メロンダウト

メロンについて考えるよ

学問としての麻雀~麻雀は人文学のものか、統計学のものか、あるいは天鳳鳳凰卓雑感~

またまたいつも書いているような記事とは全然関係ない記事です。こういうのも書いていこうと思います。こういう状況なので政治について書くこともあるにはあるんですけど、菅政権はもはやだれがどう見ても駄目なので批評するまでもないというか

記事を書く時はいちおう読者さんの気づきになるかもなと、すこし意識して書いてみたりするのですけど気づく気づかないのレベルではもはやなくなってるんですよね、政治は。なのでちょっと別の話題です。

麻雀に関して書かれた増田があったので僕もちょっと書いてみようかなと

anond.hatelabo.jp

 

麻雀、けっこう好きで遊んでるんですよね。ネット麻雀も普通の麻雀も学生のころからやってたりします。徹夜麻雀とかはさすがにやらなくなりました。もう体力的にできそうにないですが。

 

それはそうと麻雀に関して常に議論の種になっているものがあります。

それがタイトルにも書いた通り、麻雀は統計学のものなのか、あるいは人文学のものなのかというものですね。麻雀に関して人文学という言い方をすることはあまりないですが、学問的に分類すればそうなるのかなと思っています。麻雀が人文学とはどういうことかというと、いわゆる「人読み」と呼ばれているものですね。麻雀は対人戦なので相手の打ち方を知っていると押し引き(危険な牌を捨てるかどうか)の指標になったりします。

一方で麻雀は統計学のものだと考えられることもあります。というか今はこちらのほうが主流ですね。牌効率と呼ばれるものが代表的です。例えばイーシャンテンにおける両面固定でシャボを捨てて安牌を残したりターツオーバーで6ブロックに組んだりする(知らない人から見れば何を書いているのかわかりませんね)のは統計的には不利だとされています。

最初に統計で麻雀を解析しだしたのがたしかとつげき東北さんが最初だったように記憶していますが、それから統計やデータに基づいた打ち方が主流になり、今日のデジタル麻雀と呼ばれるものとなりました。

 

ざっくり分類すると人読みに特化した人文学としての麻雀と、統計やデータに基づくデジタル麻雀とに分けられますけれどこれが麻雀の面白いところなんですよね。デジタルだけでは成績が頭打ちになり、人読みを行おうと思うと牌効率を曲げてしまいその読みが結局は成績を悪化させてしまうといったことがあります。このバランスが非常に難しい。科学的・統計的な観点から考えるに、たとえばりんごは木から落ちる。絶対に。

統計はその事実から考えを組み立てていくものだと思いますが、人文学的に考えればりんごが木から落ちないこともある。それが厄介なところです。たとえば麻雀では1・9牌をチーした瞬間に役牌かホンイツを普通は疑います。相手がアガリに向かうだろう(=リンゴは木から落ちる)ことを大前提に思考を組み立てるので役牌およびホンイツ、稀に三色や一通を疑います。なのでこちらは役牌がドラだった場合に打ち出さない(もちろん手牌や状況によります)ことになりますが、いっさいアガリに向かわない鳴きを入れてくる人がたまにいます。その時に手を曲げると相手のブラフに降ろされることになる。ポーカーでいえばブタで強気にレイズしてくるといったことが麻雀でもたまにあります。相手が極度に守備的な打ち手の場合、または他家が振り込めないような点棒状況のばあいに有効だったりします。そういった意味でリンゴが木から落ちる=相手がアガリに向かってるとは限らないのが麻雀の面白くも難しいところなんですよね。

だからこれだけデータや牌効率が周知されている今でさえ強い打ち手と弱い打ち手、または守備的と攻撃的に分けられることになります。

 

こういった人読みと言われるとリアルな対人戦を想定して考えられがちです。上記の例のようなクソ鳴きを仕掛けてくる人はそうとう限られていますが、戦術という意味では誰が相手かわからないネット麻雀でもあったりします。

