メロンダウト

メロンについて考えるよ

世界が開いていくことで逆に世界が閉じていく問題

東さんの記事読んだ

president.jp

 

はてなでは批判的に見ている人が多い東浩紀さんだけど、僕は割と好きでゲンロン0や一般意志2.0も読んでゲンロンカフェにも行ったことがある。

一般意志2.0のころの東さんはネットというテクノロジーをいかに民主主義に組み込むかを書いててインターネットに希望みたいなものを抱いていたように読めたのだけど、上の記事を読むともうネットには完全に失望してるのだなと。ネットというよりもSNSにたいしてか。

スケールや数の話をされていてそれはそうだなと僕自身も思っていて、結局のところネットも資本主義に占領されてしまったのだという失望は以前このブログにも書いたことがあったと思う。実際、今のネットはトップダウン式にインフルエンサーや芸能人などが一般人にその影響力を行使していて、その影響力を使って物を販売したり政治的に動員したりといった形にしかなってない。東さんが言うようにスケールや数に支配されている。Youtubeにしろtwitterにしろそうだけれど、こうなる予兆は個人ブログがアフィリエイトサイトに駆逐された時からそうだったように思い返すことができる。いまやGoogleで検索してもアフィサイトと企業のサイトしか出てこないけれどそうではない時代もあった。検索するのが楽しい時代もあった。個人ブログには相互リンクという文化があって検索して出てきた面白いサイトの相互リンクに飛んで別の面白いサイトにたどり着いたりしたものだけど、ネットサーフィンという言葉も死語になっている。旧来のネットが持っていた(東さん的に言えば)誤配はずいぶん前から機能しなくなっていた。

ツイッターにしろYoutubeにしろそうでプラットフォームが世界に開かれるとその世界は必ず「最適化」した人によって支配されてしまう。検索エンジンSEO最適化した人に占領されたように、すべてのプラットフォームは結局のところ最適化して数を集めたものの勝ちということになってしまった。それは商業的には当たり前のことだけれど、いかにスケールを大きくするかだけに特化した商業主義は相互リンクがあるようなサイトを埋もれさせてネットの誤配を著しく毀損してしまった。そうなると個人が接続できるところは限られてしまい、世界は閉じていくことになる。

今さら書くような話でもない気がするが、万人がネットを使用するようになると万人にとって最適な環境が支配的になり、言ってしまえばコンビニエンスストアみたいなインターネットになった。利便性が上がり流通するお金は増えたしその結果、広告を出稿する企業も増えた。しかしそのようにしてネットが資本にさらされると、ネットがネットとして果たしていた機能=誤配はとうの昔に終わってしまった。

 

ブログの事情とはすこし違うのがSNSで、ツイッターYoutubeは専門性に特化していて同じ趣味や同じ政治信条の人達をフォローしあうことでタコツボ化していてとても誤配と呼べる代物ではない。Google検索エンジンが世界に最適化された一方でツイッターはタイムラインを最適化している。Youtubeやアマゾンは視聴履歴や購入履歴に最適化されている。個人に最適化されたプラットフォームではその外に出ることが難しくなってしまった。いわゆる「通気性」がない状態が今のSNSである。

数に開かれたプラットフォームが最適化に支配されるのはもはやしょうがないことで現実のコンビニやレストランなどでも同様のことが起きている。コンビニの店員は接客業として最適化されてしまうしCAも同じだ。資本の論理は個人の特殊性を摩滅することで資本に最適化するようになっている。だからSNSがそう見えるのは当たり前で、コンビニの店員がコンビニの店員にしか見えなくなっているのと同じ問題だと思っている。もちろん個人がバラバラの個人であるのは疑いようのない事実だけれど、コンビニの店員はコンビニの店員という総体としてしか僕たちの前には「表出」しないんだよね。SNSもたぶんそういうものでSNSを総体として見た時に「数しか表出していない」ように見える。総体として見た時にはそうだけど、実際個人は個人なのだから多様性が維持されるのではというつっこみがきそうだけど、そう見えるときにそう見えると認識するのはすごく大切なことだと思う。

