メロンダウト

メロンについて考えるよ

選択的夫婦別姓はそうとうセンシティブな話としてとらえる必要があると思う

いやその通りなんだよな

anond.hatelabo.jp

選択的夫婦別姓は選択肢を増やす「だけ」

同姓にしたい人は同姓にすればいい「だけ」

と言うが、「だけ」で終わるはずがないんだよなあ。

私はもう同姓婚してるからいいんだけど。

別姓と同姓が選択可能になった先にあるのは、

「なんで面倒なのに同姓にわざわざしたの?」

「なんで別姓にできるのにしなかったの?」

と言う奴らの存在だよ。

 

なんでもかんでも選択的でおさまるほど人々は賢くないのよ。

タバコ吸ってたらタバコやめたら?とよく言われるし昼飯にメスティンで米を炊いてたら笑われるし黄色いネクタイをつければかわいいとか言われるし人と違うことすると目立つうえに理由を問われる。

米は炊きたてのほうがうまいから食べる時に炊いたほうがうまいやろとか黄色いネクタイは黄色が好きだからとかタバコは依存してるからだよと逐一説明しなければいけないのは時に億劫なものである。

成人してからはそういう機会も減ったけど学生時代なんか特に異質なものにたいする好奇の目がすごくてみんな萎縮して最終的に就活の時にはリクルートスーツの学生だらけになる。なのでおそらくは増田の言うとおり選択的夫婦別姓も好奇の目に晒されることになる。自由には責任が伴うとよく言われるけど日本のなかの自由に関して言えば自由には勇気も要る。

とりわけ今の制度は時代にそぐわずに無理があるので選択的夫婦別姓に政策的には賛成なのだけど不合理な制度だということをもって不合理さそのものを排除する趨勢は気にならなくもない。あるいは選択的(合理的)であることの何が問題かといった強弁は看過するには危険だと思っている。

結婚制度も金銭的な控除などを別にすればほとんど全部不合理なもので不合理だからこそ儀式としての意味を持つ側面がある。離婚すれば財産分与があることも私有財産の点から言えばまったく筋が通っていなく不合理で犯罪的とすら言えるけれどその不合理さがあるからこそ結婚には相応の覚悟やディターミネーションが紐づくことになる。不合理な選択をしたという決定が家族を持続可能なものにするという側面も否定できないのだ。それは選択的夫婦別姓にも同じことが言えて夫婦同姓も家族を縛る1ファクターとして機能している側面はある。

手続き上めんどうくさいから離婚しないという夫婦は世の中には山ほどいるはずで結婚したから一緒にいるだけの夫婦がそれでも一緒にいるその不合理は本当に悪いことなのかと考えてしまう。それを繋ぐものを断ち切って良いのだろうかと。選択的夫婦別姓に限らずともそうやって結婚や家族にまつわる不合理な枷を解除するのが良いことなのか悪いことなのか今一度考えたほうが良い気がしている。僕は正直言ってわからない。たぶん結婚して子供も成人したぐらいにならないと「それでも家族を続ける意味」みたいなものはわからないんじゃないかな。

僕達は地縁からはある程度自由になった。しかし血縁からは自由だとは言い難い。それは結婚制度や戸籍などにかかわる不合理な枷が存在するからだけどそれを解除して家族は持続可能になるのか、あるいは家族は持続可能にしなくても良いものなのかといった原理論に戻る必要がそのうち出てくるのではないか。

 