ネット麻雀といえば天鳳が有名で僕もやっていますけど天鳳は上卓、特上卓(4段~6段)、鳳凰卓(7段~天鳳位)とに分けられていてそれぞれ戦術を変えたほうが成績を残すことができたりします。攻略の仕方といったほうがいいかもしれませんね。

たとえば上卓では2シャンテン以下はすべて降りて面前で張ったら即リーチだけでいけます。天鳳では4着しかポイントがマイナスにならないので押し引き判断が荒い上卓では誰かが勝手に振り込んでラスになってくれるためです。

特上卓はデジタルによる牌効率と押し引き判断、あとはざっくりした鳴き効率でいけると思いますが、6段から7段になる際はけっこう大変です。

問題は鳳凰卓ですね。僕も長いこと鳳凰卓で遊んでいるのですけど8段止まりで攻略してるとは言えない前提で、あえて書いていきますけど

ますはじめに、最初に鳳凰卓にきた人がやらかしてしまうのがオリすぎてしまうことですね。なんだかんだ上卓と特上卓は迷ったらおりていればなんとかなってしまうんですが鳳凰卓ではそんな単純にはいかないことが多いです。その点で戦術=人読みも変わってきます。

あとはけっこう逆張りが効くことがあります。たとえば親がラス目の場合、天鳳ではとにかく親を蹴ってしまうことがセオリーとなっていますが、わきの他家2人がそう考えると2人は牌効率よりも速度重視であがりにいくことになります。素点よりも速度を重視している点で脇2人は手を曲げている可能性が高くなり、自分だけ通常の牌効率で打てば優位に立ち回ることができたりします。もちろん3人がそう考えると親が連荘する可能性があがり、3人のラス率があがることになるのでセオリーではないですが逆に打つことが時に優位になることがある。それも鳳凰卓ではこう打つだろうという人読みの部分ですね。

あと鳳凰卓で長いことやってると面白いのが戦術のトレンドがあったりすることです。昔はとにかく鳴き重視で満貫のテンパイよりも1000点であがってラスを回避するのが主流でした。このころに天鳳とリアル麻雀の違いがけっこう話題になったりした記憶があります。麻雀はとにかく面前リーチだというのが昔からの主流でしたけどそうではない麻雀を示したのが天鳳だったように記憶しています。なので当時はとにかく堅守速攻で1000点2000点をあがりにいく。それが鳳凰卓のトレンドでみんながそうしていたのでひとりだけ面前で重くすすめているとジリ貧になってラスになる。そんな状況でしたが、今はもうそんなことはないですね。今は鳴く時は鳴く、鳴かない時は鳴かないという牌効率が主流なので素点効率が悪いスピード重視で打つと逆に打点不足になったりします。

ネット麻雀における戦術レベルでもやはり人読みは存在しますし、麻雀は単純に統計だけで切り取れるものではないんですよね。繰り返しになりますがだからこそ面白い。

4人ていうのがミソなんですよ。2人だと完全な牌効率ゲームになってしまいます。他家がいることで逆張りが効いたり牌効率を曲げることが必要になったりする結果、かなり複雑なゲームになる。

 

というわけで麻雀は統計をベースにしながらも人文的に考えてこそのゲームだということが言えます。

リンゴが落ちる木があったとしたらみんなリンゴを食べにそこに集まるだろうということを予測してみかんの木を独り占めできたり

リンゴが木から落ちないこともあるし、明日にはそこにリンゴの木がないかもしれない。そういう妄想を膨らませた結果、逆に取るべき時にリンゴを取れなかったりすることもある。変に人と違うことをやろうとして牌効率を曲げてしまったり変なオカルトが生まれたりするのですけど、それでもやはりリンゴの木を見てるだけでは勝つことができない。