SNSが数で支配されているように見える時に僕たち個人は数に最適化しようとする。僕たちは個体として総体の一部分を担っているけれど、同時に総体に最適化しようともする。総体と個人は相関しているのであって総体を個人が集合した結果としてだけ見るのは間違っている。総体に個人が吸収されていくのがここ数年で問題になっているもので、それが東さんが言っているような「数の問題」なのではないだろうか。

実際、過度に適応を求められるような場面や、SNSによって思想が先鋭化していっているような例はたくさんある。最も大きなものでいえば炎上という構造自体が総体に個人を吸収させようといったものである。SNSによってタコツボ化した思想がタコツボの中の総体に最適化されることでラディカルになる例などいくらでもある。

インターネットによって世界が開いていくことでその総体に飲み込まれる人々が増えた。そしてその総体に吸収されることで個人の世界は閉じていく。

 

つまるところこの問題って国家と個人の関係に近いのではないだろうか。国家が理想的な社会をつくるのとその国家が個人にとって理想的な国家であるのかはかなりのズレがある。

個人にとって生きやすい国家は法律の妥当性など諸々あるにせよ、ものすごく抽象的に言えば通気性がある社会が生きやすいと言える。弾力性と言ってもいいけれど、個人にとっての余白みたいなものはどんどん消滅していってどこに行っても最適化しなくてはいけなくなっている。だから冒頭の記事で東さんが言っているように小規模のコミュニティをつくり、小さな経済圏で生きることで逆説的に世界は開いていくということなのでしょう。世界はもはや開きすぎていてその弾力性を失っており、賞味期限切れみたいな状態なのでそんなもの食べてお腹壊すぐらいなら、大変だけど自給自足のほうが良いと、それはそうだよなと自分も思う。

コロナ禍におけるガースーの無能について考える~なぜ演説をおこなわないのか~

あけましておめでとうございます。本年もつらつらと書いていきます。

コロナに関しては医療崩壊待ったなしの状態だけども、政治の崩壊がここまでひどいことになるとは思ってなかったのではないだろうか。

安倍政権が幾分ましに見えるほどの無謬政権である。

直近で話題になっている緊急事態宣言の是非についてはかなり難しい判断なので一概に出さないからと批判できるものではないと思っているけれど、緊急事態宣言云々を抜きにしてもあまりにも無策すぎる。

政策に関してもいろいろ批判すべき点はあってこれまでも書いてきたけれど、ウィルスと経済と医療と国民生活のバランスを組んで予算を振り分けるのは初めての事態なので政策に関する多少の失敗はまだ許容できる。アベノマスクにしても当時のマスク騒動からすれば「なくはない」政策と考えることも、まあできなくはない。なので政策に関する批判は置いておくけれど

それよりもなによりも首相からなんのメッセージも発信されないことに驚愕している。

「ただ言うだけでいい」のに何も言わずに記者クラブで固めて定型質問にだけ答えて終了という、この緊急事態下においても通常運転の答弁しかしていない。国のトップが会見を開き、国の現状を説明して国民に訴えることによる効果は思いのほか強く何十億と予算を組むよりも有効たりえたりする。世界中ではイギリスのジョンソン首相、ドイツのメルケル首相、ニューヨークの市長が演説で緊急事態だと説明していたけれど、安倍も菅もそういった「演説」はやってこなかった。会見での「朗読」は行っていたが演説は聞いたことがない。個別の政策に関する議論は別にあるにせよ、演説を行わないこと、それだけは確実に批判すべき失策だと言える。

 

演説の重要性を考えるに今現在、喫緊で問題になっているのは国民の危機感の欠如に他ならないからだ。みんなコロナに慣れてしまっている。ソーシャルディスタンスを守る人も目に見えて減ってきている。どのような予算を組んでも国民が危機意識を持たない限りは感染を抑えることはできない。何兆円と医療機関に給付しようともすべて水泡に帰してしまう。だから首相がメッセージを発して危機意識を共有する必要が出てくる。

政策と国民の危機意識は今回のような事態においては両輪として備わっていなければならない。4月の緊急事態宣言ではその両輪が機能したから感染が減少に転じた。しかし今回は危機意識の共有があまりにもずさんというか、何もしてない。

