メロンダウト

メロンについて考えるよ

サンデルと白饅頭、権威主義への迎合、観念の分断、あるいはシッキーについて

以下記事を読んで書籍を購入したのですが、読む前に所感らしきものを書いておきたい。すこしだけ長いです(6000文字ぐらい)

www.hayakawabooks.com

 

前提として日本とアメリカの状況が違うことは留保しておくとしても、リベラル的価値観が能力主義、学歴偏重主義に依存しているのは共通するものなのでしょう。

資本主義社会において唯一残された「振り分け機能」が能力及び知性であることは疑いようがなく、知性や能力(に紐づく学歴や実績)によって或るポジションが与えられるのは適正だという正義によってこの社会は成り立っている。もちろんこれが正義なのか暴力なのかは慎重に考える必要があり、それを議論してるのがリベラルコミュニタリアン論争なのでしょうが、学術的なそれとは別にメリトクラシー能力主義)が現実的には「単に差別として機能しているよね」と言えなくもない。あるいは、仮にその振り分けが「資本主義社会において妥当」だという結論が人文学的な議論を経て出たとしても、それがすなわち現実を規定するとは限らない。平等という考えが独り歩きして「平等な競争の結果起きた格差は適正」という思想が蔓延してしまうこともある。そしてそれが差別を生むこともある。アメリカでは事実としてそのような事態になっている。サンデルの書いていることもこうした現実にたいする正義からの応答なのだと思う。つまり、能力や知性が評価されるのはこれだけ高度に資本化した世界では避けようがないけれど、その価値基準は逆説的に「そうではない人々」への差別として現前してくる。そのバックラッシュにたいする警鐘がおそらく、今回の著書なのでしょう。

平等やメリトクラシー能力主義)を社会から失くすべきかという議論ではなく、平等の傲慢さに光を当てることが「正義にかなう言論」であり、それを社会は知るべきだという論旨だと思われる。

なぜなら、サンデルに限らずとも社会正義や平等に関する議論はすでに行われており、機会の平等はいかにして達成されるべきかという議論はすでにされているからである。すこしだけ触れておくと、たとえば教育機会の平等を与えたとしても生まれた家庭の収入が違うため、生来のポテンシャルが同一だとしても環境によってその才能が開花するかに差がついてしまうことは広く議論されている。あるいは平等を達成しようとすれば政府による再分配によって教育への投資を平均化する必要が出てくるが、これは自由とは反する平等となる。さらに言えば「遺伝子の平等」を達成できない以上、メリトクラシー能力主義)は不平等に着地するしかないという批判もある。真の平等が達成できない以上、「不運を救う」機能が社会的に必要であったり、平等とは違う価値観である多様性を持ってして個人を認めるリベラリズムが必要になってくる。

おそらくサンデルが問題視しているのは「不運」の部分なのだと思っている。不運な個人は救われるべきだと考えられている一方で、「怠惰」な個人は顧みられない。カズオイシグロ氏も言っていたように怠惰な個人を掬わない点において、多様性は横にしか機能せず、縦には機能しない価値観なのであろう。

つまるところ機会の平等は怠惰を掬わない点にリベラルの思想的弱点がある。

そのような現実は以下の記事でもすでに書かれている通りとなっている。

バイデンでは癒せない米国の分断とハイパーバトルサイボーグ達|畠山勝太/サルタック|note

ハーバードやイエール大学の学生の保護者の平均年収が、日本ではちょっと考えられないほど高い事は有名ですが、そういう保護者達が、全ての子供が等しく良質な教育を受けられるように税金を支払うのではなく、大学への寄付を通じて、自分達の子供だけが良質な教育を受けられるようにしているわけですが、そんな大きな特権を受けられるわけですから、「勤勉であるから」といった洗脳なしには、特権を受けられる自分と受けられないその他大勢との差に疑問を持つのが普通の人間というものでしょう。しかし、この洗脳には致命的な副作用が伴います。なぜなら、勤勉ならば特権を受けるに値するの裏返しをざっくばらんに言えば…、

勤勉でない連中はクズだ

だからです。リベラルが反リベラルを見下していて鼻持ちならない正体はこれです

 