それが麻雀の面白いところなんですよね。

進撃の巨人が連載終了するけれど進撃の巨人ロスの人にはゲーム・オブ・スローンズをオススメしたい

 ついに進撃の巨人が連載終了するみたいで、大変かなしい気持ちと同時にラストはどうなるのかといった期待がいり混じっている。

進撃の巨人のストーリーはいまさらここで書くまでもないけれど、巨人が攻めてきて人間がそれになんとか抗って奮闘していくと思ったら巨人と人間にはかなり深い物語があってといろんな感情が入り乱れていく点で目が離せないものになっている。

僕が大人になってから連載を必ず毎月読んでいたのは進撃の巨人だけかもしれない。なんにせよ大変面白い作品なのは疑いようがないのだけど、進撃の巨人と同じかそれ以上に面白い類似作品にゲームオブスローンズがある。進撃の巨人ロスになるであろう人にぜひともゲームオブスローンズをおすすめしたい。

進撃の巨人とゲームオブスローンズはかなり似ている部分がある。それを紹介したい。

まずはじめに「壁の存在」である。

進撃の巨人の世界では人類を巨人から守るための3つの壁(シーナ・ローゼ・マリア)がある。壁に守られた世界で主人公のエレンが自由を求めて壁の外に出ようとするのが作品の大きなテーマとなっている。

一方のゲームオブスローンズでは人間とゾンビを隔てる大きな雪の壁がある。壁の北側にはゾンビや幽霊が存在していて、それらの侵攻を防ぐ盾となっている。これだけでも進撃の巨人が好きな人はハマルと思う。その壁をナイツウォッチと呼ばれる人々が守っており、そこでさまざまなドラマが生まれるわけだけどネタバレになるので詳細は省かせてほしい。

人間とそれ以外を隔てる大きな壁という設定にはものすごくワクワクするものがある。僕はゲームオブスローンズよりも進撃の巨人を先に読んでいたのだけれど、最初に読んだ時、大きな壁に囲まれて人類が暮らしているという設定だけで興奮したのを覚えている。

なぜ壁の存在に興奮するのか、その理由を考えるに壁の外側の世界は人間が自然を征服する以前の状態に近いからではないだろうか。いまの人類は食物連鎖の頂点に立っているけれどそれ以前の人間は自然の一要素に過ぎなかった。自然を超克して生活しはじめたのはここ何百年余りのことであるが、それ以前は自然と人間がないまぜになった世界に人類は生きていた。不合理な脅威としての自然と共に生きるのが当たり前の世界で、現実においてのそれは自然だったけれど、進撃の巨人とゲームオブスローンズの世界においてそれはゾンビだったり巨人だったりの理不尽なものに置き換えられて描かれている。それも今を生きる我々と同時期にそこにある。

つまり壁の中の人類が今の我々(文明後の人類)であり、壁の外が過去(文明以前)として対比されているのが両作品の大きな魅力になっている。今の我々が過去にたちむかいながら未来を勝ち取っていく。この作品の構造はとても斬新だ。

一言で言えば「近代文明の再構築」が大きなテーマなのだ。そりゃ面白いよなと。さらに言えば、今(文明後の世界)と過去(文明以前の世界)が同じ世界に存在しているところが大きなポイントになっている。進撃の巨人の世界では壁の中で人類が暮らしており、何百年も壁がやぶられることはなく、巨人の存在もほとんど忘れかけているほど平和な世界であった。それはいま僕達が生きている世界とまったく同じである。壁の中で何百年と平和に暮らしている人々の心境と今の我々の暮らしはまさに同じだけれど、違いは壁の外に文明以前の世界が存在しているところにある。現実の僕達は今を生きるしかなく過去を体験することはできない。しかし進撃の巨人の世界では今の外に過去があるのだ。タイムリープがある作品では今の人物が過去に行くことが描かれることはあっても過去の世界がそのまま今にやってくるといった構造はなかった。さらにさらに進撃の巨人の面白い点が「今だと思っていた我々が実は過去だった」点にもある。その大転換が描かれているのがアニメ三期以降になっている。過去のそのまた過去ではエルディア人(壁の中の人類)のほうが世界を意のままにするほどの原始的な暴力を所持していた。そうやって今と過去が転換していく。