基本的に合理性は人を繋ぎはするが結びはしない。合理性で人が関係するのを目的的という言い方をするけれど好きな趣味同士でつながったとしてもその趣味が終わればその関係性も終わり、愛情を目的とした関係も愛情が消えれば終わる。彼氏や彼女が好きじゃなくなったら別れる。誰もがみなそうしているように本来、恋愛感情なんてその程度のものだ。それを結婚という制度によって縛ることによって持続可能なものに変化させている。個人の愛情だけが夫婦を夫婦として成立させているはといった理想論は完全なる幻想でしかない。動物的に考えればわかりやすい。性行為をしたら死んでしまう動物を除いて死ぬまで添い遂げる動物は極めて稀だ。造語にもなっているオシドリ夫婦のオシドリでさえ毎年パートナーを変える。猿は乱交する。ペンギンでさえ一緒にいるのは子育ての間だけだ。人間の恋愛感情も似たようなものでみんな付き合っている間はすぐ別れたりする。それでも永遠の愛みたいな歌が歌われたりするけど恋愛期間を経て至上の人間関係に変化させることに成功した夫婦がそれを愛情と呼んでいるに過ぎないと思っている。結婚や子育てなど諸々の儀式によって獲得したすえに到達するものなのだろう。動物的に考えてそんなに恋愛を長続きさせられる動物はいない。合理的に考えればそうなる。合理的に考えて人は短期的な恋愛はしても結婚をする動機はない。結婚は儀式的な祝祭としてのみ行われる。恋愛感情が燃え上がった末に不合理な決断として行われ不合理に夫婦の関係は続いていき、いつしか合理や目的の外に出ることに成功する。

そして目的外の関係のほうがはるかに強固で長続きする。家族や兄弟は趣味が合わなくてもなぜか関係性は続いていって大切な存在になる。目的的に繋がる関係とは違い、自分とその人が溶け合うことによって切っても切り離せない関係になる。

目的的な関係は目的が亡くなれば終わりだ。ブログの購読をやめるように、ツイッターのフォローをやめるように、会社をやめるように関係性と目的がセットになっている状態ではとてもピーキーな関係にしかならない。そうではない関係が人間には必要でそれは傍から見ればとても不合理なものに映るかもしれない。けれど目的なんかなくてその関係が不合理「でも」繋がる関係のほうがむしろはるかに強固なものになる。

恋愛関係が終わっても結婚という不合理な鎖があるから繋がっていられる。そういう人は相当数いる。それを合理性によって解体するのは選択的夫婦別姓への賛成反対問わず相当にセンシティブな話としてとらえる必要があると思う。僕達はそんなに純粋に人を愛しつづけることはできない。結婚(あるいは夫婦同姓)という制度で縛られない限りは。

他人をコンテンツとして消費してるのはブクマカのほうやろ

 この記事が燃えてる。ホームレスをネタとして消費し、異文化扱いすることは無意識の差別だという。

cakes.mu

 

・・・いやいやブクマカが何を言ってるんだ。

他人をコンテンツとして消費することに無自覚なのはあなたたちのほうでしょ。

勝手に外部サイトからネタを拾ってきて勝手にインデックスしてコメントをつけて言いっ放すだけの人々が何を言ってるんだ。書いたコメントがコミュニケーションとすら思っていないで筆者が見るとも思わずに大上段から物を言って無自覚に人を傷つけてるのはどっちだよ。ほんとブクマカの無謬っぷりには呆れるしかない。

多少の齟齬や理解の不足があるにしろホームレスの人に会ってコミュニケーションをとって文章にしている筆者のほうがよほどまともにコミュニケートしている。

 

現実にまったく違う生活スタイルをしている人々に会えば多少なりのカルチャーショックがあって当たり前でそれを同じ人間として平等にひとくくりにできるのはブクマカみたいな外にいる者達だけである。「ホームレスも誰も彼もみんな同じ人間だ」は抽象的には正しいけれど現実に価値観が違う人間同士を架橋し、コミュニケートしようとした場合にはどうしてもネタ化やキャラ化に頼らざるを得ない瞬間がある。現実に人間はみな違うのだから。違う人間同士を架橋するものが現実には必要になる。それが言語だったりコンテンツだったり地縁血縁だったりキャラ化でもなんでも良いがそれらの差異や同根を確認することによって初めて人は人と接続しうる。その差異の確認を差別というのは関係性の放棄以外の何物でもない。上記記事で書かれていることも差異の確認以上のものではない。

