メロンダウト

メロンについて考えるよ

「運動にコミットすることは適応度を下げるのでミクロでは不合理」・・・

 これなあ

 

実際その通りなんだよな。政治的なことを考えて発信することほど無意味なものはないと常々思っていたりする。最近話題の銀英伝風に言えば戦術レベルで詰んだ時にのみ戦略レベルの主張をすることに価値がある。宮台真司さん的に言えば日本がどんどん衰退していって戦術レベル(適応)ではどうしようもなくなった時に戦略についてみんなが本気で考えるようになる。それを加速主義と呼んでいたりするけれど結局、分水嶺を越えなければ何も変わらないのはその通りだと思うし、政治も適応の話に過ぎないのだなと思う。

現在の日本もいち国家の政治を問題にしていない富裕層とまだ未来ある若者は適応によって政治をやっていてそれは安倍政権を支持する層と完全にマッチしている。

若者や金持ちの将来が詰んだ時に政治を変えるしかなくなるのだけど、逆に言えばそこまでの状況にならないと何も変わらないのかもしれない。

 

いまこうしてまだ適応が効く時代で政治や運動にコミットするのは明らかに不合理であって、たぶんこんなブログ書いてるよりYoutubeで発信したりしたほうがいいし、もっと金にコミットして戦術的に適応したほうがいいのだろう。それはいろんなところで言われていて最もベタな言い方をすると「自分の人生を生きろよ」といった正論が代表的だが自分の人生を生きれなくなった時にしか政治的発信はする価値がないのだろうな。

 

いまの政局を考えても保守やリベラル、政党や派閥なども勢力争いみたいな図式になっていてつまるところ「政治的適応」が色濃く見られるし本来的な意味における政治は危機の時にしか必要とされていない。それが今の状況なのだろう。政治高弁者がいたるところにいていろんなことを主張しているけど民衆にとってみればそのすべてが適応に敵わない空疎なものに見えているのかもしれない。小難しいこと考えるよりも楽しく笑って幸せに生きろよみたいな話であってそしてそれはその通りだと僕も思うことがある。個人が政治をやることは無意味ではないが無価値である。

 

安倍政権にしても結局、民衆に適応していただけでそれは甚だ民主主義的でもあった。いまこの国においては政治をやらないことが最大多数の支持を得る方法なのだろう。公文書も破棄して質問も有耶無耶にしてすべてを無に帰すこと=政治をやらないのが最も政治的であると同時に民衆にたいしての最大の適応となっている。それが安倍政権7年8か月の結論であった。

 

それは菅総理になっても変わることはないだろう。なにもしないで支持が得られるのであれば何もするわけがないのだから。単純な話である。政治は何もするな。僕らの適応を邪魔しなければそれでいいというのが個人にとって合理的な選択となっている以上、政治はなにもしないだろう。憲法改正と言ってみたりもしているがあれも安倍政権得意のやってる感以上のものではない。本気でやろうと思えば充分に任期も議席もあったわけで国民審査までは持ち込めたはずである。

 

「運動にコミットすることは適応度を下げるのでミクロでは不合理」

こういうことが言える今の状態はまだ幸せなほうで、将来的にはこんなこと言える状況ではなくなるのではないだろうか。政治がなにもしなければ社会に残るシステムは資本主義だけであるが資本主義を放置すれば格差が広がるのは歴史的にも明らかであってその時には暴動なり革命なりが起きてぶっ壊されてきた。今でも格差がものすごいことになっているがネットや社会に広がる道徳的人間規範によってなぜか封じ込められている。そのような良い子教育もいつか限界がくるだろう。その時にポピュリズム的な政党が台頭してきて法人税や金融取引の税率をあげ、経済成長を無視して既存の富の平等を謳う政党が出てきても不思議ではない。

運動にコミットすることだけが戦略的価値を持つようになった時にはじめて政治にコミットするようになるか、あるいはテクノロジーによって飼いならされ家畜化されるか

おそらくはこの二択しか残らなくなると思っている。

ダブルスタンダードという批判は間違っている~嘘をつけない社会がつくる嘘の社会~

たとえば保守でもありリベラルでもあると言うと政治的な言説の中では許されないようなきらいがある。あるいは女性がタバコを吸っていると言うと怪訝な顔をされたりする。一般に欠点やギャップ、あるいはダブルスタンダードのようなものは受け入れられない。そこに物語が用意されているでもないかぎり。