 この記事でwell deservedという価値観が示されているけれど、まさに怠惰な個人は努力不足であるとして切断するのがリベラルの傲慢さだと言える。リベラルが幻想する世界において、人間の機会は平等であり、結果としての格差は甘受すべきものとして扱われている。そのような価値基準がアメリカでは深刻な分断を生んでいる。実際にアメリカでは尋常ではない経済的格差や社会階層の断絶が存在する。この点において、リベラルの傲慢さ及びそれを下支えしているメリトクラシーアメリカにおいてかなり重大な論点だと言える。

しかしながらこれをそのまま日本に持ち込んで話して良いのだろうかという疑問は持つべきであろう。サンデルは決して日本のことを想定して著書を書いたわけではないはずである。ゆえに、日本の状況は我々が主体的に考えるしかない。サンデルを援用して日本も同一だとするのはそれこそが戦後敗北主義の悪習(宮台真司さん風に言えばアメリカのケツ舐め路線)でしかないのだから。

日本においてもリベラルが暴力性を持ちつつあることはこのブログにも何度か書いたけれど、アメリカのような社会階層の致命的な断絶や経済格差は日本においてはそれほど見られない。あるいは思想的枠組み、価値観の対立というやつも日本ではそれほど致命的な差ではない。もちろん経済的格差は日本でも広がってきており、社会階層の断絶もゾーニングを筆頭に推進されてきている。あるいはもっとベタに個人主義として人をバラバラにするリベラリズムのそれはアメリカよりもひどい可能性がある。しかしながら政治的対立という側面で見るにそれほど深刻な差は出ていない。

以下三浦瑠璃さんが日本人の価値観を調査したものを例に出すと

日本人価値観調査2019

https://yamaneko.co.jp/web/wp-content/uploads/e561d6435c82302b9ccc475bb42eb36f.pdf

こちらのPDF28ページに支持政党ごとの市民の価値観を示したグラフがあるけれど、それによると日本では支持政党ごとの価値観の対立はほとんど無いことがわかる。アメリカで同様の調査をすると共和党民主党で明らかな差が確認できることから分断が見て取れるけれど、日本における分断は「現実には」それほど存在しない。この意味で日本においてサンデルのようなある意味過激な資本主義批判によって社会の分断を回復しようとすれば、それ自体が分断を生む原因となる可能性もある点で注意したほうが良いと思っている。

もちろん上記PDFは価値観の分断はそれほど起きていないことを示している一方で、我々は現実に分断を感じている。それはいったいなんなのだろうかということを見通す必要はあるだろう。

日本における分断の議論はかなり複雑なもので、様々な論点があるけれど、能力主義と関係して言えることは「観念による分断」及び「権威主義への迎合」ではないか、と思っている。

はじめに権威主義への迎合について書いていくと、日本においてのメリトクラシーはかなりの部分で権威主義と連動している部分がある。ひとつ例を出すとネット論客として知られる白饅頭氏がサンデルの能力主義批判とほとんど同じことを書いていることが挙げられる。彼の場合にはインテリ・リベラル・ポリコレエリートにたいする反論を主として展開しているけれど、その骨子に能力主義批判が内在していることはおよそ間違いない。

マガジン限定記事「EVIL文筆家が100万回言ってもダメだが、サンデルが1回言えばきっと意味がある」|白饅頭|note

差別反対と喧伝する、ポリティカルにコレクトなリベラル・インテリ・エリートも、差別とは無縁でいられるわけではない。なぜなら、いま彼らの立場を与えてくれたのは、能力差別・学力差別にほかならないからだ。しかし彼らは、自分たちに有利な差別構造に対しても、一貫性を持って反対を表明するすることはないどころか、むしろその差別を別の肯定的なワード(自由競争、機会の平等など)に置き換えて正当化する」

 「中国人差別発言」の火消しに追われた東京大学が掲げる「差別のない社会」の矛盾 (1/2)

「あらゆる差別のないことを目指す社会」においても、結局のところ無能には容赦のない差別が待っている。もっとも、これらもまた「差別」ではなく「経済活動の自由」とか「機会の平等」という別の名称があたえられるのだが。かりに将来的に、すべての人間の人権感覚があまねく完璧にアップデートされ「あらゆる差別のない社会」が実現したとしても、その社会には「(学習能力・事務処理能力など)能力による序列化」だけは歴然として残ることになるのではないだろうか。