それが進撃の巨人の面白さなのだと思っている。その世界線を生む大役を担っているのが壁の存在なのでしょう。

 

また、本来は抽象的なものである自然=過去を実存的な存在としてあらわすのに巨人やゾンビを用いている。なので駆逐すべき対象としてよりクリアに見える。それはエレンの母親が巨人に食べられるシーンがそうだったりするけれど、自然というコントロール不可能で人間のちからでは抗えない存在=自然を巨人に置き換えることでより明確に克服すべき対象として認識しているのだ。

ゲームオブスローンズの世界にも同様の構造を見ることができる。壁の北側にいるゾンビがそうである。ゾンビという死者はまさに死を象徴する存在で克服不可能なもの=自然=死という図式となっている。壁が生死そのものを隔てるものとして存在しているのだ。そしてその壁が・・・と書きたいところだけれどやめておきます。ゾンビと壁と人類がどう関係していくのかは巨大なネタバレになってしまうのでここでは伏せさせてもらいたい。すすめといてネタバレしてたらめちゃくちゃだしね。

とにもかくにも巨大な壁の存在は無力な人間が世界を開拓していくという近代の再構築を想起させる点でとても面白い設定となっている。そして物語の中でその壁に意味が乗っかっていくところも両作品ともにある。見ていない人はぜひその物語を見てもらいたい。特にゲームオブスローンズは日本で見てる人があまりいないうえにものすごく面白いので強くおすすめしたい。と、いつも政治の話などしているこのブログで書いてもしょうがない気もするけど(笑

とはいえいつも書いている政治が両作品の主題でもある。

 

2つめにある共通点が「政治」の面白さだと感じている。

 進撃の巨人ではエルディア人とマーレ人、そして壁内人類と壁外人類の関係が描かれている。

ゲーム・オブ・スローンズでは鉄の玉座と呼ばれる世界の王を決するため7つの国の領主による覇権争いが繰り広げられる。

両作品ともに国ごとの利害関係、策略や陰謀などによって個人がふりまわされていくのが大きなテーマでもある。愚かな為政者や世界の構造によって個人の人生が決定してしまう。進撃の巨人ではマーレ軍の戦士となるライナーが代表的な政治の犠牲者として描かれている。幼少期に反エルディア思想を植え付けられたライナーは世界を救うためという大義のもとに巨大な罪をおかし、その罪に苦しめられることになる。他のキャラクターも同様に政治や世界に巻き込まれていく点で政治の残酷さと人間の弱さをあぶり出している。その不条理さによって興味深い作品となっている。その人間の弱さを代表するものが以下ケニーのセリフだった

「今なら奴のやったこと わかる気がする

 俺が見てきた奴ら みんなそうだった

 酒だったり 女だったり 神様だったりもする

 一族 王様 夢 子供 力

 みんな何かに酔っ払ってねぇと やってらんなかったんだな

 みんな何かの奴隷だった あいつでさえも」

 

 

個人の強さで言えば最強クラスのケニーでさえ弱い人間だった。ケニーが「あいつ」と呼んでいるのは壁内の前王様だけれど王様でさえ奴隷だったとケニーは言う。政治や世界の残酷さの前には人間個人なんてどうしようもなく弱い存在なのだと。このような思想は作品を通して一貫しているテーマであるように思える。

 政治という暴力、世界という理不尽、その中であがく弱い人間。政治を描いた作品は他にもたくさんあるけれどこれほどまで「端的」に描ききる筆致のすごさは進撃の巨人ぐらいのものではないだろうか。