インターネットでも現実でもかまわないが社会を見た時に僕達は他者視点(空気)でしか社会を語れないところにあらゆる問題の根があると考えている。

それは僕達個人が主体となって社会の側になる時にも同じことが言える。たとえば掲示板で社会的に是とされるスタンスによって書き込まれているものも当人は無意識のうちに社会性に飲み込まれて社会そのものになっていたりする。明らかな違和感があるのだ。悪ふざけや承認欲求によってブーストされたとしか思えないような「嘘」が混じっている。そうとしか見えないものがある。僕もはてなブックマークに書き込んでいた時にそこの空気によって言動が左右されたような経験を持つしそれは僕の嘘なわけだが他の場所でもそういった空気によって調整されているような感覚を持つことがある。あるいは自分の感性とコミュニティーの総意とが重ならない時には単に黙ることが多い。現実にもネット上でも。

インターネットが本音を書ける場所だと数年前までは言われていたがいまやインターネットこそ嘘を書かなければならない場所で現実のほうがはるかに本音を言えるところになっている。現実には言えないようなものを書けるのがインターネットのオリジナリティーだったけれどそれはもはや逆転していてネットこそが空気に支配されていて社会的な言動しか許されていない。

不倫はいけないや小さい炎上もなにもかも社会(嘘)というスタンスによって社会人的にそれが行われているふしがある。そんなに本気でみんなそんなこと考えているわけがないだろうといった根源的な違和感がぬぐい切れないのである。

 

それはシロクマさんの著書を読んでもそう思ったし他の社会評論を読んでもそう感じる時がある。西部邁さんの本を読んだ時にもそのような違和感は持ったし先崎彰容さんの「違和感の正体」を読んだ時にも感じた。社会は社会ではないのではないかという違和感が消えないのだ。シロクマさんも西部さんも先崎さんも読んだ時にその通りだと首肯するのだけれどそれは社会にたいする認知が似ているだけだという話でしかないのではないか、あるいはそういう「グループ」に自分が所属しているだけではないのかといった疑念が残り続けている。自分の違和感を高名な方も持っているのだという「許し」や「照合」によって自分の考えを正当化するけれど果たしてそうなのだろうか・・・

 

社会は社会としてしか現前しない以上、社会そのものをそのまま見た時にそれは社会ではないのではないか。そんな思いが常にあるのだ。全員が社会生活において社会的な圧力において嘘をつきつづけ、空気に順ずる限り社会を社会だと見た時に正しく社会を認識できなくなる危険性がある。つまり全員が嘘をついている状態において嘘にたいしてなにかを言うことになり、その意味で社会的な言説はから回るだけではないだろうか。宮台真司さんや東浩紀さんなどもたびたび日本人は劣化したや日本人はクズだといったことを言っているが、しかし同時に本当にそうなのかとも思う。実際、そんなにクズな人間は自分の周りにはほとんどいないからだ。つまり社会を社会として見るということはなにがしかの罠が潜んでいるのではないだろうか。

そんなことを切に感じるのである。

 

そのように考えると、どうにもこの社会には嘘の社会と純粋な社会とがあると考えるようになった。嘘で脚色される以前の社会を純粋な意味における社会とし、空気などによって支配された社会を嘘の社会と便宜的に呼ぶことにする。

そう腑分けした時に見えてくるのが嘘の社会と純粋な社会とにおけるダブルバインドである。みんな本当はある程度動物的な欲望を抱えながらも同時にそれなりの良心にもとづき生きている。にも関わらず社会にたいしては嘘を言うことが正しいとなっている。変にねじれているのだ。

 

そのようなダブルバインドはたとえばテレビ局が芸能人をスキャンダルで降板させるのとほとんど同じ論理でもって個人の心中をも浸食している。テレビ局もスポンサー企業の社員もちょっとした炎上程度で番組を降板させるのは正しくないと考えているのに謎の空気によって本心とは裏腹の嘘をついて謝罪し、嘘のためにキャスティングの変更を余儀なくされる。

それは資本主義における組織のものだと考えがちであるがそのようなダブルバインドは実のところ、僕たち個人のなかにもあるのではないだろうか?