 

 

サンデルとイデオロギー的に重なる部分がある。というかこれだけ読むとほとんど同じである。サンデル自身の主張の内容については著書を読んでみないとわからないが著書のレビューなどを見るに、重なっていることはおよそ間違いないであろう。

しかしながら白饅頭氏の言説はリベラル陣営からは一顧だにされていない。アンチリベラルとしての論陣で言えば白饅頭氏はサンデルのそれと同じ論旨でその言論を展開しているが、彼は「権威ではない」ためにリベラル知識人からはまともな議論として相手にされない。読み手側も同じ反応を示している。はてなブックマークの反応などは典型的なものであるが。

この現象そのものがすでに白饅頭氏が批判するところの能力主義と、それに連関する権威主義で世の中が回っていることを示している点で白饅頭氏の論を裏付ける形なのは、リベラルからすると度し難いものなのではないだろうか。

以上のような、誰の言葉であれば聞くべきか、誰の書く文章であれば読むべきかといったこちら側(読み手側)の含意そのものが能力主義に連動した権威主義となって能力主義をより強固なものとしていく。サンデルの言うことであればとこちら側が勝手に裏読みを開始して傾聴するが、白饅頭氏の書いたものであれば読むに値しないと考えている人は数多くいる。こういった「事前の値踏み」が権威への迎合そのものであり、それこそが我々の世界を能力主義たらしめている土壌ですらある。

その意味では政治哲学の権威そのものであるサンデルは自らの頭に手斧が刺さっている状態だと言える。ちょうどこのように。

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画像はしっきーさん( id:skky17 )のアイコンをお借りしました。最近はボカロ作曲してるみたいです。

しっきーのブログ

 

話を戻すと、大学においてもそのような権威主義能力主義は連関している。良い大学に入れば面接官がその大学の権威を勝手に信用し、学生にその権威を紐づけることで能力と連動させて考えてくれる。そのために大学に入る必要が出てくる。

人に何かを伝えるためには相応のポジションを確保する必要がある。それが能力主義で動く世界のルールとなっている。そのような成果を持ってして傾聴されるという事態は人々が無意識のうちに権威に阿(おもね)っているその前提条件が背景にあると言えるだろう。

このような事態は何も政治上の言論に限った話ではない。

芸能人の炎上ひとつとっても「テレビに出るのはふさわしくない」と言われ当該芸能人は降板させられるが、これは換言するに「権威の座にいるのはおかしい」から降板させられる建付けとなっている。これもまた権威は高潔であるべきだという権威主義ゆえの事態だと言えるであろう。さらにベタな例を出せば有名Youtuberがその収益で高級外車を購入したりする動画にもwell deservedの価値観、権威主義が見え隠れする。

サンデルは能力主義がリベラルエリートの傲慢さを醸成する点で批判しているが、日本の場合には権威主義に「迎合」することが問題の本質ではないだろうか。能力主義が経済的な分断を生んでいる側面は日本においても多分にあるけれど、それ以上に能力を権威と見なしている「こちら側の敗北史観」のほうが深刻のように見える。

 

権威主義への迎合は様々なところで見られるが、社会の分断を代表するものにいまのリベラルがある。リベラルは権威が好きである。「世界はこのようなことになっている、女性差別は国際的な枠組みで見るべきだ」といった具合に、事あるごとにその言論を権威と紐づけようとする。世界基準での価値観を援用して日本は遅れている。ジェンダーギャップ指数云々と様々言っているけれど、それはつまるところ「世界の趨勢という権威」にひもづけた比較論でしか物を言っていない点で甚だ権威主義的なのである。

しかしながら、権威に依存した言論を展開すれば理念の暴走を招くことになる。メリトクラティックな回路を持ってして権威を絶対視すれば個別ケースを瞬時に理念化し、脊髄反射的に発火することになる。最近のリベラルは常にそれである。ベタに言って話ができない。日本における分断とはつまりそれだけのことである。話をしないので権威だけが宙を舞っていてそれを選択的に崇め、奉っており、その権威に恭順を示すのが思想であるというめちゃくちゃな論理で物を言っている人を多々確認できる。