一方のゲーム・オブ・スローンズにおいて政治はどのように描かれているかといえば血筋であったり義理であったりといった部分をベースにしながらも、人間関係を焦点にして政治が描かれている。つまり外交戦略が大きなテーマとなっているのだ。ゲーム・オブ・スローンズの世界ではかなり多くのキャラクターが出てくるのだけど、キャラクター同士のコミュニケーションがそのまま政治的な足がかりとなる場面が数多くでてくる。進撃の巨人のように政治そのものの暴力性を描くのではなく、ゲーム・オブ・スローンズでは政治戦略のリアリティーと呼ぶのがてきとうかどうかわからないけれど、徹底して「政治における人間関係」に焦点が置かれている。

なので誰と誰に貸しがあって、誰と誰がどんな場面で一緒にいて、どんな歴史があるのか、どう関係していくのか。そういった個人と個人の関係性を焦点に見ていくと大変おもしろい。その関係性があったからこそ、こういう政治的な決定につながっていくのかというふうに面白さが後からくるようになっている。それは漫画における伏線ともまた違うもので、その関係性がなければこういう展開にならないよなといった物語の蓋然性に接続していく構造になっている。それがゲーム・オブ・スローンズの最も面白いところであったりする。最初見始めた時にはこの人誰だっけとか、7つも王国があるものだから話があっちこっち飛んだりしてしまい、見るのを途中でやめてしまう人もいる。それが日本でゲーム・オブ・スローンズが敬遠される理由でもあるのだけど、そういう関係性を逐次覚えながら視聴するとあとで面白さがドカンとくるようになっている。なのでシーズン3まで見たら止まらなくなる。

一般に海外ドラマはシーズンがすすむごとにだれてきてしまいがちだけれどゲーム・オブ・スローンズはその逆でシーズンが進むほどに面白くなっていく。

放映自体は終了してしまったけれどサブスクなどの配信サービス(アマゾンとhuluかな。ネットフリックスは見れなかった)で見れるので進撃の巨人ファンでゲーム・オブ・スローンズを見てないよという方がいたら見てみると良いかもしれません。

ちょうどコロナで暇だしね。

新型コロナウィルスについて「想う」こと

2回目の緊急事態宣言が始まったわけだけど・・・内容を見るとあまり効果はないだろうね。

病床も既に埋まっているし、これからコロナに罹患すると自宅待機で生きるか死ぬかみたいな状態になることは必至なのでしょう。そう考えると今が一番やばい状況なのだけど、普通に外出している人がけっこういる。政府もメディアも「注意」を喚起しているだけで、「恐怖」を感じるほどの状態ではなくなっている。1回目の緊急事態宣言の時には怖がっていた人が多かったように記憶している。けれどコロナにかかっても意外と死なないと思い始めたのか、あるいは単に慣れたのかわからないがその恐怖心はどこかへいってしまった。ただ注意するだけになっているのが現状で、これからそうとうひどいことになるのはおそらくすでに確定している。

第一波の時に欧州諸国やニューヨークのように大量の死者が出なかったのはみんな恐怖で自宅にひきこもっていた結果、医療崩壊まではいかなかったからで、日本で市中蔓延及びオーバーシュートした場合にどれだけの死者が出るのかはいまだわからないままなんですよね。成功体験によって緩んだ結果、よりひどいことになる可能性もあるし、ファクターXならぬ要因でまたなぜかおさまっていくのかどうなのか。いずれにせよ大量の死者が出ない限り、4月の時のような自粛ムードにはなりそうもない。

状況は何も変わっていないどころか、むしろ悪化しているのにこれほどまでに人々の心性が違うのはどういうことなのだろうか。自分のことに照らして考えるに、結局のところ自分の年齢であれば死にはしないだろうとわかったのが大きいように思える。後遺症などの情報はあるにせよ死にはしないと。それだけでずいぶん心に緩みが出てくる。理解可能かどうかではなく生死というボーダーラインを超えはしないという安心感が恐怖心をおしやってしまっている。なのでもはや死亡者が大量に出始めないかぎり変わらないのだと思ってしまっている。

