メロンダウト

メロンについて考えるよ

コロナ禍における小さな政府の脆弱性~自由も保守も正しさも放棄する政治~

以下記事で頂いたfnoithunderさんからのコメントを読んでいて考えていました。

ガースー独裁政権~Go to トラベルと小選挙区の欠陥~ - メロンダウト

東京での新型コロナウィルスの感染者が一日1000人をまもなく超えるわけだけど、自粛ムードどこへやらで普通の生活にみんな戻っていってる。

マスクはしててもソーシャルディスタンスを守る人は目に見えて少なくなってるし、政治家も政治資金パーティーを開いてる。飲み会も普通に行われてる。

おそらくは初詣でも人混みができるし、帰省する人も大勢出てきてこれから地方で感染が拡大していくことは確定的な状況だけど

 

5月のあの雰囲気はなんだったのかと思い返してしまう。みんな家にいて街はどこも閑散としてて営業している飲食店やパチンコがバッシングされていた状況と比べるとあまりにもねじれているというか

状況は何も変わっていないどころかむしろ悪化しているのにみんな楽観的になっている。5月当時はアメリカやヨーロッパ諸国で死亡者がたくさん出ていた。しかしアジア諸国では意外と死亡者が少なかった。なので意外とたいしたことないじゃんと自粛ムードもどこ吹く風で今に至るわけだけど、いかんせんアジアでの死亡者が少ないことのエビデンスは何もないんだよね。「なぜか」死んでない以上の説明ができていなくて科学的根拠のあるエビデンスは出てこない。けれどこのまま維持できる保証はどこにもないわけでいつアメリカやヨーロッパのように多数の死者が出始めるかわかったものではない。そんな状況なわけだけど経済を止めるわけにもいかず国民の危機感もなくなっててこのままズルズルといくことは明らかなんだけど、一連のコロナに関する政府の対応や社会の変化に関してものすごく大きな違和感を持つようになった。

 

まずもって言えるのは良いか悪いかは別にしてこの国における一義的権力は社会のほうにあるということだろう。政府が状況を判断して国民に要請するのではなく社会のほうが政府に要請する構造になっている。それは緊急事態宣言が出された時と今を比べればわかることで、緊急事態宣言が出された時よりも現在のほうが感染者の数や医療体制等々は逼迫しているのに緊急事態宣言は出されていない。それは社会のほうがそれを許さなくなっているからだろう。

僕達は緊急事態宣言下において経済をストップしたり学校を休校にしたり経験したことのない痛みを味わったわけだけど、思い返すに緊急事態宣言が出される前は緊急事態宣言を出すように社会のほうが要請していたように思い出せる。当時は武漢アメリカで大騒ぎになっていた未知のウィルスにたいして政府が何もしていなかったことをみな批判していた。だから政府も緊急事態宣言を出した。緊急事態宣言を出すにしろ出さないにしろどちらも社会が要請したのちに政府が対応するといった構造になっている。なので社会がこのままコロナにたいする危機感を忘れてしまっている以上は緊急事態宣言が出されることはない。社会が要請した時にのみ政府が対応する。それが今の日本社会の在り方となっている。もちろん国民主権なので社会が一義的な権力を持っていることは望ましいことかもしれないが、問題はそれが行き過ぎて政府が小さくなりすぎたことにあるように思う。

小泉純一郎のころから郵政民営化をはじめとした構造改革やら小さな政府といったことが言われてきたし民主党事業仕分けにしても政府は自ら進んで小さくなることを選んできた。政権が代わってもそれは何も変わってこなかった。とにかく政府は社会から言われたことをやるということになっている。言ってしまえば中間管理職であってそこに意思決定能力などは求められてこなかった。なので先手先手といった対応ができない。コロナのような事前策が求められる状況にこそこの問題は顕在化する。それがコロナから見る日本社会と政府の関係なのだろう。炎上したらそれに対応するSNSの1アカウントみたいに政府がなってしまっている。

 