女性蔑視発言でもなんでもかまわないが、個別具体的なケースにたいして思考を放棄して理念的に発火するその権威主義がどうして分断を生まないと考えられたのであろう。

つまり、日本における政治的分断とは能力主義と連関した権威主義が暴走することによって生み出されていると言ってさしつかえないであろう。権威の絶対性をもってして政治的主張を開始すれば対話が不可能になる。その対話の不可能性が日本で分断が起きていると「感じる」理由だと考えている。実際には価値観の対立は起こっていないにもかかわらず権威主義によって対話が不可能になることによって分断されているかのように感じさせられているのである。

その権威主義をやめるために、その土壌となっているメリトクラシー能力主義は日本においても批判されるべきなのであろう。

 

こういった構造と繋げて考えるに、今の日本で起きていることは「観念による分断」だと言っておよそ間違いないと考えている。

権威を振りかざして対話を拒否する言論空間がある以上、「彼の象」を知ることができなくなり、みながみなを観念でしか捉えられなくなっている。それをもってして観念的分断が発生する。フェミニズムも男性を観念的にとらえ、その逆もまた観念的にフェミニズムに反論する。僕だってその例外ではない。ようするにどこからか持ってきた権威を振りかざす限りにおいて、何がその人の理念なのか不明なのである。「知」という権威を持ってきたり、世界という権威を持ってきたりすることによってみんな論証したりするが、そんなものは図書館に行けばいい話であって、ほんとうのところこの社会の何がどうなっているのかよくわからない。何がどうなっているのかわからないから、みながみな既存のイメージ=観念でしか物事をとらえられなくなってしまっているのであろう。

政治に限らずとも、たとえば昼間に公園を散歩している男性が通報されるといったニュースをたまに見るけれど、あれも「昼間にうろうろしている男性は危険」だという観念によって判断されている。対話をする前に観念的に判断されてしまう。

すべてが観念で集団を規定している以上、観念の外に開く想像力は必要とされない。そのような現況下において人々は孤立し、弱体化し、そうすることでなおさら権威に飲み込まれ、その権威がまた対話を不可能にしていき、さらにバラバラになり、観念による分断をいっそう強固なものとしていく。

以上のような状態なのでみなが分断を感じているが、しかし一方では政治的価値観の差異は現実にそこまでないといったアンビバレントな状態となっている。

 

結論として

日本における能力主義権威主義の土壌となっている点において問題だと言える。しかしながらそれはアメリカの分断とは違う意味の問題を孕んでいる。権威主義による政治の観念化、それによる「イメージの奔流」が僕達をバラバラにし、議論すらできない状態にさせている。これを解消するためには権威を持ち出すのをやめてまず対話することから始めないと「そこにありうべき分断」を確認することすらできないと言えるのではないだろうか。

保守としてのリベラル(解放)とは何か~弱者男性問題から考える共同体~

突然だが人格には四面性がある。集団的、公共的、個人的、私人的の4つである。これら4つの側面、その均衡によって人格は成り立つと、西部邁氏は書き残している。
集団的かつ公共的な側面において人はペルソナ(仮面)を被る必要があり、その一方で私的で個人的な欲望を持ち合わせてもいる。その均衡を持ってして社会的人格は成立する。昨今のネット論壇などを見ているに「社会的人格」などと書くとそれだけでマサカリが飛んできそうではあるけれど、昨今話題の弱者男性論もこの社会的人格が崩れていることに端を発しているのではないだろうか。そのように思えてきたのだ。