関係性を放棄することによって理想論、非差別論、美談ですべてを回収することができてそちらのほうが抽象的には正しく見える。最近のリベラルなどは全部それで物事の現実的戦慄を遮断することによって外部の関係ない人達のみにアピールしている。だからリベラルは支持されない。耳目が良いだけの美談で世界が変わるほど単純ではないことはみんなわかってるからだ。抽象論のみによって回収しようとすればブクマカ達のような関係ない人々にしか届かない。だから現実にはほとんど無意味で空虚に響くだけである。関係ないところでウダウダとなんか言っている。昔からブクマはそれ以上でもそれ以下でもない。あるいはこのブログもそうである。

 

 

「ホームレスと我々は違う」

この言葉は差別なのか?が大きな問いであるが違うと思えば違う、同じだと思えば同じとしか言いようがないのではないだろうか。現実に今の生活様式が違うので違うと言えば違うし人権的な視点から言えば同じだと言える。

上記記事の筆者は実際にホームレスと接するなかで違うと感じたのならそれは筆者の中で違うのだろう。しかしそれを持ってして筆者がホームレスの人権をないがしろにして差別しているかはまったくフェーズが違う。ホームレスは違うと言いつつも差別しないはまったく矛盾せずに成立する。

差別反対を大上段にかかげてみんな同じ人間だという人のほうがはるかに狂っている。ダブルスタンダードのほうがはるかにまともだ。ホームレスの方のような違う生活をしている人々に相対したときに既存の価値観を壊されるのは当然でその差異を語らずにして同じだと言える人がどれほどいるだろうか。あるいはその「悲惨さ」を語ることなしにホームレスも同じ人間だという多様性に回収するのにどれほどの意味があるのか疑わしい。

そうやってすべてを多様性で回収して個人をバラバラにした結果どうなったかはホームレスの方よりも我々のほうがよく知っていることだろう。同じ人間だとまとめて個人の生活を尊重すべきだというのは現実にはただの切断処理であって現実的な結論としては自己責任論とまったく同じものでしかない。リベラルが多様性という美談で個人をバラバラにしてそうやって脆弱になった個人が自民党ネトサポになり自民党アベノミクスで格差を広げて広がった格差を竹中平蔵が利用するという車輪の中にいるかぎり誰も彼もが寄り木を失くしたホームレスみたいなものだろう。しかし悲惨さを語ることができない。誰かの悲惨さを語ることは無自覚の差別だという。勝手に誰かの悲惨さを想像して語るなと。そうして右からも左からも多様性は保守されていく。

多様性だけでコミュニケートできるほど現実の人間は一様ではないのに、である。

転売ほど今の時代を表しているものはない

転売屋がやたら批判されてることについて。

流通を阻害することによって市場価格を吊り上げるのはあくどいことだけど、転売屋がいなくてもPS5の価格ってけっこうなプレミアがついてるはずで転売行為が価格のつり上げにどれだけ寄与してるのかと疑問に思わないでもない。ひろゆき的に言えば「なんかそういうデータあるんすか?www」であるが、市場価格を吊り上げるほどの効果が転売屋にはたしてあるのだろうか。価格を著しく吊り上げるほどの台数を転売屋が買い占めているというデータがあれば納得できるけれど今のところネット民の妄想にしか見えていない。そもそも転売屋の数がそんなにいるのかという疑問すらある。

転売行為が一切の公益に資さずただ利ザヤを抜く行為だということは誰でもわかるけれど、こういう利ザヤを抜いてお金を儲ける例で言えば仮想通貨や為替のアービトラージなども似たようなものだろう。証券会社ごとの価格差を利用して真逆のポジションを入れることでほぼリスク無しで儲けることができる手法で仮想通貨が出始めたころに適正価格がガバガバで抜きまくったという話も知人から聞いたことがある。アービトラージだけではなくもともとなんの意味も価値もないブルシットジョブは社会にはやまほどあるわけでとりわけ転売が批判されている状況はけっこうな謎である。