緊急事態宣言は危機意識の徹底という手法なわけだけど、その前に首相がメッセージを発して「今は疑似的な戦時にある」とか「このままいけば東日本大震災の死者数を超えることは確実です」とか「すでにアメリカでは大戦時の死者数を超えています」とか「医療体制はすでに限界であなたを治療するところはすでにありません」など言えばいい。タダなんだから。予算を組む必要もない。

政策に何百億と予算を投じるよりも感染者数を抑える効果がある演説を首相が行わないのははっきり無能と言ってよいものだろう。首相が演説を行わないせいで無駄に感染者を出し、その結果無駄になった予算は何百億とあるはずである。その点では小池都知事はまだ危機意識の共有をしようとしているぶん評価できる。ガースーは駄目だ。何もしない。間違ったこともしない結果最悪の間違いをしている点で安倍政権よりもすでにひどい。安倍政権は突然学校を休校にしたりと政策的には当然支持できるものではなかったが、危機意識を国民と共有しようといった「姿勢」だけはあった。演説はしていなかったが。しかしガースーは演説はおろか姿勢すら見えてこない。

そもそも呑気にステーキ食べて会食している点で共有しうる危機意識すら持っていない可能性もあるけれど。

記事の本題は以上で、以下なんでこんなことになっているのかの考察になります。

 

ここまで「何も言わない」首相はかつていなかった。間違う可能性のある言動、批判されうる言動を徹底的に回避してきたのは安倍政権からのもので、このブログでは無謬と書いて批判してきたけれど、政治家がここまで案山子化したのはかなりいろいろな要因があるように思えてくる。

まずは上にも書いたように記者クラブで固めた記者会見のありかただろう。主要メディアの記者で囲んで会見しているせいか、記者会見が予見可能な質問にたいする回答といった形式でしかなくなっている。言ってしまえばツイッターのリプライと同じでしかない。質問がきたなかから選別して答えを出して嫌な質問をしてくる記者にたいしてはツイッターでブロックするように記者クラブから追い出す。良いフォロワーを集めたら良いタイムラインができあがりましたと。こんなことを何十年も前からやっているのだから首相に演説能力がなくなるのも無理からぬというところでしょう。

 

あとは無謬性こそがネット社会の正しさとなっている点についても言及しておきたい。政治の無謬性について批判的に書いているのだけど、実際、社会に目を移したときに「何も言わないことが最も正しい」というのは間違っていないとも思っている。最近のお母さん食堂が炎上している件についてもそうだけれど、言葉の性質そのものを拡大解釈して批判されたり文脈をすっとばされて文章を読む人がいたり、ニュースメディアでの切り取りもなにもかもすべての言葉は批判可能ですべての言葉が間違う可能性を持ってしまった。何を言っても危険な社会において最も批判にさらされやすい政治家が何も言わないというのは戦略上正しくなってしまっていて、今の社会と政治にはかなりの相関関係があると思っている。正しさの軸足が正しさを実行する人ではなくなってて被害者やマイノリティーといった正しいポジションにいる人が正しいとなってしまっていて、思考様式の変容まで考えないとこの問題は当分解決しないとは思っている。なので政治家が何も言わないのは今の社会が抱える構造そのものに「依拠」しているように見えなくもない。

 

最後に供託金についてだけど、ガースーにしても二階にしても麻生にしても国のトップが二十年前からほとんど変わっていないのは市井の人間が政治に参加できないからであろう。その政治参加の最大の障害となっているのが供託金だと考えられる。それは女性の政治参画についての記事でも書いた通りで以下ほとんど過去記事の引用で終わりたいのだけど

ジェンダーギャップ指数と供託金の関係および男女平等にたいする所感 - メロンダウト

女性の政治進出(一般男性の政治進出)で具体的に問題なのは供託金のほうでしょう。

ジェンダーギャップ指数の順位が良い国では供託金がないかもしくは日本よりものすごく安い。

アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアは供託金が0。

供託金がある国でもイギリスは9万円、カナダが7万円 オーストラリア5万円、オーストラリア2万5千円、インド2万5千円で普通の人が支払える金額となっている。

ジェンダーギャップ指数が日本と同じくらい低い韓国が150万。

日本は突出して高く比例で600万、小選挙区で300万と馬鹿げた金額が必要とされる。

 