空気に流され、コミュニティーの総意めいたものに準ずるような謎の空気はどこにでもあってそのたびに僕たちは自分の感性にたいして嘘をつきつづける。もちろんそのような心境には個人差があり、空気をまったく意に介さない人もいるし、慮る程度の人もいれば、完全に迎合してしまう人もいる。個人差はあれど、多くの人がそのコミュニティーの流れに沿うように発言し、それがいわゆる民主主義における正しいプロセスだというお墨付きまでもらう。しかしそれはほとんどが嘘であろう。個人の意見を集約するはずの民主主義なのに個人がいつのまにか民主主義そのものと同化してしまっているのだ。

 

そのように感じるのは個人の感想としか思われないかもしれない。もちろんその可能性のほうが高いであろう。しかし現実における印象と本やネットおよび統計で見る社会とには確信的なズレがあるのだ。

 

ネットなどの炎上原理や一部の声の大きい人がつく嘘によって社会が形成され嘘の社会に迎合するためにまた誰かが嘘をつき、その嘘を強化しつづけることになる。そしてその嘘を社会学者などが見た時にいまの社会はこうだと言う。けれど全員がほとんど無意味に、だが強制的に嘘をつきつづけている社会にたいしてどうしてそれが社会だと言えるのだろうか。

確信して言えることだが誰もかれも本当にそんなことを思っているわけではないからだ。ラディカルフェミニズムにしてもリベラルにしてもセクハラにしても文春砲にしても誰かが巨大な嘘を言い、その嘘に迎合するアーリーアダプターがいてそれが嘘がどうかすら関係なく面白がる人が嘘を拡散し、嘘をもとに社会を形成しつつある。そのような現象がここ数年、事を欠かない。

 

そして、このような言論の素地をつくったのはいわゆるダブルスタンダードの封殺ではないかと思っている。「ダブスタだ」「おまえが言うな」といった批判をツイッターなどでは良く見るけれど、そのような圧力をもってして嘘が許されない状況をつくることで逆説的に嘘しか言えない社会を生んでいるのではないか。

人は生きるうえで嘘をついてはいけないと子供の時に誰もが教わる。しかし嘘というにもグラデーションがあり、この領域ではこの行為は許せないだったりこの人のこの行動は許せないなど個人差としてある。もっと単純に時間が経過して過去の発言といま考えていることは違うこともある。

つまり言葉とはそれ自体が原理的に撞着する性質のものであってあの人はああ言ったからこれはこう考えているに違いないだとか、あの人はああ言ったからこの発言はダブルスタンダードだと簡単に言えたものではない。

しかし僕達は嘘はいけないと教えられ、ダブルスタンダードが許されない社会に生きている。そのため、自分の感性にもとづいた発言は未来において嘘となる可能性があり、ネット上にアーカイブとして残すのは危険である。

そうなった時に残される発言は空気に順じたものしかない。その結果として個々人の感性とは離れた嘘しか残らないことになって嘘の社会ができあがる。

つまり嘘やダブルスタンダードがいけないとなった時に人は目の前にある正しさ及び空気に順ずるしかなくなり、その結果として空気という嘘に支配され、嘘の社会ができあがるのだ。

 

このような悪循環をなおすにはダブルスタンダードは駄目だといった類の論法を解除するしかない。人は自分の感性に正直になって社会的に間違ったことを発信してもいい。それは嘘の社会的圧力によって炎上したりするが大丈夫。

 

だって誰も本気でそんなこと考えてないんだから

自由の二面性と自然権、そしてラブドール

小児性愛者がラブドールを購入したくだんのツイートだけど

ものすごく単純化して言ってしまえば加害性のない人、事、物はないという大前提が無くなっているのが諸々の問題に見えてしまう。

今の言論、特にネット論壇において支配的なのは被害者が善であるといったリベラル的思考様式だが、それゆえに小児性愛の加害性にたいして拒否反応を示す人がいる。けれど、そう言っている人もなにがしかの加害性は持っている。人間の存在そのものがパーソナルスペースにたいする加害であるし、カップルが街中を歩いていることも独身者の嫉妬感情をかきたてる点で加害であるとも言えるし、親子で街中を歩いているのも不妊治療をしている方からすれば加害性を持つ行為だと言える。