僕達の社会から共同体が失われて久しいが、それと同時に集団への帰属意識も失われた。さらにグローバリズムにより国家への帰属意識も失われた。概念としての共同体や国家が消えた世界では集団的かつ公共的なレベルでの人格を形成することは難しくなった。集団性と公共性が喪失した結果、僕達は私的で個人的な存在でしかなくなり、人格を形成する四面性を均衡させることができなくなった。均衡が崩れ、集団的な風習(コモンセンス)も消え失せたので個人の欲望が剥き出しになっている。
東浩紀氏が『動物化するポストモダン』を書いてからずいぶん経つけれど、我々はもはや社会的人格を持たない。動物としての個人が転がっているだけとなっている。そのきわめつけとして、個人的なことを直接政治に請求する「人権家」が現れることになる。
「保育園落ちた日本死ね」が最もわかりやすい例であるが、個人の問題を一足飛びに国や行政に請求するのは、もはや共同性という概念が考慮すらされていないからであろう。「女をあてがえ」も構造として同じ問題となっている。個人と個人の契約として成立する自由恋愛以外の術(共同的恋愛)がなくなった結果、女を国へ請求するという「動物的に飛躍した意見」が生まれることになる。
以上のような社会はもはや持続可能なのかという問いすら出てくる。個人の問題をすべて国や社会の問題と見なし、還元していけばいつか必ずパンクする。それは目に見えている。経済的にはもちろん、思想的にもである。
今でこそ悪習として知られるムラや共同体は何のためにあったのか、それを思い返すべきであろう。近代以前に戻れと言いたいわけではなく、「ムラの存在意義」を問い直すことで僕たちが今置かれている状況が逆説的に見えてくるはずである。
昨今話題の弱者男性女性論争に関しても重要な視点となるはずだ。

そもそもムラとは何のためにあったのだろうか。よく言われるのは、今のような生産体制のない社会では人と人が助け合う必要があるため、必要に迫られて条件的に存在していたというやつだ。近代になって生産体制が拡充され、インフラが整備された結果、個人がムラを必要としなくなったので皆ムラから出ていき、衰退した。これが通説であるが、いっぽうでこれは生活レベルにおける条件でしかない。ムラの機能はそれ以外にもあった。人と人を巻き込んでいく機能だったり、子育てにおける互助関係、婚姻を取り持つ関係などなど。そこで生活している以上のものがムラにはあり、その繋がりが個人の欲望を「変質」させていたのであろう。自らの欲望よりも共同体の存続に重きを置くという「望み」が上位にきたり、自らの原義的な性愛よりも物語の中に恋愛を見つけていたりと。共同体や関係性により個人が個人ではなくなることで、自らの欲望から解脱するという機能がかつての共同体の「思想的役割」であったのだろう。それは程度問題として今でも変わっていない。社内恋愛など同じ組織の中で恋愛が始まるのは今ですら一般的である。その意味で、共同体の機能を僕達は忘れてしまったわけではないだろう。
しかしながら共同体というと保守のものとして見られ、先進的なリベラルから見れば否定的に見られることが多い。政略結婚やお見合いなどを引き合いに出すことで、個人の自由と人権に反するという意味で否定的なものとして扱われてきた。いわゆるリベラル的観点から言えば個人の自由意志に重きを置いている為、ムラによる半強制的なつながりは敵だった。しかし共同体による関係性は「肯定的」につながっていた側面もある。否定的な側面も確かにあったけれど、そうではない側面もあったはずだ。
ようするに共同体の思想的役割は個人を関係性へと開く機能であった。個人が個人でいる限り個人は個人としての欲望しか持ちえないので、彼を関係性へと開くことで動物的な欲望から解放することができる。それを持ってして彼は人格の四面性を均衡させることが可能になり、「社会的人格」を持つことができる。
今はどうなっているかというと、多様性という旗のもとに個人の自由意志を認め、すべてを個人の自由とした結果、個人が個人のままゴロンと転がっているだけとなっている。すべての加害性を排除することで、かつての共同体がそうしていたような欲望の変質は暴力と言われるようになり、個人は個人のやりたいことをやり、生きたいように生きるべきと言われている。
しかし、そのような理想的社会とはようするに人間の動物的欲求をそのまま発揮させる社会でしかない。個人でいる限り、自由とはつまるところ欲望でしかないのだから、欲望の多様性を認めたところでそこに広がるのは動物園に過ぎない。そして、我々のような動物は社会という飼育環境に何かあると動物園の管理会社、つまりは国に直接請求することになる。そのような社会に無理がくるのは至極当たり前の帰結でしかないのだ。
一方で、我々は動物であって動物ではない。動物的欲望を変質させることで「善き者」へと変身することができる。それにはなにか媒介が必要であり、それがかつては共同体であったし、はたまたヘーゲルが言うところのナショナリズム、つまり国であった。そんな大きなものではなくても友人関係だったり恋愛関係だったりも欲望を変質させる機能を持つが、ようするに我々が個人でいる限り、国に管理され欲望を発散するだけの動物に過ぎないのだから、まずその「欲望の在り方」を見直すことから始めないと本質的には何も変わらないであろう。