こういった小さな政府問題はもう何年も前から言われてきたことだけど、小さな政府の何が問題かここ数年でずいぶん明らかになってきたように思う。ひらたく言えば政府は迎合しかしなくなったんですよね。自由主義にしろ保守主義にしろいろいろみんな抱えているイデオロギーはあるにせよそれを実行しうる政府はもうずいぶん前からなくなってしまってる。これの何が問題かといえば自由にしろ保守にしろ政治的概念とはそれ自体が常に社会のなかでは少数派なところにある。この国での多数派は常に資本主義者と民主主義者なんですよね。保守や自由はある種の倫理的な概念でしかなくて今までは倫理がある程度は政治に反映しうるものだったけど、倫理にはそれを行使する胆力が必要になる。それは人でも政治でも変わらない。正しくあるには強くあらねばならない。政府が倫理に基づく意思決定ができなくなるほど小さくなると意思決定できるほどの力が政治からはなくなっていく。だから最近の政治は常に資本主義と民主主義によって動かされる。アベノミクスにしろそうだった。就職率を改善すれば若者に支持されたり失業率を盛れば経済は回復しているように見られたりと資本主義者に支持されるのが最も民主主義的であるということになっている。我々政府は民主主義的プロセスにおいて資本主義社会の要請したことしか行いませんよという事態になっている。そうした政府の一様性、あるいは「脆弱性」によってすべてが判断されていく。

このような事態において何が問題かといえば政治と経済が直列した瞬間に保守や自由といった正しさを捉えようとする政治的概念は無意味なものとなるところにある。それが今般の桜を見る会や森友問題といった倫理的問題がスルーされた根本的な要因といえる。ものすごい簡単に言えば資本主義者は正しさになど興味がないのである。儲かるか儲からないか、自分の生活がよくなるかならないかがすべてで政府の実態にそもそも興味がないのである。それが今の民主主義であって興味がないからスルーされた。ただそれだけだった。

 

こういった問題はコロナだけではなく最近話題のSDGsなどにも言える。アメリカやヨーロッパをはじめとした国々が持続可能な地球といった枠組みで環境保全を唱えているけれど、小さな政府となった日本政府はそれに迎合することしかできなくなっている。アメリカはテスラなどのEV車で自動車業界のシェアを奪うことに経済的なメリットがあるのでSDGsには賛成しているけれど、ガソリン車が主体の日本では政府が自国の産業のために戦うべきであるがそういった対応も政府が小さくなったせいかできなくなっている。

 

書いていて思ったのだけど、こうした問題(政府の意思決定能力とデモクラシーのねじれ)について論じたのがカール・シュミットだった。

民主主義を部分的に批判したりで有名なカール・シュミットだけれどシュミットが書いたのは被治者(統治される者)に充分な教育がなされていない場合(民衆が愚かな場合)に統治者と被治者の同一性が求められる民主主義は民主主義たりえないので「民主主義を実現しうる独裁」が必要になると書いたところにある。これは心情的には全力で反対したいのだけど、論理的には正しいように読める。

もちろんこれは民主主義批判に他ならないわけで民衆の多数意見イコール民主主義ととらえられる最近の風潮では異論扱いされるものだけれど、民主主義がなんたるかをわかっていないほどに教育が行き届いていない国民(いまの日本のように政治と経済を直列的にとらえているような状態)が大半の場合、統治者によって被治者を統治する必要が出てくるとシュミットは書いている。その制度を独裁だと書いた。

これは現在の小さな政府問題にも直結しているように読める。もちろん僕は独裁が必要とまでは考えていない(今の日本がそこまで愚かだとは思っていない)けれどシュミットの書いた「民主主義を実現するには独裁が必要になる」というのは考えるに足るものだと思っている。

それは上述したように正しさを行使するには相応の強さが必要になるということにも似ている。正しさや理念を実現するにはどうしてもそれを実行しうるだけのリーダーが必要となる。それは民主主義という一見ふわっとした意思決定のありかたにも言えることで、それがコロナ禍において明らかになったことのひとつと言える。

論理的に考えればこれだけ脆弱になった政府をたてなおすためには民主主義を守るための独裁者のような人が必要になってくるのだけど、シュミットの理論がナチス民主主義独裁政権の理論的支柱となったことを考えるに独裁政治の暴走よりも小さな政府にしたことによる資本の暴走のほうがまだ幾分かマシなことは間違いない。