もちろんこういった当たり前の日常にたいして加害という言葉を用いる人はいないし、用いるのが適切とも言えない。しかし厳に考えればこれらも加害である。

同様の理由で小児性愛を模したラブドールや関連するフィクションも当然ながら加害性を持つ。フィクションにかぎらずノンフィクション作品も加害性を持つ。しかし小児性愛などが上述したような日常的行為と決定的に違うのは小児性愛が自然的、動物的な行為ということである。

 

社会契約論を提唱したルソーの理論的礎となったものにジョン・ロック自然権といった概念がある。社会が社会として構想されるには社会以前の状態がどのようなものかを仮想しなければ社会を語ることは難しいと考えた。

ロックは社会が成立する以前の状態を自然状態と仮定し、自然状態で人間が生来持っている権利は「生命」「自由」「財産」「人権」の4つであると提唱した。これらの4つをロックは自然権に数えた。近代国家における社会契約や法律、善の基準はこれらの概念が根底にありこれらを侵す行為は犯罪として処罰されることになる。

自然状態を仮定した時に最も重要な権利は何かを構想し、そのうえで社会状態をつくりあげていくのが近代国家の成立に大きくかかわっている。

そのような経緯を考え、小児性愛を考えるに小児性愛を実行したら子供の自由を侵している点で当然ながら処罰対象になる。子供は自由に基づく合意をとれるだけの力関係にない点で子供の自然権に反する。しかし小児性愛を嗜好することは誰の自由も侵していないので処罰の対象とはならない。児童ポルノ所持などはそれらの需要を生むという点において子供の自由を侵害しかねないので処罰の対象となる。

ラブドール所持の議論に関して思うのは単純にこれだけであるが

 

一方でラブドール小児性愛を助長するのかといった問題がある。これに関しては助長することも当然ながらあると考えている。一般的な意味であるというわけではなく可能性としてゼロではないといった意味である。フィクションが現実に影響を与えることは事実としてある。それはみなが知っていることだがそれ自体が問題として考えられるべきではないというのが僕の意見である。

 

もっと一般的に問題として考えるべきはすべての人・物・事が加害性を持つ原罪にたいしてどうやってその加害性を担保するのかではないだろうか。聖書やコーランもそれによって宗教戦争が起きて数えきれない人が亡くなってきた。焚書なども表現の自由にたいする悪しき歴史として語られることが多いが焚書は自由に反する行いではなくむしろ自由のために行われてきたという側面がある。本を出版し、読ませ、だれかの心境を変化させることは加害的行為と言うこともできる。あるいはもっと単純に言ってしまえば本は洗脳的な装置として働くこともある。このような理由から本を読ませることは誰かの意識を変化させる点で他者の自由を侵害する行為とも言える。もちろんこのような理由から焚書が正しかったと言いたいわけではない。

本の著者と読者のような相互関係において考える時には自由は二面的だということについてこそ留意すべきではないかと考えている。

ここでいう自由の二面性とは表現の自由と見聞の自由がそれにあたる。誰かが何かを表現する時にそこには当然ながら加害性が含まれる。しかし僕達には見聞の自由がありその加害性を受け取らないという選択を取ることができる。あなたが何を言おうとかまわないがそれは聞き入れないといった選択ができないことがこの手の問題を複雑にしている。つまり表現の加害性を当然のものとして考え、問題を見聞的に判断すればいい。こちらが受け取らない限りそれは問題とはならないという視点が欠けている。あるいは誰かがそれを受け取らないという想像力に欠けている。小児性愛を題材としたフィクションを好んで読む人が現実にその行為をするものとしてそれを受け取らないという他者の自由にたいしてを想像するべきだが、そのような自由については誰も考えない。他者は自由を行使できないとパターナリズム的に考えている人が今回のような批判をおこしがちであるが実際のところなにかを見聞し、反社会的な行為をするとすればそれはその人の理性の無さによるものがほとんどでありフィクションがそのスイッチを入れることは稀か、もしくは偶然である可能性のほうが高いのではないだろうか。