このような欲望の状況こそが今議論されているような弱者男性問題に接続すると思っている。ここで言われている弱者がどこから来ているか考えるに、その起源は「動物を閉じ込める檻」がそのひとつとして数えられる。
リベラル的価値観によって個人がバラバラに分断されると共同体の人格形成機能が喪失し、欲望を変質させることができなくなる。また、欲望を変質させようと望んでもリベラル的社会においては他者に侵入できないので共同体やパートナーといった媒介を見つけるのが難しくなっている。ようするに動物的なものはリベラルという檻に閉じ込められ、管理されている。それが今の社会のありかたである。管理する側にとって望ましい動物(的欲求を持つ人間)であれば檻の外に出られるが、たとえば男性の性欲のような動物性は管理下に置かれなければならない。そのようなデザインへと社会を塗り替えていっている。ハラスメントやキャンセルカルチャーなど例をあげればきりがないが、このような構造が弱者男性の「思想的監獄」となっている。こうした構造がフェミニズムとリベラルが相性が良い理由であり、弱者男性論者とリベラルが対立する理由でもある。


このような檻から抜け出すためには動物であることをやめなければならない。ようするに人格を形成する媒介を取り戻すべきであり、社会がそれに応えるだけの土壌を持つ必要がある。それには檻を壊す必要が出てくる。もちろんそうなれば一定程度の諍いや衝突があるだろうけれど、人格の四面性に均衡というプロセスがある限り、一定程度の衝突は避けようがないし、避けるべきでもない。さもなければ僕達は人間ですらなくなってしまうであろう。

このような保守的なアプローチによって考えるべきなのはなにも弱者男性論に限った話ではない。

そもそもこの社会が持続可能なのかという最もクリティカルな論点だと思っている。


※蛇足
プラグマティズムに実存は本質に先立つという言葉がある。我々人間は本質(弱者性、男性、女性)が先にあるのではなく実存(身体)があるだけで、先天的には無であるという考えであるが、今となってみればこのような考え方がとても大切だと思っている。
女は女として生まれてくるのではなく女になる。男も男として生まれてくるのではなく男になるという観点から言えば、「変質性」を考慮しないで個人を「現在の個人」としてしか見ない今のリベラルのありかたはとてもじゃないが支持できないのだ。人間は動物であると同時に動物ではない。可変的な存在であるかぎり、社会が人間を変質させる機能を持つ必要がある。それが共同体の役割であった。その意味でプラグマティズムは保守を基礎づける考えでもある。そして人間は先天的に自由だという意味においてはリベラルを基礎づけるものでもある。
つまるところ人間は可変的だという想像力なくしては、保守もリベラルもその思想そのものが成立しないのではないだろうか。

ゾーニングに関する雑文

駅へと歩いていたら、前からタバコを吸いながら歩いてくる女性がいた。アイコスだったかgloだったか。いまどきめずらしいなと思ったけど、その女性は僕に気づくとタバコを隠してすれちがっていってしまった。

深夜で誰もいないと思っていたのか。歩きながらタバコを吸っていた女性。僕に気づいた彼女は吸うのをやめてしまった。僕が彼女の自由を邪魔してしまったことにばつの悪さを感じ・・・僕も路上喫煙してみることにした。

 深夜でほとんど人がいない駅前の繁華街。すこしわきに入れば完全に無人だ。歩いていき、コインパーキングに着く。空いたペットボトルを灰皿にし、タバコに火をつける。紫煙をたちのぼらせると、ひどく懐かしい感覚を覚えた。

ああ、昔はこうやって世界を接続していたのだ、と。

公的領域と私的領域は分けるべきだという議論がある。ゾーニングと言われるやつだ。エロ本などがその筆頭に挙げられる。喫煙もいまはゾーニングすべきものとして扱われている。他人に迷惑をかける行為をしてはならない。そういった行為はしかるべき場所で行わなければならない。最も基本的な社会のルールである。

私自身、基本的にゾーニングには賛成の立場であるけれど、疑問がないわけではない。なんでもかんでもゾーニングで解決しようとするのは切断処理に他ならないからである。ゾーニングは他人と自分とのすみ分けとして議論されているが、その射程は私たちひとりひとりの内心までをも捉えているのではないだろうか。そんなことを思うようになった。