日本では性別関係なく出馬するのにハードルが高すぎる。なので政治的な地盤を持つ人間が供託金をペイできる想定のもとでしか選挙に出馬しない。女性のほうが既存の政治家が少なく地縁を持たないし経済力もないのでそもそも出馬すること自体が他国に比べて極端に難しい。しかしそれは女性に限った問題ではない。男性が抱える問題でもある。その結果、女性政治家および女性閣僚の数などが他国に比べて低い。安倍も鳩山も他の族議員も二世だらけで新しく政治に参加して権力を持つことは男性にとっても極端に難しい。

 

 ようするに優秀な人が政治家になるのは供託金や政党政治のせいで日本では極端に難しく、今の政治家は選挙地盤を持っているので間違ったことさえしなければ当選する構造になっている。ガースーのような歴が長い政治家ほどその無謬性に支配されやすいという当たり前の保身なんですよね。

労働するよりも部屋にこもって投資したほうが儲かると、r>gとピケティが書いてましたけど、政治でも資産総額が一定程度超えると政治家は部屋に閉じこもりはじめるようになる。21世紀の資本ならぬ21世紀の政治もそんなようなものなのかもしれません。

被害者になりたいマゾヒズムを持って自民党は支持される

 

 

 

なぜ自民党を支持しているか問題についてだけど、欺瞞というと違和感を持ってしまう。そもそも政治が政治として考えられてないのだと思うんですよね。政治を政治としてとらえることができないから「経済」を持ってきてなんとなく政治っぽい返答にしているだけで、国民の多くが政治について「関心がない」のでしょう。関心がないからそれっぽり理由(経済等)を言うけれどつっこまれると返答できなくて欺瞞のように見える。欺瞞が問題なのではなくて問題は「関心がないこと」にあってそこにすべて集約されるような気がしている。関心がないから支持政党はどこでもよい。そして関心を持つしかないような状態(治安が悪化する等)になるかもしれない野党には入れないでおこうと、そういうものすごくベタな投票をしている人が大半なのででしょう。

このツイートを見ていて支持政党ごとの政治思想を三浦瑠麗さんが調べていたなと思いだしたので貼っておきます

『日本人価値観調査2019』

https://yamaneko.co.jp/web/wp-content/uploads/e561d6435c82302b9ccc475bb42eb36f.pdf

ものすごくざっくり言えば支持政党が違ってもそこまで思想的な違いはないことが書かれている。自民党のコア支持層は国民の8%程度でその他は無党派層自民党を消極的に支持しているのが現状となっている。立憲民主党にしても共産党にしても保守やリベラル、あるいは右と左といった旧来のイデオロギーで説明できるような状態ではなくなっている。むしろ自民党を支持しながら思想的には穏健なリベラルといった人たちが大半で立憲支持層とそこまで大きな違いがないと書かれている。自民党立憲民主党支持層で最も大きな違いとなっているのが外交や安保、そして憲法となっている。いわゆるネットで見られる自民党を支持するネトサポとそれを批判するリベラルといった図式は実際の政治にはまったく反映されていないことがわかる。

唯一思想的な違いが認められるのがれいわ新選組エスタブリッシュへの反発や資本の分配といった思想的な側面が見て取れる。

コロナによってまたすこし状況は変わったと思われるが、つまるところ「どこでもいい」人たちが大半であってなんとなく自民党を支持している人が最大多数となる。今さら書くようなことでもない気もするが、日本では無党派層が政治を左右している。リベラルも保守も、いわゆる政治思想のような国のあり方を考えるような理念に国民はもはや関心がないのである。

至極「まとも」に人々は政治を政治としてとらえなくなっている。経済の調整弁ぐらいにしかとらえていなくて社会政策や税金等の政策に関しては世論に迎合している。それは自民党を支持する層も立憲民主を支持する層も変わらない。

 