 

あらゆる加害性を言い出したらすべてのものに加害性は含まれているわけだが僕達はそれを受け取らないことによってはじめて「こちら側の自由」を生きることができる。それは大人になれば誰しもが無意識にやっていることだけれど、無意識だからこそこういった議論の場で明言されることがない。受け取らない選択をした人はみな一様に黙るからであるが黙ることがむしろ真にリベラル的な行為であったりする。もちろん批判するのが悪いことだと言いたいわけではない。

見聞の自由を放棄し、問題について無視せずに批判をするには相手の加害性と向き合う必要が生じ、その点で批判者はすべて被害者となる。あるいは批判者は被害者を代弁することになる。そして批判者と被害者が重なることによってよからぬ方向に議論が進むことがある。批判者=被害者=リベラル=自由といった図式が単純化されすぎていることが諸々の問題で見られる傾向である。誤解を恐れずに言えばこの世界には被害を回避する自由があるのと同時に加害する自由もあるのである。

見聞の自由を行使せず、無視せずになにがしかの表現を見た時に表現には必ず加害性が含まれているのでそれを批判した時に批判者は必ず被害者になることができる。それが被害者の聖域となっているがその聖域を批判するモデルが議論の場においてほとんどない。

そしてその聖域はどんどん拡張していき、被害者が正しいといったリベラル的世界線によってすべてのきわどい表現が敵化されていくことになる。

こういった被害者的な価値観によって世界をならしていくとあらゆる欲望はいただけないことになるだろう。小児性愛だけではなくたとえば肉食も出生も異性愛も同様だが原理的に加害性を含む行為にたいして被害者的視点で世界を語るとかなりおかしなことになるというのがここ数年で見えてきたことである。

 

ものすごく開き直って言ってしまえば加害することの何が悪いといった強弁ができないところに諸々の問題がある気がしてならないのだ。今の論調を見ていると加害性は悪、被害者は善といったモデルに立脚しすぎている。

しかし本当に考えられるべきは見聞の自由のほうではないだろうか。見聞は自由ではないと考えている人が大勢いてそれが小さな問題を大きくしている。それが今回だけではなく様々な議論を見ていて思うことである。

 

 

 

自由には当然ながら責任が伴う。何かを自由に見聞きし小児性愛を題材としたフィクションをなぞるように現実にその行為を行えばそれは法律によって裁かれる対象となる。しかしそれは責任を逸脱したことにたいする処罰であり表現の加害性にたいする罪ではない。性犯罪を犯せばそれは当人の行為にたいする処罰である。

もちろん動機やその背景には無限の可能性がある。小児性愛を題材にした作品を読んだことが犯罪のきっかけになることもあるだろうがそれだけではなくもっと無数のスイッチによって人間を駆動させると考えたほうが自然ではないだろうか。

つまるところ人間が何に影響されるか何によって駆動されるのかはわかったものではなく残虐な作品を読んで残虐な行為をする可能性もあれば秋葉原で通り魔を行った犯人のように明るい社会にたいする反発としてそういう行為がなされることもある。つまり表現がどうその人の心に影響するのかは実に多面的であって一様にこういう作品はこういう行為を助長すると言えたものではないと思うわけである。 むしろもっと別の、もっと根源的な歪みがないと児童犯罪には至らないだろう。それは異性愛者の男性が全員レイプ願望を持っているかという問いに近いものがあるが性的欲求がそのまま性的加害性として認知されるのはどうにもよくわからない話である。それは男性としての身体感覚から言えばまったく別のものでしかないからだ。

なんにせよフィクションが現実に影響を与える可能性はゼロではない。

しかし それをどう見聞するかの自由は自然権によって担保されていて、そして自由を侵す行為は社会契約として罰せられる。いまのところそれ以上有効な方策はないのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

ところでなんで今になって小児性愛等の作品が問題になっているのだろう。ラブドールを問題にするのであればもっと広範に女子高生をかわいく描いているほとんどのアニメ作品や同人詩もアウトになるわけだがなんか直接的なのがアカンのかこの手の話題は基準がかなり謎に見えてしまう。