だからといって許容できるほどの状況ではないと思っているが。

記号、形骸、物語、神話、ボードリヤール、あるいは白饅頭

ポスト・トゥルースとはこういうことなのかもしれない。

反知性主義とかMetooとかポリコレが悪魔合体したような出来事

gendai.ismedia.jp

日本の時代遅れの男性権力者が女性に性的暴行を加え、その権力によって女性を黙らせた」というストーリーのもとに、この出来事を報じた。しかしこれを「社会正義」などと称賛している人びと

 読んでいてボードリヤールを思い出した。

以前書いた記事の引用部分

神が消滅し、現実も消滅し、生産が飽和し、ヒカキンが量産された - メロンダウト

幻想、夢、情熱、狂気、ドラッグ、さらには詐術やシミュラークル、こうしたものが現実性にとっての自然の捕食者だった。だがこれらすべては、あたかも陰険な不治の病に冒されたかのように活力を失ってしまった。だから、それに匹敵する人工物を見つけてやらねばならない。さもなければ現実性は、臨界質量にひとたび達すると、ついには自発的に自らを破壊し、自分から爆縮してしまうのである

~~~とはいえあらゆるかたちのヴァーチャル性を許容することで、現実が実行しつつあるのがこれなのだ。

 

ヴァーチャル性。これこそは究極的な現実性の捕食者かつ破壊者だ。ウィルス性の自己破壊的要因として、現実性自体から滲み出てきたものだ。

現実性は、仮想現実の餌食となった。これが客観的現実性の抽象化において開始され、インテグラルな現実において完遂されるプロセスの究極的な帰結である。



ヴァーチャル性とともに、背後世界はもはや問題でなくなる。世界は全面的に取り替えられ、同一のものによって二重化され、完全な蜃気楼となる。そして象徴的実質をただ単純に消滅させてしまうことで、問いが解決されてしまう。客観的現実性さえもが無用な機能、一種のゴミとなり、その交換と流通とはますます困難になる。それゆえ人々は、客観的現実性からその後の段階へと移行したのだ。現実性と幻想とを同時に終わらせる、一種のウルトラ・リアリティに。

 

夢、情熱、狂気が現実を捕食するものだったが合理性などによって現実からは排除された

夢や狂気に代わって人間を駆動するものがヴァーチャル性

ヴァーチャル性は現実からにじみ出てきたもの

現実からにじみ出てきたヴァーチャル性とヴァーチャル性によって規定される現実で世界は二重化される

背後世界は問題ではなくなる

客観的現実はもはやゴミで問題にされない

 

 

ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』のほうが有名ですが『悪の知性』のほうが個人的には面白いと思います。

一番上の草津での出来事を見ていて思ったのは

ボードリヤール的に言えば、僕たちは物語というヴァーチャル性によって現実を捕食、破壊しようとしている。それぞれが同調しやすい物語を現実にトラックバックすることで現実を書き換えようとしている。

なのでそこには客観的事実(草津の件では性暴力があったのか否か)を反映しないでいられる。僕たちの現実は情報によってかたどられた物語に依存しているので客観性なんてのはゴミでしかなく、主観的視点や立場から見てしか物事を捉えられなくなっている。

それが冒頭記事で御田寺さんが批判している人々のことだし、あるいはポスト・トゥルース反知性主義もそう。もっと言えばポリコレやコンプライアンスなどもその亜種と言っていいものだろう。この世界には正しい物語や正しい良心が存在していてその物語を信仰してその物語で現実をかたどれば世界はよくなるという、正しさカルトみたいな集団が確かに存在している。その物語をもってして世界は取り替えられていっている。

誤解を恐れずに言えばそれがすべての問題の根源にあると言ってしまっても過言ではないと思う。

 

当然ながらこういった認識で現実をかたどっていくのはとてつもなく危ない考え方のひとつである。