公的領域と私的領域が混ざることで世界への視界が開けていくという側面が人間にはある。けだし肌感覚としての感想に過ぎないのであまり実のある話ではないことを先に書いておく。

路上でタバコを吸うように、公的空間で私的な行いをすることで、世界がグラデーション化され、混ざる。ひどく抽象的な言い方であるが、同時に肌で感じるような感覚でもある。私的空間と公的空間を架橋することで自己の外に歩いていくことができる。おそらくはそういう体験が人には必要なのだと思う。テーブルマナーがある店でマナーを無視して食事をしたり、路上で歌を歌ったり、飲みの席で上司にタメ口で話す無礼講だったり、公園で焚火をしたり、一見すると「悪い行い」をやった時にこそ見えてくるものがある。

最も有名なものがドストエフスキーの『罪と罰』で、主人公のラスコーリニコフが老婆を殺害してしまった時の葛藤が代表的であるが、「やってみなければわからないことはやってみなければわからない部分」が人間にはある。もちろんこれは殺人をしてみろという話では断じてない。ありえないとは思うが、絶対に勘違いしないでほしい。殺人の機微など一生知らなくてよい。

ここで言いたいのは、「悪行や路上喫煙など、愚かな行為をし、善悪の境界線に踏み込んだ時に見えてくるものがある」という回路の話である。

いわゆる愚かな行為こそが人間を開くものだったりする。それは誰もが体験的に知っていることではないだろうか。コミュニケーションひとつとって見ても、子供のころに言われて嫌な言葉だったり、相手を傷つけた経験だったり、そのような経験をもってして言葉の使い方に境界線を引くことができる。それがここで言う公的領域に踏み込むということである。

その意味で、愚かな行為こそが振り返った時に重要な経験だったりする。もちろん、このような話は相応の反発を招くだろう。愚かさに相対した人に犠牲が伴うので、それを擁護することはできないし、また擁護すべきでもない。はじめから愚かな行為をしなければ良いというのはその通りであるし、僕もそう思っている。しかし同時に「それは理想論に過ぎないのはではないか」といった疑念があるのだ。いじめをする子供などを見ていてもそう思う。人は元来愚かで、教育や経験によって人間になっていくと。

こういった経験を培うためには、社会的なグラデーションが必要であり、私的な行いが通念的に許されている必要がある。誰もいない路上でタバコを吸っていた女性は実質的には何も悪くはない。もちろん公的なレベルでは路上喫煙は駄目だとルール化するしかない。老人や乳幼児などがいる場合などと付帯条件をつけることは条文のうえでは不可能だからだ。不特定な他人がいる場所では吸わないのが正しい。しかしその公的ルールが法の枠を超えて通念化すると公的領域と私的領域が完全に分断されることになる。内と外に隔たりが生まれ、内的自己と外的自己が分裂し、世界が混ざらなくなる。そして誰も内外の境界線を「自ら」ひくことができなくなる。内外の境界線はゾーニングによってのみ決められていってしまう。

ゆえん生きづらさというやつもこうした構造と無関係ではないであろう。ゾーニングにより私的領域と公的領域が分断されると、世界に踏み込めなくなり、自分自身と外の世界を混ぜることができなくなり、経験が喪失し、自他の境界線をひくことができなくなる。そのような状態で、自己が自己に閉じ込められていることをもってして、息苦しいという状態に至る。さもなければ自己存在をまるごと公的なものへと変身させてしまう。日本すげえというネトウヨであったり先鋭化したリベラルがこれにあたるかと思うが、私的領域と公的領域の「相克」を乗り越える機会が現実に失われたことで、自他の境界線がひけなくなり、自己が「社会思想」と同一化してしまう。ベタな言い方をすれば究極のキョロ充と言えるけれど、私的領域が公的領域に完全に侵食された時、人間としての「身体性」は問題にされなくなり、身体性を無視した正しさを振り回すようになる。それをもってして先鋭化と言うのであろう。

その意味において愚かな行為と、それによって描画可能になる自他の境界線、そして身体的現実感、そして社会思想とは連続していると言える。歩きたばこしている女性を見てそんなことを考えていた。