 

コロナによっていろいろと見えてきたものがあるのでここに書きなぐりたいと思う。

はじめにこの時代の平和について

50年ごとに時代を区切った場合に、これほどまでに平和な時代はかつて無かった。平和といっても震災があったしサリン事件もあった。昭和までさかのぼればあさま山荘事件やら日航機のハイジャックなどあったけれど、国民全員を巻き込んだ戦争は起こらなかった。それ自体は大変良いことなのだけど、だからこそ危機感にたいして鈍くなってしまったのではないかと思う。

人生や自然にたいする戦慄のようなものを考えた時に僕たちの心性はあまりにも無防備で、コロナにたいしても未知のウィルスとしてはじめは恐怖したもののいまや既知のものとして現実に組み込んでしまっている。ウィズコロナといった言葉もある。コロナはただの風邪だといった言説もあったし現実の一要素としてコロナを受け入れ始めるようになっている。理解可能(と思えるように)になった瞬間に恐怖心はどこかへいってしまって怖がることをみんなやめた。まだ医療が崩壊した場合の被害実態は出てきていないのにである。今のような状態を見ていると東日本大震災を思い出してしまう。僕たちは津波から街を守るために堤防をつくった。堤防があるから津波がきても大丈夫だという仮初めの安心のもとに生きていた。港に町をつくり、そこで生活していた。あの時も津波があんなに簡単に堤防を乗り越えてくるものだとは思っていなかった。

コロナに照らし合わせて考えるに今はまだ堤防が決壊していない状態だけれど、津波が押し寄せてくることはすでに確定している。堤防はもはや機能していない。東日本大震災から10年の今こそ思い出すべきであろう。あの時、堤防が決壊してすべてが飲み込まれたあの光景を忘れるべきではないはずだ。

それが理解して恐怖するということで、仮初めの堤防に守られた町で生活することが危険だというのは教訓としてすでに知っているはずだ。未知のものにたいする恐怖心を持つことは動物的な機能だけれど、過去に学ぶことができる人間だからこそ「既知のもの」にたいしてこそをきちんと恐怖すべきではないだろうか。戦争がなく、実体験として学ぶ機会もない平和な時代に生きているからこそ、悲惨な過去から学ぶべき「恐れ方」もあるはずであろう。

 

 

なにかいい感じに書ききった感があるけれどふたつめもあります(笑

「加速主義」について

よくラジオなどを聴いたりしている宮台真司さんがたびたび加速主義という言葉を使って社会批評を行っている。社会がダメになった時に人々は輝くので社会を加速度的にダメにすることでスクラップ&ビルドするのだという、一見するとかなりラディカルな主張なのだけどわからなくもない。ようするにテクノロジーやら法律やらシステムによって飼いならされている限り人間個人が主体的な活動及び思考をはじめることは難しいので社会がダメになればいいと。書いてみるとけっこう無茶苦茶だな。

宮台さんはマックス・ウェーバーなどを引用して法律や官僚制などのシステムは鉄の檻と呼ばれるものだと言う。鉄の檻とはシステムや社会構造そのものを指しており、その中にいると人々は自らそこに安住してしまうために人々はダメになっていくといった意味として使われている。

よく聞く言葉だと権力は腐敗するといったもののほうが有名だけれど、権力に限らずとも権力やシステムの内にいるかぎり人々はそこに留まってしまうのでその権力及び鉄の檻が破壊された時に人間はもう一度人間を始めるのだという。

これは主張としてはとても賛同できないと思っている。思想的統治主義みたいな側面が強く、自由に反しているのが理由で反対したい。しかしながら人間と社会の関係としてそういったもの(鉄の檻)が「在る」というのはものすごくよくわかる。閉塞感と呼ばれるものもその典型だけれど 。

