべてを意識上の管理下つまり判定をくだせる場所として認識したいのだろう。そのほうが楽だからである。喫煙所で吸っていれば喫煙可能である等々あれはいいかこれはいいかという正義か非正義かを振り分けることにより恣意性を徹底的なまでに排除していく。そうすることにより考えなくて済むようになる。正義か非正義かの整地が済むとあいつは路上喫煙しているからクズだというレッテルを張ることで思考を処理できるようになる。考えなくていい。周りに人がいなければ路上で吸っていようが本来は問題ないという当たり前の考えも働かなくなってそれこそ自動機械のように自動的に判定して安堵する。実際にクズYoutuberが喫煙所のすぐ横でタバコを吸っている人に言いがかりをつけにいく動画などあげている。「中で吸え」と。中で吸おうが位置的にほぼ関係ないのに言いがかりをつけられるあの無神経さこそが暴力である。単なる勧善懲悪オナニーマシーンというだけの気もするがそのような行為に正当性があるかのように考えてしまうのは正しさを整地した弊害だということは間違いないだろう。

 

以上のような構造の問題はそこかしこで見ることができる。何かを断定的に決定し、その正義を持って現実を切り取る。そして一度断定されたものについてはもう誰も考えなくなる。いまやタバコについて考えてる人はいない。誰も考えなくなりプログラム的にtrue-falseで振り分け自動的に判定する。セクハラはダメだからダメ、フェミニズムパワハラも喫煙もナショナリズム自由主義もなにもかもダメだからダメ、正しいものは正しい。

複雑さを無視してほとんど偶然でしかない世論を神託だと思い、それに身を委ねることによってそのお告げに準ずるのである。ほとんど自動的に。

実際、コロナにおける緊急事態宣言が出されたのも性質としては神託に近いものだったのだろう。外出は悪だという正しさに準じてYoutubeでSTAYHOMEと言っていた人も営業している飲食店に張り紙に行く人もその正しさに準じている意味では同相でしかない。本来、コロナ感染者が確認されていないような村や町では自分で考えて外出の判断をするべきであり個々人によって違うものである。その意味で至極当たり前のことを言えばコロナだろうがなんだろうが自分自身で考えるべきだと言える。

しかしそれができない。路上喫煙が許されないようにもうダメだというものはダメなのである。それが正しさを整地するということの「決定的」な弊害である。