他にもたとえば物流業界において何の意味もない中間業者がいたりする。荷主から受けた注文をただ下請けに丸投げするだけというブルシットジョブである。こういう中抜き業者のために現場の労働者の賃金が下がるのはPS5の転売で価格を吊り上げる(かもしれない)行為よりもはるかにあくどいことだろう。同様の中抜き業者の存在は派遣をはじめ聞いたところによると建築業界などにも存在する。クソどうでもいい仕事は世の中には腐るほどあってその代表が利ザヤに絡んできて中抜きするものだけど転売行為もその亜種といっていいもので特別おかしなことではない。どの業界でも普通にクソみたいな仕事が行われているだけである。

 

このような話を蒸し返していくと最終的にはマルクス資本論に戻るわけだけど、資本論で書かれていることは資本家は労働者の剰余価値を搾取している点であくどいみたいなことでそういった批判にかえることになる。

資本主義社会において企業は労働者が生み出す価値をすべて労働者にかえすことはなく労働者が生む労働価値から給与を差し引いた剰余価値によってサバイブしている点で資本主義は奴隷制度みたいなものだという。もちろん現代においては特定の設備等を有している企業に属しているからこそ生み出せる生産性があるので労働者の労働価値がすべて労働者のものであるという図式は意味をなさなくなってきているが、それでも企業が設備に投資することで乗数的に労働者の価値をあげたうえで剰余価値を得ているのは間違いない。

すべての企業は「資本的に見ればあくどい」のであるからこそ社会的にふさわしい法人格が求められる。それが近代の資本主義だけどそういう倫理を個人や困窮状態にある人々は軽々と踏み越えてしまう。転売行為もそういう問題に見えてしまう。つまるところ何が悪いかというと貧乏が悪いみたいな話であるが、転売などせずに自己投資して給与を得て暮らせばいいという普通の話がもはや普通ではなくなっているのだろう。

教育の大事さは教育の機会を得たものにしかわからない。蛙の子は蛙や貧困の再生産などといった言葉も最近はよく目にするけれどつまりはそれだけ社会階層が分断して普通に上昇するということが著しく困難になったのかもしれない。それだけ貧乏になったのだろう。新卒採用のため大企業にはいることは普通の人には厳しく、どこの業界も寡占化がすすみ一般企業はいつつぶれるかわからずに非正規やフリーランスといった働き方が普及してそれも中抜き業者に搾取されるうえ政権与党は経団連電通等のエスタブリッシュ層にしか配慮せずリベラルは共同体を破壊して隣人のことを気にかけないうえすべての責任を個人に帰依させた社会の現状において一台買えば何万円と儲かる転売を行うのはまったく不思議ではない。「物売るってレベルじゃねーぞ」と転売屋が言っていた動画が有名だが、政治も動かずに資本的にも働くってレベルじゃねーなら転売するのもおかしなことではないだろう。

とはいえ目的は行為を正当化しないので以上のようなものは単なる言い訳にしかならない。なので転売行為は批判されるべきだけど、現実のあらゆる局面を個人の言い訳に転化させている点において転売ほど現代の世相を表しているものはない。

自助共助公助と誰かが言っていたが自助努力として貧困層がまず手をつけるのが転売行為であって正しさに振り切れたネット民がそれを批判するのは分断が如実に表れていていかにもな現代仕草である。

自分もPS5が欲しくてGEOとアマゾンで予約開始日に買おうとして買えなかったくちであるけれど、地方の時給900円のアルバイト生活者が休憩中にネットで転売を知って始めるのはまったくおかしなことではないしそのリアリティーに比して考えるのであれば転売行為をそれほど叩く気にはなれないのである。