物語の非情さを語るに、主人公は自分で仲間がいて、そしてその他大勢はモブでしかないところにある。フィクションに登場するモブにたいして物語を想像しないように、物語として語られたものにのみ物語を認める。物語は主観的にしか消費されえない。それが物語の危険なところでそうやってかたどられたイデオロギーはもれなく排外的な側面を持ってしまう。ラディフェミが性描写を排外しようとしたり、Metooが男性を危険視したり、ネトウヨが在日を排外しようとしたり。主観的物語のみに依拠したイデオロギーはもれなく排外主義的側面を持ってしまう。

 

Metooはもともとはそういったものではなかったようにも思うが、そうやって流布された物語のひとつとしてMetooは機能してしまっている。それは草津の件からも明らかだろう。「女性が高齢男性に搾取されている」といった物語はとてもわかりやすい。

その物語を構築しうるだけの情報が出るとその情報にタグを付けて処理する。ハッシュタグとはよく言ったものでタグをつけることで物語を分別して「これはこういった情報だからこういった物語」と整理して、排外する。

そういうタグ付けに熱心なのがリベラルだけどリベラルという考えがもはやタグをつけるための記号にしかなっていなく、形骸化している。

情報を物語という記号に置き換えてその物語を神話にすることで正しさは形骸化する。ネット上でたびたび問題となるようなイデオロギーはすべてこれで説明できる。

 

 

情報について書いてきたけれど、なにも情報に限った話でもない。すべてのモノやサービスも同じようなものとなっていて、こういった消費の仕方が書いてあるのが『消費社会の神話と構造』だけど

僕たちは技術発展やそれに伴う経済成長によって豊かな社会をめざしてきた結果、豊かさが幸福だという神話の中に生きている、と書かれている。ブランド品や宝飾品にガジェットなどすべてのものが豊かさという消費構造の内におさまるもので、あるいは旅行に行くことすらも消費だと書かれている。

ボードリヤールはこうした消費の動機について人々は差異を求めるものだからだと説明した。人よりも良いサービスを受け、人よりも良いもの、人が持っていないものを消費することで人はその差異を確認する。そしてその差異をもってして人よりも深き神話(豊かな人間像)の中に入っていく。

そういった豊かで幸福な人生といった枠組みの中にいるかぎり消費社会からは抜け出せないと、ポストモダンの議論とはつまるところそういった近代主義的な豊かさからいかに抜け出すかみたいなものでボードリヤールもその一人だったけれど、僕たちはいまだに近代から抜け出せていない。

それどころか消費社会という神話にだんだん無自覚になっているのではないか。そう思わざるを得ないのだ。

今までは物質的に豊かになろうで済んでいたのだ。しかし僕たちは情報をも消費しはじめるようになった。

情報をタグづけして差異を確認する。差異を確認して自分の正しさを位置づける。その正しさを基準にして物語を構築することで小さい神話を生み出す。その神話の中にいれば幸福になれるのだと、豊かになれば幸福になれるのだと、正しくあれば幸福になれるのだと、そうやって気持ちよくなってしまう。そういう物語があらゆるところに点在している。インターネットがない時代から言われている消費社会論だけど

情報を消費しなければならない僕たちはポストモダン思想家が批判した近代よりも難しい時代を生きている。

 

ボードリヤールを読んだ時にはすべてが消費だとか豊かな生活は消費社会の神話だとかそんなこと言われてもと、読んだ当時は思ったけれど、思い返すに、すくなくともこの世界が神話というフィクション、一部のヴァーチャルでできていると自覚することはとても大切なことのように思うのだ。それに与するか与しないかは別にしてその構造を知ることはとても重要なことである。

神話化した物語は危ない。すくなくともそう自覚することで回避しうるトラップがいたるところにあるからで、それはインターネットで情報を消費する時にも同じことが言える。

差異を利用し、その差異によって物語を神話化し、動員することは資本主義的にも民主主義的にも極めて有効な手段たりえる。有効だからこそめちゃくちゃ多い。というよりも全部そう。このブログもそう。

だからこそそういった物語に関して距離を取ることが重要になってくる。一歩ひき、それはヴァーチャルなものでしかないと自覚することで

はじめてこちら側の自由を生きることができるのではないだろうか。