メタに考えるに、無党派層はこう考えていると推測できる。

「システムやプラットフォーム、法律や世論がベースにあり、個人はそのシステムの中でどう振る舞うかを考えるものである。」

しかし本来、政治はそのシステムや法律をいかにベターなものとするか、どのような社会が好ましいか考えるものである。そういった思考をみんな持ちえなくなっている。法律に異議を唱えるのは悪いことといった規範意識やポリコレで全てを判断している(あるいはしなくなっている)。もっともベタなものでは「ゴミを捨てるな」が代表的だけれど

僕たちはゴミを捨てる人のことを悪人だとして叩くことには躍起になるが、ゴミを捨てるしかないような社会のことにはまるで関心がないのである。オウム真理教による地下鉄サリン事件以降、街中からゴミ箱が撤去された。ゴミを捨てる場所がないのでゴミを路上に捨てる人が出てくる。このような状態でも「ゴミを路上に捨てなくても良い社会を構想しよう」とはならない。ゴミを捨てる悪人がいてその悪人をバッシングして社会から排除すれば社会は良くなるという排外主義的規範意識によってしかこの社会は変わってこなかったのである。法律によって人を動機付けたりシステムやアーキテクチャ(空間設計)を変えてゴミを捨てなくなるようにするなど。社会のほうを変えることによって人を変えるという政治的営みはもうずいぶん前からなくなっている。

ネット社会での炎上がそれだと思うかもしれないが、それはまったく違う。ネットによって変わったのは人が規範意識を全体化して規範にそぐわない人を排除するという建付けになっている。本来的な意味での政治はそうではない。悪人が悪行をする前に悪行をしなくても良い社会を「構想」するのが本来の政治であろう。

ゴミの問題からもわかるようになにからなにまでシステムや規範が先にあってそれにいかに迎合し、そのシステムのなかでいかに振る舞うか、いかに正しくあろうとするかにずっと躍起になっている。それは国民も、そして政権与党も変わらない。だから日本国民はからっぽだと、三島由紀夫のころから言われている。それは今でも変わっていない。無党派層といわれるような国民はシステムの奴隷なのでシステムを構想しうる「政治」にはことさら興味がないのである。だから自民党支持でリベラルというねじれた状況が生まれる。

 

以上のような状態なのでいわゆる政治を日常の場に持ち込もうとするとめんどくさい人間に見られるふしがある。通例的に日本では政治の話をすることがそんなに気軽には行われない。政治を語る(法律やシステム、政権の善悪などについて議論する)ということがそもそも無党派層には毒となってしまうからが大きな理由だと考えている。

そもそも論をこのブログではよくするけれどそもそも論を言ってちゃぶ台をひっくり返すのはご法度になっているのだ。それは政治の議論においても変わらないがもっと広義にも言えてなぜ生きるのかとか、なぜ一夫一妻なのかとか、なぜ物を盗んではいけないのかとか、なぜ女性の社会進出をすすめるのかとかひっくり返して理念的な意味を問おうとすると必ず感情的な反発がかえってくる。

みんな駄目なものは駄目だと幼児のころからおそわるのでなぜ駄目なのかを考える必要がない。なので何が駄目か考えて決定するような政治的思考を要求される場面がない。なので国民はからっぽだと批判されてきた。いかにからっぽか、いかに「可愛い」か、いかに被害者か、いかに奴隷かという主張をみなしている。からっぽ競争に社会がさらされている限りはシステムを構想しうる政治が民主主義のプロセスによって出てくることはないだろう。

おそらくは三島由紀夫が生きていた時代よりもはるかに僕たちはからっぽになっている。ほとんど何も考えていない。政治がどうしようがそのシステムのなかでふるまうことをはじめに考える人ばかりである。そういう思考は奴隷そのものであって

冒頭のツイートに戻れば

「自分は自民を支持してるわけじゃない」とエクスキューズしながらもどんな条件であれ決して自民以外を支持することがない

エクスキューズしないでなにか言うと加害性を持ちかねないからね。奴隷という被害者ポジションを維持できなくなるのでエクスキューズは奴隷にとってとても大切な枕詞になる。

奴隷になりたい国民と奴隷に支持される自民党

それが今日まで続く自民党と国民の「主従関係」の正体だと思っている。