結局のところ今の社会はなにもかも固着してしまっていて、それは政治における選挙制度(供託金や小選挙区制によって事実上党執行部の指先三寸で候補者が決まることなど)もそうだし、ピケティが書いたような経済的格差の問題も、あるいは親の収入によって決定される教育格差の問題もそうで、それを加速度的に一度ぶっこわせばいいのだというのはわからなくはない。僕個人はむしろぶっ壊れてほしい側ですらあるのだけど、それをやった時にはたして「主体性」なんてものが回復するのだろうか。そこに疑問が残る。必ず社会が良くなるというのであれば加速主義もけっこうだけれど、失敗した場合のリスクが大きすぎる。

日本は第二次世界大戦の時に一度ぶっ壊れたけれどいまだにアメリカ追従路線をやめていない。その意味で政治的主体性は戻っていないし、いわゆる戦後レジームというやつの脱却もなしえていないように見える。いずれにしろ社会をスクラップ&ビルドするのはものすごく大きな不確定要素を含むので簡単に賛同できるものではない。それがいかに論理的に妥当に見えたとしてもである。

それは新型コロナウィルスにも言えて、コロナウィルスは社会の新陳代謝みたいな言説はそこかしこで見ることができる。コロナにかかって亡くなるのは高齢者ばかりなので少子高齢化社会においてコロナが蔓延するのは望ましいみたいな、アレな意見である。

今の日本の経済的・社会的問題を解決するのに最も簡単な方法は高齢者にいなくなってもらうというのはすこし考えればわかることで社会福祉の問題にしてもそうだし、高齢者の預貯金を流通させるにしてもそうだ。高齢者が保有している資産を社会に還元することで良くなりはするであろう。それは加速度的によくなるはずだけど、そうやって社会が良くなることを僕たちは望んでいないということをもう一度確認したい。まずもって今の世代が高齢者にいなくなることを望んだとして、僕たちが高齢者になった時に下の世代からいなくなることを求められた時にどうするのかという問題がある。もっといえば単に人権に反する。人権を守るには人権を守るしかないと、確かはてなブログのwattoさんがもう何年も前に書いていたけれど、社会はそういう新陳代謝でまわるようにはできていないし、それはコロナにおいても同様にそうである。命を守るには命を守るしかないという至極当たり前のことを想う。加速主義が望ましいかどうかといった社会のことはそれから考えればいい。社会を俯瞰で見て論理や妥当性に縛られて考えた結果最も大事なものを手放してしまうというのはよくある話で、宮台さんがそうだとは思わないけれど、いずれにしろ加速主義みたいなコントロール的で統治主義的なやり方を僕たちが許しはしないだろうと思う。それはコロナに関する議論を見ていて思うことでもある。

一回目の緊急事態宣言の時にはみんな自粛していたし、コロナへの警戒心が緩くなった今ですら箱根駅伝の沿道で応援する人も例年の15%程度だった。一部自由に行動する人がいる中でも85%の人が自粛しているのを確認できたのは希望のように思える。

それでもコロナウィルスにたいしてはまだ全然足りないのだろうけれど、もうそれでいいのではないかとすら想いはじめている。まだこんなにも自粛する人がいるのだからそれははっきり良い人々と言っていいのではないだろうか。

そうなっているのは日本人特有の同調圧力のおかげでいまだに日本人はシステムやメディアがつくる鉄の檻の中にいるのだと、そう考えることもできるけれどいずれにせよ高齢者を感染させて社会を新陳代謝しようといったもの(コロナを利用した加速主義)には与しなかった。それだけでもう良いのではないかと思い始めている。主体性とかなんやらの話もわかるけれどこれだけ高度に複雑化した世界で主体性なんてものを確立したとしてどこまでその主体性を保持できるのか。そんなあきらめすらある。

だからもうコロナを利用した社会の新陳代謝みたいなものには与しないぐらいの「その程度」でいいのではないだろうか・・・そんなことを想い始めているのだ。