啓蒙するなら金をくれ~トラウデン直美さん炎上から考える~

環境保全自体には賛成なのだけど・・・

www.huffingtonpost.jp

 

結局こういうのって属人性なんですよね。ナショナルジオグラフィックとか好きでたまに見てるんですけど、アフリカの国立公園を運営している人が動物の環境について語っていたりしててそれを見た時には環境は大事にしなきゃなと素直に思ったりする。あるいは地球誕生やらなんやらのドキュメンタリーを見ていてもそう思う。

しかし先進国の、それもエスタブリッシュ層のモデルさんが言っているのを見てもなんとも思わないんですよね。石油を加工してできる化学繊維からつくられた服は環境保全には反してるし、ましてやそれをたくさん売るためのモデル業は環境保全とはむしろ逆の行為となる。モデルという職業を否定しているわけではなく言っていることとやっている事が逆で説得力に欠けるというか、なんというか「いつもの啓蒙」に見えてきて興が醒めてしまう。ああ、いつものアレかと・・・

 

ちょっと前にフェミニストが性犯罪者だったことが話題になってたけど、優しい言葉ばかり使う男がDV野郎だったりと、そういう事例は枚挙にいとまがないわけでその軽薄さに無自覚でいられるのはなんなのだろうか。ものすごく正しいことを言っているけれどその正しさを現実と切り離しているような、そんな印象を強く受けてしまう。それはいわゆるネトフェミや文化左翼ネトウヨと呼ばれる人達にも感じることだけどふつうはそんな正しいことばかり言ってられないだろと。まずそう思ってしまう。

 

言葉の通りに生きろなんて言うつもりはないし誰しもが矛盾を抱えてるのは当然だけど、現実が正しさとは相いれないで矛盾していたとしても現実と正しさを切り離してはいけないと思うんですよ。矛盾するのは否定すべきではないけど、その矛盾を別々に切り離した瞬間にその言説は一切の説得力を失ってしまう。

現実と正しさが矛盾していたとしても現実は正しくあろうとすべきだし正しさも現実であろうとすべきで、だから正しさだけをバーンって喧伝したりするのは間違っているように思う。正しさは現実的に語られてこそ正しさたりえるし、現実も正しさを受け入れられる状態があってこそ正しい現実として機能する。そうやって現実と正しさは架橋するのであって正しさだけ言われてもそんなこと知るかとなるのは当然すぎる反応ではないだろうか。相応の現実のうえにしか正しさは構築しえないのだから。

 

なにが言いたいかというとつまるところ金の問題なんですよね。現実に正しさを受け入れるには生活的余裕が必要で、その余裕がどこからくるかといえば金(とそれによって生まれる時間や自己投資)に尽きる。

西海岸のリベラルやトラウデンさんのようなエスタブリッシュがリベラル的なコレクトネスを散々言っているけれど、そういう人々は現実が充足して正しさを構築できるだけの余裕があるからそういうことが言えるのであってそうじゃない人々にとってまず考えるべきは現実の問題となってしまう。西海岸やリベラルではなくとも先進国と発展途上国の関係においてもそうでしょう。ゴミを焼却できるだけの施設がないのにプラスチックごみを捨てるなと言うのは順序が間違っている。意識や啓蒙で世界が変わるほど、そんなにみんな豊かではない。まず現実という戦慄が先にあってそれをどうにかしない限り正しさは機能しない。腹が減ったら人は食い物を盗むという当たり前の話をまずしたい。ご飯をお腹いっぱい食べてから議論しようじゃないか。

そう考えるに、奴隷に働かせて貴族が社会の在り方を談義していた古代ローマのころから何も変わっていなく、まず変えるべきは正しさを受容しうるだけの現実であってその後に何が正しいかを議論するべきだけれど

環境問題に関しては逼迫しているみたいなのでそんな時間はないのかもしれない。なので環境問題は緊急的にエスタブリッシュの意に従ったほうが良さそうな気もしている。自分もここでは批判的に書いているが環境保全には賛成なのでどんどん啓蒙してくれと思っていたりもする

しかしもっと広義な議論の在り方で言えば多くの啓蒙は現実を無視する場合がものすごく多い。なので一般的な議論においてはたびたびこう思う。

啓蒙するなら金を配れ、と。